III-10.水面下で進む陰謀
今年の梅雨入りはやけに早かった。ゴールデンウィークを過ぎたあたり、もっと正確に言えばその半ばに沙矢乃と一緒に買い物に行った後くらいから天気が悪くなり、それからろくすっぽ晴れ間を見せることなく、曇りと雨の間のような天気が続いて、やがてそのまま梅雨入りしたというニュースを聞いた。ただでさえ外に出るのはおっくうだと言うのに、天気にまで見放されてはどうしようもなかった。
花宮から虎野関連で何度目かにして、おそらく一番重要な内容の電話がかかってきたのは、そんな雨の日に学校から帰ってきてからだった。傘を持っていくのを失念していて、帰りは沙矢乃の傘に入れてもらっていた。それでも沙矢乃と無理やりスペースを半分に割ったせいで体の右半分はすっかり濡れており、同じく左半分が濡れてしまった沙矢乃と一緒に、玄関で体を拭いていた時だった。
”もしもし?”
「……どうした」
”すごい雨だね。そっちは大丈夫?”
「大丈夫じゃない。今帰ってきたところだ。気持ち悪いほど濡れているから、今からシャワーを浴びようと思っていたんだが」
”今から? そっか、どうしよ”
「何か分かったのか」
”分かったも何も。いよいよヤバくなってきたよ”
「何がヤバいのかをはっきり言え」
アタシのその言葉の後、花宮が電話の向こうで少し、息を吸ったような音がした。花宮が掴んだ事実を前にして、落ち着こうとしているようにも聞こえた。
”……最悪だね。虎野は黒装束だったよ”
「……おいおい」
黒装束という言葉は、一見何でもないものだ。冠婚葬祭の時に着る全身黒の服装が黒装束と呼ばれ、神社の巫女が着る物が白装束と呼ばれている。表面的には、それでしかない。しかし妖獣の界隈での意味、と限定した時、その意味するところは豹変する。
”最悪のパターンだったね”
「……どうする?」
その昔まだ半妖獣も四半妖獣も人間を積極的に襲って喰っていた頃、狩気を上げて理性を飛ばし換装した時に着るのは、みな黒装束だった。黒装束といってもその服は袴に近く、遠目どころか比較的近くからその姿を見ても、袴とは区別がつかなかった。それこそが目的だった。生きた人間を襲って殺した時、あるいはその流れで人間の一部を喰った時、返り血が服に付くことは避けられない。しかし普通の色をした服では返り血が目立ってしまう。そこで黒装束を着ることで、あとは鉄サビのような血に独特の臭いをごまかしさえすれば、何でもないような顔をして過ごすことができる、と昔の妖獣たちは考えた。
逆に妖獣たちの頭の中に白装束という概念ができたのは、明治以後だった。四半妖獣に対立して半妖獣が人間と手を組み、退妖獣使となった。しかし四半妖獣の血には強力な腐食性があり、それは当時の服も例外ではなかった。服についたのを放置していると血が皮膚にまで浸透してしまうため、退妖獣使たちはあえて装束の色を白くすることで、四半妖獣の血が付着したことに気付きやすくしたのだ。
つまり、換装した時に白装束であれば半妖獣かつ退妖獣使。黒装束であれば四半妖獣。花宮は相棒の退妖獣使のサポートをする時に”純白の”翼に変身するし、その相棒も”白装束”を着る。もう何年か前を最後にやめてしまったが、アタシや沙矢乃が人間を狩るときは、”黒装束”になる。虎野佳音は退妖獣使でないだけではなかった。アタシたちと同じ、四半妖獣だった。
”それから、その隣にいたっていう男の子の名前も分かった。偶谷七馬、虎野と同じ高校一年生。虎野が話す男の子は見たところその子しかいなかったから、間違いないよ”
「聞いたことがないな」
”よく分からないのが、その偶谷って子も四半妖獣らしいんだよね”
「……ほう」
四半妖獣という自身の正体を偽って退妖獣使をしている虎野と、その隣に大抵いつもいる、同じく四半妖獣の偶谷。何がどうなっているのか。
”あと、偶谷くんが虎野に出会ってから今まで、虎野は何回か妖獣退治をしてる。獣型が何回かと、人型が二回。獣型の退治のうち、最初の一回は確かに四半妖獣だったみたい。だけどその他は人型二回も含めて、全部半妖獣だった。退妖獣使でもない、人間と同じように暮らそうと努力してる人たち”
「そいつらを喰った痕跡は?」
”分からない。でも、退治した妖獣たちを供養する墓地には、運ばれてる”
「殺した妖獣たちが半妖獣なんじゃ意味がないだろ。……何がしたいんだ」
”偶谷くんは虎野の行動に、特に疑問は抱いてないみたいなんだよね。血に対する耐性がないみたいで、最近では一緒に妖獣退治をすることを渋ってるらしいけど”
「当たり前だろ。四半妖獣にとっちゃ、襲うのが……いや」
”人間を襲うのならともかくとして、襲ってるのは半妖獣。さすがに虎野に殺された人たちが何かしら狩気能を発動するのは見てるはずだから、おかしくなるんだよね”
狩気能はアヤカシの血を引く者なら全員持っている。それが役に立つものかどうか、その強弱は人によるが、狩気能を持っていない妖獣が存在しないということは、千年近く続く妖獣の歴史が証明している。
「じゃあ花宮は、実際に殺された人の遺体を見たわけか」
”見たよ。犠牲者二人とも見せてもらったんだけど、特に二人目の、高校の先生の方が顕著だった。虎野に襲撃されて必死に抵抗した跡も、狩気能を使った痕跡もあった。狩気能を知っている人なら、絶対に分かるくらいはっきりと”
「狩気能を知らない奴なんかいるのか?」
”ホントに知らないのかも。だって、黒装束を見ても、何も疑問に思わなかったってことでしょ?”
「知らない状態で、虎野は偶谷に偽りの姿を植え付けた。つまり少なくとも、偶谷は騙されていることになるな」
”それは……間違いなさそうだね”
「……面白くなってきたな」
”……それ、どれくらい本気で言ってる?”
花宮は心底面倒臭そうな口ぶりで言った。アタシももちろん本気で言っているわけがない。だがアタシの知らないところで何かが進んでいるのには、不思議と面白さを感じた。
「わざわざ調べてもらってありがたかった。ここからはアタシに任せろ」
”……どうするの?”
「戌ノ宮に行く。あとは実際に起きてることを、アタシの目で確かめる」
”好きだね。自分の目で確かめる、っていうの”
「まあな」
数日後。アタシは比較的天気がぐずらなかった日を選んで、件の虎野や偶谷がいる、県立戌ノ宮高校を目指した。
* * *
「……姉さんだけで大丈夫?」
「むしろ沙矢乃は家にいたほうがいい。その代わり、アタシのサポートを頼む」
サポートとはもちろん、沙矢乃の狩気能でアタシの姿を変えることだ。これだけ外に出るたび姿を変えるなら、元の姿でいる意味がいよいよなくなっている気はアタシもしている。ただ少なくとも今回のことに関しては、アタシが習獅野であると知られてはいけなかった。特に虎野なら、アタシを知っている可能性は充分にある。アタシは家を出る前に沙矢乃に頼んで、以前沙矢乃と買い物に行った時の格好にしてもらった。
「大丈夫かな。また前みたいにバレたりしないかな」
「あれはニオイで勘付かれたって話だからな。運が悪いとしか言いようがない」
「そんなのでどうするの……」
「大丈夫だ。前の教訓を活かしうる余地はある。万が一アタシが習獅野だとバレそうになれば、その時はアタシの狩気能で元の姿に戻ればいい。元に戻りさえすれば、問題ない」
「それは、そうだけど……」
不安そうにアタシを見る沙矢乃を置いて、アタシは家を出た。
電車で行っても、それほど時間はかからなかった。戌ノ宮駅に着き、ホームから周囲を見渡すと、あらかじめスマホで調べておいた高校の外観と同じものが少し離れたところに見えた。
「……あれか」
戌ノ宮高校はアタシや花宮の通っている学校とは違う。ごく普通の公立高校だ。この辺りに点在する私立の学校は校長や理事長など、学校のトップ付近に退妖獣使の一族や、妖獣にある程度理解のある人間が就任していて、人間と共存していきたいと考える妖獣たちが通いやすい環境が整っている。実は花宮は自分の家が運営している学校で、アタシも人間を襲う四半妖獣と明確に認知された上で学校に通っているので二人とも例外になってしまうのだが、大抵の退妖獣使や半妖獣がこうした私立の学校に通っているというのは事実である。
しかし戌ノ宮高校は違う。普通偶谷のような何も事情を知らないであろう四半妖獣なら、公立高校に通おうとはしないはずだ。隠れて人間を喰っているという事実がないのならなおさらだ。周りに理解者がいないのだから、当然リスクは計り知れないものとなる。
「(とりあえずその偶谷って奴を見てみないと、何とも言えないな)」
アタシは改札を出て、学校を目指して歩こうとした。しかし目の端に何かが映り込んだような気がして、アタシは改札を目の前にして後ろを振り向いた。
「(偶谷……?)」
事前に花宮から送られてきた写真を見ていた。ちょうど戌ノ宮高校の制服を着た男二人が改札を抜けていったが、その一方の顔が偶谷そのものだったのだ。もう一人はさしずめ、友人というところか。親しく話している所を見る限り、たまたま今日だけ一緒に帰っているというわけではなさそうだった。偶谷はその友人と手を振って別れると、今アタシが降り立ったホームに備え付けられたベンチに座り、電車を待ち始めた。
「(……少しどんな奴か聞いてみるか)」
本人に遭遇できたのなら、話してみる他ない。若干の個人的な興味もあったが、アタシは隣のホームに渡る跨線橋の陰にあるベンチに座った偶谷に話しかけるため、改札を離れた。
「……少しいいか?」
しかし、アタシの呼びかけに反応するはずの奴は、いなくなっていた。おそらく偶谷がベンチに座って、何十秒も経っていないはずだったのに、だ。周りを探したが、偶谷の姿はない。
「『偶谷の姿を映し出せ』」
こういうことに狩気能は使いたくなかったな、とアタシは心の中でため息をつきながらも、目を赤く変えた。途端に目の端に、すでにホームのフェンスを越え、何者かが偶谷を連れ去っていくのが見えた。
「……おいおい、面白くなってきたな」
残念なことにアタシは、この予想外の展開を楽しんでいるらしかった。




