旅立ちの見習い魔術師 ◇飛翔
「うわ、怖い!」
ふらふらと上下するロディスの軌道に、エイラが横からそっと手を添える。
「ほら、重心を意識して。風に任せるんじゃなく、気流を意識して」
「それが難しいんだってば……なんだか、上にぐんぐん引き上げられるんだ」
やりとりに笑い声が重なり、シルが後ろからついてくる。
「二人とも、落ちないでよー!」
塔を出て向かったのは、緑の蔦に覆われた古城。
半ば廃墟ながら、まだしっかり建っていて、魔術師見習いたちの格好の息抜きの場でもあった。
飛行訓練を終えた三人は、大広間に入る。
打ち捨てられた床には薄いヒビが入り、蜘蛛の巣が下がっていた。
「うーん、よし、ちょっと待ってて!」
シルが両手を広げ、深く息を吸った。
冷たい床に小さな芽が生え、大木となり、枝を広げていく。
黄色いシャンデリアのような菩提樹の花が咲き、足元には緑の下草が絨毯のように広がった。
「すごい……」
「いい香りだ」
ロディスとエイラが思わず拍手する。
「魔力も回復できるからね。帰り道も元気いっぱいだよ」
肉団子、ジャガイモとキノコの炒め物、エンドウ豆と卵のサラダ。
ふわふわの白いパン。
シルの作った素朴な料理を囲みながら、笑い合う時間。
「ねえ、エイラ。この前言ってた、指がべとべとしない魔法、教えてよ!」
シルが指についたソースを舐なめながら、言った。
「あのね。指に何もくっつかないイメージで魔力を込めるの。おやつを食べながら魔導書を読むのに便利なんだ」
シルの目が輝く。
「できそう! ……あ、できた!」
「じゃあ、僕は、固い椅子が柔らかくなる魔法を教えてあげるよ」
ロディスが得意げに胸を反らした。
「お説教されるときに使えそう」
シルが前のめりになった。
「お説教はいやよ」
エイラが口を尖らせる。
「ほかにもあるよ。先輩に教えてもらった魔法があって」
ロディスが指を折りながら数え始める。
「おいしくないごはんがおいしく感じる魔法。それから、適当な返事をドアがしてくれる魔法。音が漏れない魔法。宿のドアを破られない方法。それから初めてでも――っ……あ、これはなし」
シルがつんつんとロディスをつついた。
「なあに? ロディス、教えなさーい」
ロディスは真っ赤になって膝を抱え、顔を埋める。
「だめ!これは塔の男子に伝わる大事な魔法だから、女の子には教えないんだ」
「吐かせよう! 手伝って――こちょこちょこちょ!」
「わーやめろ!!」
エイラはお腹を抱えて笑った。
「あはははは!」
散々笑い転げた後。
エイラが布にくるんだ果実を三つ取り出す。
ロディスが目を丸くした。
「また珍しいのを……桃だろ? 塔の庭で?」
「うん。アイビーが、今朝の風でちょうど熟うれたってくれたの。
ちょっと酸っぱいけど、おいしいよ」
ロディスとシルが手を伸ばす。
その果実を一口かじろうとした瞬間――。
エイラは、突如としてざらついた風に包まれた気がした。
手からポロリと桃が落ちる。
「……?」
いぶかしげにロディスがこちらを向く。
ふわりと鼻先を風が撫でた。
恐怖と悲鳴が、耳ではなく、魂に直接、言葉にならない音の波として押し寄せてくる。
気がつけば、エイラは険しい表情で立ち上がっていた。
「どうしたの?」
ロディスの問いが終わる前に、彼女は急せき立てられるように広間を出て行った。
シルとロディスは顔を見合わせ、慌てて後を追う。
エイラは夢の中にいるようだった。
遠目を使うつもりなどなかった。
けれど今、はっきりと見える。
目の前の景色とは別に、脳に直接映し出されるように。
子供が追われている。幼い子だ。
暗い眼光をした、大きなネズミのような獣が、その子を追っていた。
どう見ても、子供には不利だ。
――かわいそうに。
遠い日に、誰かが言った言葉が重なる。
――かわいそうに。
理不尽にむしり取られる、小さな命。
子供を追う獣の額に、何かが見えた。
赤い星。
――イフェルの印。
あの女神の舌先が触れたもの。
体が熱くなる。
濁流のような感情が沸き起こる。
(――ああ、憎たらしいイフェル)
ロディスとシルが古城のバルコニーでエイラを見つけたとき、
彼女は飛行魔法で宙に浮かんでいた。
黒く長い髪がたなびき、青灰色の瞳は青い炎を宿してらんらんと輝いている。
二人は――ひどく美しく、そして恐ろしいものを見ているようで、息を殺した。
エイラの体に、小さな光の粒がまとわりつく。
その輪郭が無数の光に変わったかと思うと、まばゆい残光を残して掻き消えた。
ロディスは、ふわりと舞い落ちてきた一片の白羽根を両手で受け止める。
「ちょっと、何が何だかわからないけど……ロディス」
少しかすれた声で、シルが彼を振り返った。
「――何からはじめようか?」
****
ロディスの背中が、緊張で張りつめていた。
バルコニーの縁に立ち、エイラが見ていた方角へ目を凝らす。
(――いつもの遠見ではよく見えない)
シルは傍らで、両耳に手を当て、目を閉じた。
『樹下に集いし、我らの友よ。私に声を聞かせておくれ――』
さまざまな生き物の声が流れ込む。
必要な情報を拾うため、シルは静かに深呼吸をした。
(聞き洩らさない。どこかにある、確かな異変を)
その時――無数の砂粒の中から、小さな光を拾うような感覚が走る。
「ロディス! 十時方向の山!」
ロディスはその方角を見据え、右手の指先で額の星に触れた。
額の力を使うことは、非常時以外は避けてきた。
(今はためらわない!)
それではっきりと見えた。
子供が追い詰められ、後ずさっている。
気味の悪いイタチのような魔獣が、じりじりと取り囲んでいた。
(――だが、襲いかかってはこない)
類円形に間合いを取ったまま、魔獣まじゅうのような異形は動けずにいる。
静かな怒気どきに射すくめられたかのように。
視線を上げれば――暗い森を照らすように、一羽の真っ白な大梟が光を浴びて、太い幹に止まっていた。
蒼い眼差しは、夜の獣どもを射抜く刃。
圧倒的な力量の差を、魔獣たちは本能で悟っていた。
――エイラだ。
胸が締めつけられる。
ロディスは目を開き、短く告げた。
「いた!見つけた。共有する」
シルが手を差し出し、ロディスがそれをつかむ。
ロディスが見た映像が、シルの脳に流れ込む。
シルは瞬きもせずそれを見つめた。
「あらら……思ったより、かなりピンチだね。メザルに伝える」
シルが目を伏せ、呼びかける。
「翼の早い子――来て」
一羽の燕つばめが吸い寄せられるように滑り込んできた。
シルは目を閉じ、言葉ではなく心でイメージを伝える。
燕が鋭く鳴き、素早く飛び去った。
「……メザルの半身はカラスだろ?」
ロディスが心配そうに問う。
「知らないの?カラスって、ほかの鳥と話せるんだよ」
シルは後ろを振り返り、ロディスに向かってはっきりと告げた。
「大丈夫、追える。――きっと、見つけられるよ、わたしたちなら」
ロディスは頷き、半身を呼ぶ。
ほど遠からぬ場所で――。
額に星を戴く古き狼、ラジの遠吠えが響き渡った。




