56日目:どくしょしょうじょ
授業の支度をしながら、彼は私にいくつかの注意事項を伝えてくれました。おかげで、行動しやすいです。ただ、外出を許してくれなかったので、それだけは腹が立ちましたけどね。
私を何だと思っているんだ。
「ええと、まずこの部屋の物には触らないこと。もしかすると君にはこの部屋が汚く見えるかもしれないけれど、俺にとっては相当綺麗に保たれているんだ。どこに何があるのか、しっかりとわかっているんだ。ちょうど、ノートの片隅の計算式みたいなもんだよ。だから、勝手に動かさないこと。それと、この部屋から出てこないこと。特に生徒に見られたら大変だから。ね、その二つは守ってね」
「はーい」
「良い返事だ。今日は午前中で帰るから、その後探しに行こう」
キーンコーンカーンコーンというチャイムの音と同時に、彼は教室を出ました。
優しい声かけもしっかりと行う彼は、きっと先生としても素晴らしい仕事をしているんでしょうね。心から、ポカポカしてきます。心から、心臓から。
「こころという字のしんと、かみさまのしんって、いっしょなのかな?」
そんな独り言さえ響くほどに一人で、早速ですが暇になってしまいました。確かにいろいろ物が散乱しているんですけど、そのどれもが私にとっては興味の無いものでして。成績が低い私としては、正直あんまり見たくない物たちばかりです。
「なんで、みんな一生懸命できるんだろうなぁ」
不思議でなりません。結局、物は触ってはいけないというお達しがあった以上、触りませんが、暇であることには変わりません。
何か、他の案を。
そう考えていた時、窓に見える綺麗な景色がふと目に入りました。
すうっとその世界に引き込まれるような、漣の静かで荘厳な音。
光り輝く太陽は、その温かさを存分に発揮して私を包み込みます。
優しくて、柔らかくて、気持ちが良いです。
真っ青に染まる海と、真っ白い砂浜のバランスが絶妙で、無意識のうちに窓へと近づいていました。
綺麗で、壮麗な景色。
どの言葉を用いても、この景色を寸分たがわず表現することはできないでしょう。それほどに美しい景色がそこにはありました。
視線を右の方へそらすと、そこには松林がありました。等間隔に並べられた松たちは、私を見てどう思っているのでしょうか。私からは、優しく見守ってくれているように見えるのですが、そうはうまくいかないかもしれません。少し恥ずかしくなって、少し乗り出していた体を戻します。
その時でした。
まさに体を戻そうと、下を向いた瞬間、女の子がいたのです。
難しそうな本を読む少女が、麦わら帽子を深くかぶり、白から青へのグラデーションが綺麗なワンピースを着た少女が、そこにはいたのです。
体を戻してすぐに、座り込みました。
そう言えば、ここが小学校なのか、中学校なのか、高校なのか、定かではありませんでした。
で、でも、授業は今始まったばかりで、こんなところにいたら間違いなく授業をサボっているということですよ。サボテンですよ。
あ、間違えました。サボタージュですよ!
もしかすると、見てはいけないものを見てしまったのではないでしょうか。
一度は死に際を見たのです。そりゃ、幽霊の一人や二人。
いやいや、観ないでしょ、普通。
恐る恐るもう一度立ち上がり、窓の外の下を見ると、やはりその少女はいました。
「あ、あのぉ。じゅ、じゅぎょう、はじまってますよ?」
これ以上ない緊張をこらえつつ、私は残りかすのような勇気を振り絞って質問しました。質問というか、斡旋というか。誘導尋問みたいですけど。
「え?ああ、大丈夫よ。私、授業でなくてもいいから。というか、あなた誰?棚倉先生の娘さん?」
「い、いえ。ちがいます。私は、やぎはしさなと言います」
「ふうん。柳橋ねぇ。やっぱり、山羊の橋なの?」
「いえ。やなぎにはしです」
「へえ、柳か…。ピローか。いや、それは枕だろ!ハハッ、なんちゃって。柳は確か、ウィローだったよね」
何を言っているのかさっぱり分からず、私は苦笑いをするのが精一杯でした。いやあ、急にボケとか挟まないでくださいよ。しかも、英語のボケとか分かるわけないじゃないですか。
「あ、でも私がここにいることナイショにしといてね」
口の前で、左人差し指を立てました。左目でウィンクをする彼女は、とても愛らしく感じました。私には、できないですけど。ウィンクって、難しいんですよね。
「ど、どうしてですか?やっぱり、せいせきにかかわるから、ですか?」
「それもあるけど、怒られたくないからね。私って、小説書いてるけど、なんとか学校に通ってるくらいだし。そうじゃなきゃ、今頃真面目に勉強してるよ」
あっさりとものすごいこと言ってくれました。聞き逃すところでしたよ。
「しょうせつかさんなんですか⁈」
「うん。まあね。一応」
「すごいじゃないですか!なんで、がっこうにかよっているんですか?!」
「言われてみれば確かにそうなんだけど、義務教育だからね。しょうがないよ」
「ぎむきょういくってことは、ここはちゅうがっこうなんですか?」
「そうだよ?知らなかったの?」
「ぎもんがひとつとけました」
「そうか、なら良かった。で、君はじゃあここで何をしているの?」
「ええと、まいごというか…、おとうさんとおかあさんが、りょうほういないの。それで、わたしはそらからふってきた、みたいで」
「へえ、そりゃ私のファンタジー小説並みにすごい体験を」
「そうなんですか?」
「まあね。あ、私の名前、言うの忘れてたね。私は、笹指静。宜しくね」
「よ、よろしくおねがいします」
「お、礼儀正しい良い子じゃないか。じゃあ、握手な」
「はい」
力強い握手で、私と彼女とはつながりました。
「あ、そろそろ終わるな。じゃあ、私はここにいるから、くれぐれも」
「ナイショですね」
「わかってんじゃん。宜しくね」
また、波の音が響き渡る静けさへと、この教室は戻っていきました。




