第百八十三話 屋台で出す料理を試作するよ でござる その一
「うーむ」
厨に籠もり、目の前の食材の山を前に唸る。
もちろん男にありがちな、包丁が使えないとか、そういう理由ではない。異世界トリップを夢見た時に、死ぬほど練習をした。だからプロの調理師のようにはいかないまでも、ほとんど包丁や鍋をさわらない人間とは一線を画した料理の腕を持っている自信はある。
簡単な調理技術は、サバイバルの基礎も基礎。ぬかりはない。
しかし、日々の飯は母ちゃんが作ってくれていたので、実際に作った経験はそれ程多いとは言えないのだ。
あくまでも包丁の使い方とか、火の付け方、かまどの作り方、飯ごう一つ鍋一つでどうやって料理をするかといった、普通の料理と言うにはちょいとばかり特殊な技術の習得がメインだったので、いわゆる『料理人』としての経験値は、はっきりいって少ないのである。
なのに、二十日後には大量の肉がこの館に届く手筈となっている。昨日、三幻茶屋の帰りに無事獣屋も見つけ、注文をしてきた。つまり、それまでに祭りの準備を終えなくてはいけないという事である。
技量を磨いてからとか、メニューを開発してからなんて、悠長な事を言っていられないからな。今の状態を考えれば、そうそういつまでも遊び呆けている訳にもいかないし、仮に無理やりそうしたとしても、二ヶ月もすれば冬到来で、食材がなくなってしまう。
今すぐになんとかするしかないのだ。
だからなんとかしないといけないのだが……、これがなかなかに難しい。その為、ウンウン唸っているのである。
異世界トリップ物のお約束として、現地にない珍しい料理を武器に立ち回るという物がある。俺も読み物としてネットで楽しんでいた頃は大好物だった。だから、当時ネットの海でのレシピ漁りにも全力を尽くしたものだ。
細かい部分は流石に覚えていないが、お陰様で今でも幾らかは脳みそに残っている。
何事もやっておく物である。いざ自分が、本当に異世界トリップなんて物をしてしまうと、心の底からそう思う。
で、である。それはいいのだが、実際に事が起これば、想定外の事態という物も発生する訳であり……。
調味料、食材諸々不足しすぎ。レシピ通りに作れる物なんか、ほとんど何もないがな。どうしよう――となった訳である。
調味料は、それでも可能な限りは何とかした。
もちろん大半はすぐのすぐにはどうにもならなかったが、例えばみりんやなんかは元は酒として飲まれていた物だという記憶を頼りに酒屋を巡った。調味料――とりわけ香辛料系の物は昔の日本では漢方薬だった物もあるという記憶を掘り起こして、薬屋や薬を扱っている座を探したりもした。これに関しては、幸い薬屋という物が存在したおかげで、比較的楽に幾つか使えそうな物を入手する事が出来た。あちらの世界の日本でも、店を構えて薬を売るようになったのは、記憶が確かならば確か江戸時代だったと思う。それ以前の日本の状態と同じであったら、俺はもっと苦労した事だろう。我らが藤ヶ崎の町もなかなかのものだった。
が、それでも飽食時代を迎えて久しいネッツなレシピを、そのまま再現などできる訳がなかった。
海外からの輸入雑貨の専門店や、百貨店はおろか、近所のスーパーレベルの品揃えすら、こちらにはないのである。ちょっと考えれば誰にでも分かる事だが、真に恥ずかしい事に買い物に出てみるまで、その事をすっかり失念していた。
そして、なんとか手に入れた食材の山を前にしても、やはり『あれが足りない。これが足りない。あの道具もない。火力足らねぇぞ、どうしよう』となって途方に暮れる事になった――とまあ、そういう事である。
目の前のまな板にデンと乗っかっている猪肉の塊にしても、一番シンプルに塩胡椒とハーブで焼くという調理法すら使えない。あるのは塩だけであり、胡椒とかハーブとか何それ状態だ。となると、浸けダレに浸けるか汁物かとなるが、そのレシピを考える必要があった。
普通に塩だけで焼いて出しても、ここの連中は旨い旨いと食いそうではあるが、二水名物をつくるという目的の事も考えると、ここで手抜きをするのは後々響いてきて下策なのは明らかだ。だから、ない手持ちの札を最大限有効に使って、知恵を絞るしかないのである。
俺は大きく溜息を吐き、猪の肉の横に転がっている――なんとかいう山鳥の肉を見る。こちらも同様だった。俺のサバイバル用の調理技術は、食える物を食えるようにして生き残るのが主であって、美味しくいただく事に関してはあまりにも無力だった。
あちらの世界のように、どんな物でも手に入る訳ではないここでは、旨い物を食おうとすると、その難易度が飛躍的に高くなる。それに気がついていなかった俺は、大馬鹿者だろう。向こうで電子箱を使ってレシピを漁っていた時には、どの料理も簡単に作れたから、俺はとんでもない思い違いをしていたのだ。
道具も材料もすべてが簡単に手に入るあの世界と、トリップした先の世界が同じ条件である訳がないのである。
盲点過ぎた。千賀と約束をする前に、実現可能かどうか十分考えたつもりだったが、本当に『つもり』だった。
ヤバイ……。
俺にとってこれは、継直をどうにかするよりも難易度が高い気がし始める。
そんな後悔の念が起きるも、千賀はお祭りに行けると楽しみにしている。今更やっぱあれなしねなどとは、とても言えない。
困った。
猪や鳥の肉ばかりでなく、卵、魚、野菜……変わり種では蛙の肉まで、本当にたくさんの食材がザルの上にのって、厨のそこかしこに積んである。ここ藤ヶ崎は、おそらく物を比較的楽に手に入れる事ができる優れた町なのだと思う。しかし、それでも俺の頭に残っているレシピを再現するには、全然足らなかった。
俺が厨にやってきて、おそらくすでに三十分は経っている。が、まだ何も進んでいない。
そんな時である。
「武殿?」
後ろから声がかけられた。
俺は突然の呼びかけにビクリとしたが、最近聞き慣れた涼やかな声に、
「ん? ああ、お菊さん。何か用でも?」
と振り返る。
そして、俺はもう一度びっくりする事になった。
彼女は細い紐の端を口にくわえながら襷掛けをしつつ、こちらに近寄ってきたのだ。
今は朝五つを過ぎてしばらく経っているから、そろそろ九時頃だろう。朝飯もとっくに食い終わり、千賀が元気に暴れている時間帯である。こんな時間に、彼女が厨なんかに用があるとは思えない。まして襷掛けなどする必要など……。
そんな事をぼうっと考えていると、お菊さんは呆れたように俺に向かって言った。
「何か用ではありません。おきよさんに聞いて驚きましたよ? いきなり厨にやってきて、『ちょっと貸してね』と言って籠もってしまったとか。水島家の家老ともあろう御方が、厨になど入るものではありません。一体、何をなさっておられるのですか?」
あー、男子厨房に入らずって奴か。大本は孟子だったっけか。それが拡大解釈されて意訳されたっていう。それにしても、こちらにも似たような事を言った奴がいたのか、あるいは、こちらでは普通にそういう価値観が醸成されたのか……それは分からんが、まったく余計な事をしてくれたもんである。
俺があちらの世界の現代日本出身であるせいかもしれないが、そんな制度っつーか風習は、威張れて嬉しいなんてもんではなく、むしろ面倒じゃね? としか思えない。
だってあれって、元の意味ではなくひん曲がった方の解釈をすると、水一杯飲むのにすら、女の人に持ってきてもらわないといけなくなる。男尊女卑以前に、どう考えても男にとっても不便でしかない。メリットは、女にかしずかれている感がなんとなくある――それだけだ。
俺としても、もし恋人なり女房なりができたら、その人にお勝手はやってもらいたい。そう思っている。だがそれは、惚れた女の手料理が食べたい――世話をしてもらいたいからであって、威張ったり見栄を張りたいからじゃあない。
だから厨房に入っちゃ駄目とか言われると困ってしまう訳なのだが――――多分それを言っても無駄だろう。彼女、性格が真面目すぎて、こういうのには頑固そうだ。
ちゃんと説明しないと、襷掛けなんかしている辺り、私がやりますとか言って追い出されてしまいかねない。
まだ彼女は、俺が何をやっているのかを知らないのだ。普通の料理みたいなものだと思っているだろう。
って、いかんいかん。お菊さんほったらかしだった。
思わず考え込んでしまっていた自分に気付き、俺は軽く首を振って、目の前の彼女に集中する事にした。
だがお菊さんは、それどころではなかったようだ。近くまで寄ってきた彼女は目を白黒とさせながら、山と積まれた食材を前に、立ちすくんだまま眺めていたのである。物の陰になっていて、向こうからはこの山が見えていなかったようだ。
通りで、俺が物思いに耽っていられる時間があった訳である。