第百六十八話 躾 でござる その三
そんな事を考えながら、太助を呼ぶ。
「さ、出番だぞ」
その手には凶悪な大剣を握っているのだが、周囲に漂う血臭と無造作に転がる死体に再度動きを止めてしまっている太助。その背中に手を回し、軽く押してやる。
軽く押しただけだったのだが、太助はつんのめるようにして前に押し出された。そして、ようやく気付いたかのようにワンテンポ遅れて、
「あ、ああ」
と答える。が、太助は足下に転がっている胸を貫かれた死体を見て、再びそのままの姿勢で固まってしまった。
この世界には、ただの庶民でも比較的『死』というものが身近にある。飢え、病、賊……などなど、少なくとも日本で生まれ育った俺からすると、あきらかに日々死と隣り合わせだと思う。
だから、そこまで死体自体は珍しいものではない筈だった。
だが、ここまで殺意に満ちた空間で、右を見ても左を見ても、あちこちに死体が転がっている光景というのは、日常的に見られると言えるほどではない。こちらの戦争が、町を直接襲わないというのも関係しているだろうが、こういうのを庶民が見るのは、村などを賊が襲った時くらいだろう。
餓死や病死した死体は比較的見る機会はあるだろうが、こういう外傷のある死体というのは、こんな世界でもやはり庶民からは縁遠いものだ。
多分、そのせいだと思う。
先日、人を一人なぶり殺しにするところを見せて以降、太助は動揺しっぱなしであった。
普通なら当然だろうとしか言いようがない。でももう太助は、それで済む立場ではないのだ。だから、太助には耐えきってもらうしかない。
まあ、今のところは負けないでいてくれれば、それでいいさ。
俺は心の中で、そう独りごちる。そして、太助が部屋の中の人物を確認するのを待った。
部屋の奥では、人相の悪い小太りの中年が睨みつけるようにして、こちらを見ていた。その両脇には合口というには少々長い白鞘の刀を抜いた若衆もいる。まあ、若衆といっても、結構歳はいってそうだ。少なくとも木っ端ではないだろう。
みな裏社会の人間だけあって、目の圧力は高い。だが真ん中のおっさんが手にしているキセルから、畳の上に火玉が落ちていた。落ちた火玉は、おっさんの座っているすぐ近くで、ぶすぶすと畳を焦がしている。
こちらを威嚇しちゃあいるが、その心理状態は推して知るべしといったところか。
「太助?」
太助が確認するのを待っていたが、太助は未だ固まったままだった。だから、もう一度促したのだ。
すると太助は再び、
「あ、ああ」
と答えた。
それと同時に、
「巽屋の小倅……」
とまるで呪いをかけるかのような低い声音で、真ん中の小太りの男が呟いた。
太助はその男を一瞥するが、男の呟きには答えることなく俺の方を振り向く。
「真ん中の男が三上膳兵衛だ」
その太助の言葉に、膳兵衛は鼻筋に皺を寄せ、睨む視線を強めた。
それを見て、俺は前に出る。ここからは俺の仕事だからだ。
「ご苦労。あとは後ろで見ていろ」
そして、太助の肩を一つ、ポンッと叩いた。
太助はちらりと俺の顔を見ると「……ああ」とだけ答えて、大人しく俺の指示に従い後ろに下がった。
さて、厄介者その一の処理である。
「……三上やの膳兵衛。お前に少々言いたい事があってな。寄らせてもらったよ」
俺がそう言って膳兵衛へと視線を移すと、膳兵衛はさっきまで太助に向けていた鋭い視線を、今度は俺に向けてきた。
ついこの間までの俺ならば、この視線には耐えられなかったかもしれない。でも正直、今の俺には(陰でコソコソやっているだけの豚が、何偉そうな目をしてんだ?)としか思えなかった。
だからその視線を真っ向から受け止めたまま、上から見下ろすように冷たい視線を浴びせ返した。すると膳兵衛は、急にハッとしたような顔になって、多分無意識にだろうが、尻を畳に擦りながらわずかに下がった。
その時である。
膳兵衛の左右にいた奴らのうち右側にいた奴が、決死の表情でいきなり俺に向かって斬りかかってきた。
ただ、
信吾らに比べると、あまりにも動作に無駄がありすぎた。刀を振りあげながら突っ込んでくるが、まったく鋭さがない。速度そのものも遅い。ヤクザ映画みたく、腰だめに突っ込んでくるかもと構えていた俺としては拍子抜けだった。
急にどうしたというような必死さは伝わってくる。が、殺気もショボい。血走った目をしながら襲いかかってきた戦場の足軽の方が、はるかに強烈な殺気を放っていた。
要するに、怖さがないのだ。
追い詰めすぎたのかもしれない。
そう思った。が、配慮してやる気など、まったくなかった。
俺は、腰に差してあった刀を抜刀せぬままに持ち上げ、前へと突き出す。そして、抜き身の刀を大きく振りかぶった男の握り手に、それをぶち当ててやった。
「……ブッ」
多分俺が、柄で刀を握っていた指を潰したせいだ。男は痛みに叫ぼうとしたのだと思う。しかし男の口から飛び出てきたのは、叫び声ではなく真っ赤な鮮血であった。
「……誰に刃を向けておるか」
俺の斜め後ろから声がした。源太だった。
俺の体の横を、いつの間にか源太の握った槍が駆け抜けていたのである。その槍は、まるでつっかえ棒をするかのように、男の胸のど真ん中に向かって伸びていた。
俺が何もしなくても、男の刃はおそらく俺に届かなかった事だろう。
俺は苦笑いをしながら、
「有り難う」
と源太を労い、突きだした刀を再び腰に戻す。
すると源太は、
「はっ」
と俺に答えて、手の中の槍を、男の胸を貫いたまま横に払った。男はどうする事も出来ず払い飛ばされ、
――――ドサッ
と、血を吐き散らしながら部屋の隅で壁にぶつかり沈む。そして、その場所に新しい血だまりが広がった。
「膳兵衛。下のもんの躾がなっていないな」
俺は笑みを引っ込めながら視線を戻すと、再び膳兵衛を見下ろして言い放つ。そして、残っているもう一人にチラリと視線を移した。
膳兵衛も、その男も、極度の緊張のせいか額にびっしりと玉の汗を浮かべていた。男の持つ刀の切っ先は、細かく震えていた。
しかし膳兵衛は、緊張に体を縛られながらも眉をひくりとさせる。伊達に親分をやっている訳ではなかったらしく、俺の言葉に違和感を覚えたようだった。
その感は正しい。俺は今から、一連の話をねじ曲げて片づけるつもりなのだから。
人の社会はクリーンルームではない。
膳兵衛を排除したところで、こいつの代わりの人間が、二水の裏社会に台頭してくるだけである。それ故に、信賞必罰の原則は重要ではあるが、折角こうして躾を施しているのだから、この男を据え置きにしておいた方が水島にとっては都合がよいのだ。
だから、『罪』に手を加えようというのである。
「膳兵衛。俺は誰だ? 名前を言ってみろ」
まずは、そう問うてやる。
下っ端ですら知っていた俺の名だ。膳兵衛が知らない訳がない。俺は奴を見下ろしながら、威圧するようにそう尋ねる。
立場の上下を明確にする為である。獣の調教では、これはとても重要な事なのだ。
「……神森……武……様にございます」
膳兵衛は小僧である俺を相手に言いたくなさそうにしながらも、背中に兵を背負って脅す俺の重圧に負け、渋々そう答えた。
それでいい。
嫌々だろうがなんだろうが、勝てない相手と認識さえしてくれれば、それでいいのだ。水島に『従わされる』という事実だけが肝要なのである。
「そうだ。ここを統治している水島家の家老、神森武だ。しかるに、この有様は何だ? 俺の行く手に立ちはだかる無礼者はいるわ、斬りかかってくる愚か者はいるわ。お前は、下の者にどんな躾をしている?」
俺は更に酷薄な視線を膳兵衛に向けながら、温度のない声で容赦のない叱責の言葉を浴びせかけた。