VI-11.植物を統べる者
「ん……」
周囲がうるさすぎると目が嫌でも覚めるが、どうやら静かすぎても気になって目が覚めてしまうらしい。わたしはところどころ破れている制服のブラウスを気にしつつ、体を起こした。
「いっ……」
かおるんの背中にいた時に的確な狙撃を受けて、換装を解かれてしまいかおるんと離れ離れになったことは覚えている。どれくらい離れているのかは分からない。地面に落ちた時に頭を打ってしまったのかズキズキと頭が痛んで、かおるんの位置をうまく探ることができない。
翼に換装できればすぐにかおるんのもとに駆けつけられる。それは自分でもわかっている。だがそもそも強制的に換装を解かれたこと自体が初めてで動揺しているのと、実際自分の姿を翼に変えるイメージをしてもうまくいかなかったことから、自力で合流しなければいけないのだと悟った。それは体じゅうが軋むように痛む今のわたしにとって、酷なことに間違いなかった。
「……ここは、どこ?」
翼の姿の時は、距離的な感覚はほとんどなくなってしまう。かおるんの体を飛ばすのと、討伐すべき四半妖獣が今どこにいるのかを感知するので精一杯なのだ。どこか遠くに来てしまって、とても自力で帰れるような場所でないことは分かっていた。今自分がいるような深い森は、家の近くにはなかったからだ。
「かおるん……」
かおるんの位置さえ分からないのは絶望的だ。わらにもすがる思いで制服のスカートのポケットからスマホを取り出したが、すぐに「圏外」の文字を見つけてしまった。
わたしは自分に戦う力がないことを恨んだ。何度考えて悩んだか分からない話だ。もちろん半妖獣に戦えない人はたくさんいる。むしろ退妖獣使を務められるほどの体力や力がある半妖獣の方が珍しい。しかしわたしは大多数だと言い聞かせても、心に厚くかかる雲が晴れることはなかった。どれだけ妖獣の存在を感知できて、その人がどんなアヤカシの血を持っているのか分かるという特別な体質で、それがあるからいいじゃないかと自分を納得させようとしたが、無理だった。納得していれば、わざわざひなのんやさやのんに協力を仰ぐ、などということはしなかっただろう。
「……っ!?」
比較的すぐ近くで、茂みをかき分ける音が聞こえた。がさっ、がさっ、という、かなり大きめの音だった。ばきっ、と時折地面に落ちていたのだろう小枝を踏み折った音が聞こえる。こんな暗がりにわざわざ近付くような人間はいないだろうから、単純に動物か。熊のような大型かもしれない。わたしはがたがたと体が震えるのを感じた。
妖獣だろうと大型動物は脅威だ。特に熊など人間を食べることが知られている動物に関しては研究が進んでいて、人間と妖獣の味の区別はできない、と言われている。四半妖獣は人間のみを美味しく感じて妖獣は不味く感じるが、動物相手ではそうはいかない。
「ここから、逃げないと」
落ちた場所から動くべきか動かないべきか、わたしは少し迷った。だがそもそもかおるんも自分が落ちた場所を知らないだろうと考えついて、痛む体を気遣いつつ慎重に立ち上がり、歩き出した。
ふくろうの鳴き声が聞こえた。それがいっそう、まともに前も見えない暗闇の不気味さを増幅させた。
「……もし、ここから出られなかったら」
その不安が、ふとわたしの頭をよぎった。そして夜の闇に増幅され、わたしを押しつぶそうとする。
こんなところで暮らせはしない。もうすでに餓死までのカウントダウンは始まっていると言っていい。このままどこへも動かなければ死ぬ。かと言って動いても、無駄にエネルギーを消費して、死が近付くかもしれない。
そう思って、はたとわたしの足が止まってしまった。本当は自分がどうすれば一番助かるのか、分からなくなってしまった。ようやく道らしきところに出てきて、思考が停止してしまったわたしのもとに、静かだが確実に、何かの足音が近付いていた。
「誰……!?」
さっきの熊らしき足音とはまるで違った。確実に人間のそれだった。こんな時間に、こんな暗いところをわざわざ通るような人はいない。そう自分に言い聞かせつつも、足がすくんで、震えていた。
「……花宮さん、で合っているかい」
わたしの前に、ずっと背の高い男の人が姿を現した。その手には懐中電灯が握られていて、辺りが少し明るくなった。そのことで相手の顔がわたしに見えた。今の状況で気にしている場合ではないとは思ったが、顔立ちのいい、ハンサムと言えるだろう青年だった。自分が生きるか死ぬか、と切羽詰っている時にそういう感想を抱くということは、普段の状態で見ていればよほどだったのかもしれない。
「あなたは」
「僕は植川。植川了だ。君なら知っているはず」
「植川……!?」
植川と言えば、偶谷くんを殺した張本人。それから本人の家を捜索してもどこかに消えた痕跡があるだけで、見つからなかった。その植川が、今わたしの目の前にいる。
「どうして……」
「すまなかった」
植川はわたしに向かって、あろうことか頭を深々と下げてそう言っていた。
「……どういうこと」
「今さら弁明しようと、取り返しのつかない話であることは分かってる。僕がいくら謝ろうと、偶谷君を殺してしまったという事実は消えない。たとえ習獅野の力を使って生き返ったのだとしても」
「偶谷くんが今も生きてるのは、知ってるってこと?」
わたしがそう尋ねると、植川は顔を上げて少しだけ寂しそうな笑顔になってうなずいた。
「もちろん、知っている。僕は偶谷君を死なせてしまってからも、注意深くその後を見張っていた。習獅野が生き返らせたことを虎野や鷹取に報告したのは、僕だ」
「……!!」
虎野の名前が出た。その名前には嫌でも警戒せざるを得ない。
「僕が偶谷君を死なせてしまった時――あの時は、僕が間違っているなんてみじんも感じていなかった。責任転嫁するようで心苦しいけど、あの時僕は虎野に完全に操られていた。虎野の狩気能は他人を完全にマインドコントロールしてしまう力があるらしい。僕は情けないことに、その手に引っかかってしまった」
「……だから偶谷くんを殺せと指示されて、命令のままに?」
「そういうことだ。僕がもう少し精神的な強さがあれば、虎野の策にはまることなどなかった。いや、それどころか、僕は自分がだまされていたということに、虎野が死んでからようやく気付いた」
『お前に敵意を向けていた者は全員、虎野の差し金だったと思っていい』
ふいにわたしの記憶の中で、その言葉が光るように思い出された。虎野を殺したあの覆面の四半妖獣が去り際に放った言葉だ。虎野の差し金だったということはつまり、積極的に偶谷くんに関わっていた四半妖獣たちはみな虎野に操られていた、という意味になるだろう。植川もその一人だというのか。
「僕は森の四半妖獣……植物全体を司る、と言った方が分かりやすいかもしれない。僕が特別、他の四半妖獣と異なる点だ。僕に流れているアヤカシの血は、獣由来じゃない。それがどれほど特別かということは、自分が一番よく分かっているつもりだ」
「森の、四半妖獣……」
「僕は人間を食べられない。もちろん四半妖獣といっても半分は人間みたいなものだから、豚肉や牛肉は食べられる。けれど、人間の肉は食べられない。植川家は代々、そうやって育っている」
わたしはそれを聞いて、はたと思い立った。翠条さんは確か、そうやって人間を食べないように育てられた、そう話していたはずだ。わたしの表情を見たのか、植川さんがもう一度、もの悲しげな笑顔とともに口を開いた。
「たぶん察してくれたはずだ。僕は偶谷家の人と面識がある。そもそも人間を食べない四半妖獣が集まって情報共有して、人間と共存できる道を目指そう、と言い出したのは植川家なんだ。もちろん、偶谷君本人のこともよく知ってる。偶谷君の妹が翠条真織さんとして、生きていることもね」
「……!」
「そもそも誰も偶谷君のことを殺せとは、命令していないんだ。ただ、注意深く見守るように言われた。言ったのは、偶谷君のお父さんだ」
偶谷くんの、実の父親。全ての元凶はその人だ……そう言われている気がして、わたしはほんの一瞬、目の前の植川の姿がぐらり、と歪んで見えた。




