旅立ちの見習い魔術師 ◇覚悟
森を抜けたあと、小川のそばにある低い丘で、ふたりは小さな焚火たきびを起こした。
薪がぱちりと音を立てるたび、橙だいだいの光がふたりの顔を淡く照らす。
ルダは黙って湯を沸かし、薬草をひとつまみ、湯の中に落とした。
香りが湯気に溶けて、夜の冷気をそっとやわらげていく。
やがて、エイラがぽつりと口を開いた。
「……あのとき、正直、少し怖かったんです」
薪のはぜる音が、二人の間の短い沈黙を埋める。
「魔力を奪われて、体が動かなくて。……もし助けが来なかったらって思ったら……少し……いえ、とても怖かった」
一拍おいてから、エイラは俯き、低く続ける。
「それに……」
脳裏に、昼間の男たちの野卑な目が浮かぶ。
生きた人間の目が、自分を値踏みするあの感じ……あれが、いちばん嫌だった。
(それに、あの老人だって――)
子供を心配する老いた祖父――そんな風にしか見えなかったのに。
協力者だとは、見抜けなかった。
親切そうな顔と小ぎれいな服装、無力そうな外見に惑わされた。
それに――そんな悪意のあることを、いまだに信じたくなかった。
「イフェルの使徒と戦ったときは、あれは狂気でした。でも今日は……ただの人間の、生々しい一面を感じて……それが、また別の怖さだったんです」
もちろん、無法者と向き合ったのが初めてというわけではない。
イフェルの印を刻んだ魔獣使いのほうが、余程、脅威だった。
でも、あれは──塔が、仲間が、すぐそばにいてくれたから乗り越えられた。
「……森の中で、ほんの一瞬でも、本当にひとりぼっちだって感じたんです」
焚火の明かりの向こう、揺れる影が地面の草を撫でている。
塔という温かなゆりかごから離れ、エイラは今、ひとりの魔術師として試されている。
守られる側から、自分で判断し、自分を守りながら他者のために戦う側へ。
その孤独は、胸に深く、静かに沁み込んでいた。
「……師匠は、とても強い。どうしたら、私も……その強さに、少しでも近づけますか?」
ルダは少しの間、考えているようだった。
焚火の火を枝で整えながら、黙って湯をふたつの器に注ぐ。
湯気とともに、優しいお茶の香りが立ちのぼる。
エイラの前に器を置いて、ルダは静かに口を開いた。
「……お前が怖いと思ったのは、悪いことではない。その恐怖も、後悔、疑問も、そのまま抱えて、前に進めばいい。悩んで考えたことがお前の道になる。お前の流儀を形作る」
そう告げると、ルダは焚火の炎をじっと見つめた。
しばしの沈黙ののち、静かに言葉を続ける。
「そして、私は……自分が強いと思ったことは、一度もない」
火の揺らめきを追いながら、ルダの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「……私はあまり語り上手ではないが……今夜は、話しておこう」
◇
塔も知らず半身を持つ前、彼は山間の小さな村に生きていた。
祈りと薬草に支えられた、素朴な暮らし。
弟や妹、祖母とともに過ごす、静かな日々。
僧侶として生き、祠と祭壇に小さな灯をともしては、旅の者に水を差し出し、争いごとを鎮める──そんな日々が永遠に続くと信じていた。
けれど、戦が来た。
正義を争うような戦ではない。
王の私兵が、辺境に残された古い魔術の痕跡を粛清しに現れたのだった。
そのとき、彼はまだ十六。
燃えさかる家の前で、彼は泣き叫ぶ妹を抱きかかえた。
弟は逃げる途中、矢に倒れ、祖母は祈る姿のまま、灰になった。
──守れなかった。
妹は、炎に照らされながら、小さな声で「怖いよ、お兄ちゃん」と震えていた。
けれど、その妹もやけどがひどく、朝が来るころには、もう何も言えなくなっていた。
彼は、燃え尽きた屍の山のなかにただ立ち尽くしていた。
鎮魂の祈りすら、唱える気力がなかった。
すべてが無力で、無意味に思えた。
この先、生きる意味とは何か。
ルダは考える力もなくしていた。
そんなとき、塔からの使者が現れた。
古き魔術師が暮らす村が焼き討ちに遭あったとの報を受けて、塔が調査部員を派遣したのだった。
その中にメザルがいた。
メザルは、少年に半身の気配があることを見抜き、塔に来ることを勧めた。
居場所のない彼は、言われるがままそれに従った。
十四歳の適齢期は過ぎていたが、イラヤの儀式で半身を得て塔に入り、メザルの弟子となった。
「私は、守れなかった者だ」
ルダは、ぽきりと小枝を折り、焚火に足した。
火が、少しだけ勢いを増す。
「なぜ守れなかったのか──誰にこのツケを払わせればいいのか、そればかり考えていた。なぜ、こんなことが起きたのか、納得がいかなかったのだ」
焚火の炎がふたりの間に揺れた。
「だが、あるとき気付いた。亡くしたものは、どんなに望んでも、ツケを払わせたところでもとには戻らん。『なぜ』ではなく、『どうすればよかったのか』、『次はどうするべきか』と考えるほうが、ずっと有用だとな。私はそう考えた」
ルダはふっと笑みを浮かべる。
その笑みには、どこか苦みがあった。
「ちなみに……私は昔、ずいぶん激げきしやすい性格だった」
エイラが思わず目を見張ると、ルダは小さく頷いた。
「だが、激情だけでは守れない」
淡々と語られる言葉に、確かな重さがある。
「魔術師が命を落とす最も多い理由は、慢心と過信。
そして、激しやすい者ほど、過信しやすいものだ。」
ルダは、枝で火を軽くつついた。
「だから、思考の流れそのものを、意識して作り変えたんだ。心に隙間を持つようにな。 感情に押し流される部分があってもいい。ただ、心の片隅に、常に客観的に物事を処理する場所を残しておく──その癖くせをつけたんだ」
火が、ぱちりとまた音を立てた。
「観察を怠るなと言ったろう。あれは、自分自身に対してもだ。
判断を下すなら、そのとき自分がどういう状態だったのか。情報は足りているのか。主観が事実に混ざっていないか──思考する。頭の中の静かな場所で。
そうやって、少しずつ、自分のやり方を作っていったのだよ」
エイラは、改めてルダの顔を見つめた。
こんなに多くを語る師匠を見るのは、初めてだった。
言葉の端々に、大切なことが散りばめられていると感じる。
「……勉強になります」
そう言うと、ルダはわずかに首を横に振った。
「おまえは、おまえの道を行け。真似るな。お前が気づいたことを、自分の足で踏みしめて、確かなものにしろ。自分のやり方を見つけろ──それが、強さになる」
そう告げると、ルダはふたたび寡黙かもくな師匠に戻った。
火がひときわ大きな音を立ててはぜる。
ふたりは黙って、それを見つめていた。




