第21話 今度こそ
「……人生を、やり直して?」
起こしたばかりの体を、座布団についた手で支えた。
麗華さまは静かに頷かれた。
「ええ。一度、今より先まで生きたことがあるの」
静蘭さまと紅玉さまを見た。
静蘭さまは長椅子の端に腰を下ろし、紅玉さまは冊子を閉じていらっしゃる。お二人とも、驚いたご様子がない。
「お二人も、ご存じだったんですか?」
「うん。やり直してるって話は聞いてるよ」
「私も聞いている」
紅玉さまが頷かれた。
私だけが、今まで知らなかったのだ。
少し寂しいと思ってしまった自分が恥ずかしくて、膝の上で手を重ねた。
「ごめんなさいね、杏鈴。いつ話せばよいか、迷っていたの」
「いえ。秘密にしていらしたことですから」
麗華さまは小さく頷き、静蘭さまと紅玉さまへ顔を向けられた。
「静蘭、紅玉。二人にも、改めて聞いてほしいの。まだ詳しくは話していなかったでしょう」
「もちろん聞くよ」
「うむ」
お二人の返事を聞いて、麗華さまは私の方へ向き直られた。
「長くなるかもしれないわ。今日は札遊びをする暇がなくなるかもね」
冗談めかしておっしゃってから、麗華さまは一つ深く息をされた。膝の上で指を揃え、ゆっくりと口を開かれる。
「私は、裕福な家に生まれたの」
*
その娘は、裕福な家に生まれ育った。
恵まれていることは分かっていた。一生、食べるものにも住むところにも困らないだろうと、当たり前のように思っていた。
娘の家は、国の重きをなす四家の傍系だった。都にも屋敷を構えていたが、娘が知っているのは、領地の屋敷とその周辺だけだった。
いずれは母と同じように、領内の有力者か、ほかの土地の領主へ嫁ぐのだろう。そうぼんやりと考えていた。
母や家庭教師から教わる礼儀も、仙術も、弓術も、真面目に身につけようとはしなかった。稽古を抜け出しては、庭の大きな木に登った。枝分かれしたところに体を預け、昼寝をするのが好きだった。
できのよい姉もいた。家のために何かをするのは姉で、自分に難しい役目が回ってくることはないと思っていた。
その娘が、妃候補として後宮へ行くことになった。
華やかな暮らしへの憧れも、少しはあった。
けれど、入宮したその日に思い知った。これまで怠けてきたことが、どれほど自分を困らせるのか。
立ち方、座り方、受け答え。何をしても叱られた。稽古では、ほかの候補がとうに身につけていることを、一から教わらなければならなかった。
惨めだった。
追いつきたいという悔しさより、今日もできなかったと思う苦しさばかりが募った。明日の稽古を考えると息が詰まり、ときには、うまく息を整えられなくなった。
逃げ出したかった。
ほかの候補の一人は、仙術の天才だった。すでに新しい術や技術をいくつも生み出し、その才は国中の文官に知られていた。
同じ卓に着くと、自分の手元まで見透かされそうな気がした。筆を持ち直すだけでも、間違いを見咎められるのではないかと緊張した。
もう一人は、戦女神と呼ばれていた。若くして戦場で大きな武勲を挙げ、武官たちに慕われていた。
廊下ですれ違うたび、その鋭い視線に身がすくんだ。目を合わせず、早く通り過ぎてくれることばかり願っていた。
けれど娘が最も苦手だったのは、三人目の候補だった。
三人目は、皆の前で失敗することを恐れなかった。
難しい問いにも臆せず答え、間違いを指摘されれば、その場で教えを請うた。叱られた後も、次の稽古では誰より先に手を挙げた。
娘には、それが分からなかった。一度失敗したことを、皆の前でもう一度やろうと思えることが。
ある日の稽古で、答えられずに黙り込んでいると、三人目が尋ねてきた。
「なぜ、分からないところをお尋ねにならないの?」
娘は返事ができなかった。
何が分からないのかさえ、うまく言えなかった。尋ねて、そんなことも知らないのかと思われるのも怖かった。
三人目は娘を笑わなかった。ただ、娘ができずにいることを、ためらいもなくやってのけた。
その隣にいると、自分が黙ってやり過ごしてばかりいることを、嫌でも思い知らされた。
三人目が皇后に決まったと聞いたときも、驚きはなかった。
娘は逃げるように後宮を出た。
ようやく終わったのだと、心からほっとしていた。
ただ、妃候補として教育を受けた娘は、そのまま領地へ戻ることを許されなかった。都の屋敷に留まり、仕官先か嫁ぎ先を探すことになった。
先のことには少し焦りを覚えた。それでも、稽古の刻を気にせずお茶を飲めるだけで、十分に幸せだった。
その間にも、四家の力関係は変わりつつあった。
皇后となった三人目の実家は、皇室との縁を得て権勢を広げた。その家からの要求の中には、娘の父が受け入れられないものもあった。
従えば、領民の暮らしを損なう。父は部下にも領民にも、守ると約束したことがあった。その約束を破れず、要求を退けた。
娘は、何も知らなかった。
父から届く手紙にも、そんなことは一言も書かれていなかった。娘も領地の様子を詳しく尋ねることはなく、穏やかな日々を過ごしていた。
ある日、部屋でお茶を飲んでいると、屋敷に急使が来た。
父に、謀反の疑いがかけられていた。すでに討伐軍が、領地へ向かったという。
娘はその日から、屋敷の外へ出ることを禁じられた。
最初は、何かの間違いだと思った。すぐに誤解が解けて、父にも、領地の皆にも会えると思っていた。
けれど、何日待っても父からの返事は来なかった。
屋敷の者に尋ねても、領地のことは分からないと言われた。外へ出たいと頼んでも、許されなかった。
このまま待っていてよいのか。けれど、ほかに何ができるのか。
部屋の中を行ったり来たりするばかりだった娘に、手を貸してくれた者がいた。
かつて同じ後宮にいた、二人の妃候補だった。
仙術の天才と呼ばれた妃候補は、まず、娘の父に何が起きたのかを調べてくれた。
皇后の父には、以前から不正があった。国に納めるはずの金を、自分の懐へ入れていたのだ。
それを訴えた者もいた。けれど、その家の娘が皇后となってからは、調べを進める者がいなくなった。
娘の父が要求を退けたことも、謀反の疑いをかけられたことも、その家と無関係ではなかった。
娘は初めて、父が手紙に書かなかった事情を知った。
不正の証拠が残る文書もあるという。けれど、それを調べ直して父の無実を訴えるには、時間がかかる。討伐軍は、もう領地へ向かっていた。
彼女は自分の用向きだと偽って、娘を屋敷から連れ出した。都を出るための書状にも、自分の名を書いた。
誰が逃がしたのか、調べられればすぐに分かる。
娘がそれを言うと、彼女は書状を折り畳み、娘の手に握らせた。
「だから、なくさないで。私の名前、結構役に立つから」
都の外では、戦女神と呼ばれた妃候補が馬を用意して待っていた。
領地への道を、ともに進んでくれた。娘が何度も遅れるたび、馬を止めて待っていてくれた。
追っ手が来たのは、領地まであと半日というところだった。
彼女は娘を先へ行かせ、自分は馬首を返した。
「すぐに追いつく。振り返らずに行け」
けれど、娘は振り返ってしまった。
彼女は道を塞いでいた。兵の一人が何かを叫んだ。同じ軍に属する者同士なのだと、その声で分かった。
それでも、彼女は退かなかった。
娘は手綱を握り直し、馬を走らせた。
二人に何と礼を言えばよいのか、考えながら進んだ。父に会えたら、まず二人のことを話そうと思った。
けれど、見慣れた道の先に、いつもの景色はなかった。
街道沿いの家々は焼け落ち、畑は踏み荒らされていた。供の者とよく立ち寄った店も、黒く焦げた柱を残すばかりだった。
娘は馬を降りた。
誰かいないかと呼んだ。返事がないまま歩き、やがて屋敷へ続く道を駆け出した。
屋敷も、焼けていた。
門のあった場所を通り、崩れた瓦の前で立ち止まった。父の部屋がどこにあったのか、すぐには分からなかった。
父を呼んだ。屋敷に仕えていた者の名も呼んだ。
誰も出てこなかった。
娘は、そこから動けなくなった。
巡回の兵に見つかったときも、逃げようとは思わなかった。ただ、父はどこかと尋ねた。
兵たちは顔を見合わせた。その一人が、やがて答えた。
討たれた、と。
娘は都へ連れ戻され、今度は屋敷ではなく、地下牢へ入れられた。
父が守ろうとした人たちは、どうなったのか。
焼けた家から、逃げられた者はいたのか。
牢番が来るたびに尋ねた。答えてくれる者はいなかった。
やがて、娘にも処刑が告げられた。
そこで、麗華という娘の話は終わるはずだった。
けれど、次に目を開けたとき、頭の上にあったのは、湿った石の天井ではなかった。
葉の間から、青空が見えた。背中には、よく知った幹の感触があった。
いつも稽古を抜け出して、昼寝をしていた木だった。
屋敷とともに焼けたはずの枝が、娘の体を支えていた。
もう一度、子供の頃の青い空を見上げていた。まだ何も起きていない日の空を。
*
「それで、今度こそ変えたいと思ったの」
麗華さまは顔を上げ、私たちをご覧になった。
「父を助けたい。父だけを逃がすのではなく、父が守ろうとした人たちも、一緒に」
「そのために、皇后へ?」
「ええ。一度目は、皇后の実家になった家が力を得て、父を退けたわ。今度は、私がその立場を得たいの」
麗華さまは茶碗の縁に指を添えられた。
「誰が皇后になっても同じことが起きるとは限らない。でも、ほかの誰かに任せて大丈夫だとは、言い切れないの」
「でも、今はもう、そのお家は……」
静蘭さまが言いかけると、麗華さまは頷かれた。
「ええ。一度目に皇后となったあの方が入宮する前に、証拠を集めたの。一度目に、どこを調べればよいか知ったから」
「告発なさったのですか」
「父に相談して、不正を示す文書を届けたわ。調べが入り、当主は官職と爵位を失って、流刑になった。財産も大部分を没収されて、家は取り潰されたの」
お家の取り潰し。その話なら、私も聞いていた。
「では、私が代わりに選ばれたのは……」
「そうよ。その家の娘に代わる候補を、同じ血筋から選び直すことになったの。あなたが半年遅れて入宮したのは、そのためよ」
遠い血縁をたどられ、突然、妃候補に選ばれた。
私にとっては、そこから始まったお話だった。けれど、その前に、麗華さまが変えたことがあったのだ。
「一度目には、私は後宮にいなかったのですね」
「ええ」
座布団の縁を、指先で押さえた。
あのときのお話がなければ、私は今も実家にいたのだろう。鏡の向こうにこんなお部屋があることも、知らないまま。
「私、二人にも、お礼を言いたかったの」
麗華さまは、静蘭さまと紅玉さまを順に見られた。
「あのときは、ちゃんと言えなかったから」
紅玉さまが、膝の冊子へ目を落とされた。
「私が戻ったかどうかは、分からないのだな」
「ええ。あの後、二人がどうなったのかも」
「……そうか」
紅玉さまは冊子を卓へ置かれた。
「ならば、そのときの私の分も、礼は受け取っておこう」
麗華さまの唇が少し動いた。けれど、声にはならなかった。
静蘭さまが手を伸ばし、麗華さまの茶碗を引き寄せられた。
「何をするの?」
「冷めちゃったでしょ。淹れ直す」
「自分でできるわよ」
「今日は私がやる」
麗華さまは少し目を丸くされたが、茶碗を取り返そうとはなさらなかった。
私だけが秘密を知らなかったのだと思っていた。
けれど、お二人も今、初めて聞いたお話を、それぞれに受け止めていらっしゃる。
麗華さまは、私にも聞かせようと思ってくださったのだ。
「麗華さま」
「何かしら」
「私にも、できることがございますか」
尋ねてから、何をお手伝いできるのか、一つも思いつかないことに気づいた。
麗華さまは少しお顔を緩められた。
「今すぐ、何かを引き受けなくてよいのよ。今日は、聞いてほしかったの」
「……はい」
静蘭さまが湯を注ぐと、ふたたび茶の香りが立った。
麗華さまは両手で茶碗を持ち、一口召し上がった。ほっと息をつかれ、肩が少し下がる。
私も茶碗を取った。まだ熱いお茶を、少しずつ飲んだ。
しばらくして、静蘭さまがいつものようにだらりと長椅子へ横になられた。紅玉さまは卓から冊子を取り、膝の上で開かれる。
麗華さまは何もおっしゃらず、お茶を飲んでいらした。
私も茶碗を置き、空いた座布団を一枚引き寄せた。少しドキドキしながら、寝そべって、座布団に頬をのせた。
「杏鈴も、ここに慣れてきたわね」
麗華さまのお声がした。
私は少し笑って、目を閉じた。




