21 雪に溶ける
ようやく平和な日常が戻ってきたその日、アキはいつものように仕事を終えると足早に家路を急いでいた。
今日はイゼルと夕飯を食べる日だった。雪のちらつく中、家にある食材を思い浮かべ何を作ろうかと考えながら歩く。冬になってもイゼルは畑で採れた野菜をせっせと持ってくるので、アキの食料庫はそれなりに充実していた。
彼女が家の前につくと、既に玄関の外灯がついていた。窓からは居間の明かりがもれている。
彼には一月ほど前に合鍵を渡していた。というのも寒くなってきたので、万が一帰りが遅くなった場合に待たせてしまったら悪いと思ったからだ。会う日はなるべく早く帰るようにしていたのだが、それでも時々こうして遅れてしまうことがある。
自分以外の誰かが家にいる。アキは何とも不思議な気持ちで、明かりのついた窓を外からみやった。
鍵をあけて扉をあけると、奥からイゼルが顔を出した。台所から漂ってくるのか、何かいい匂いがあたりに立ち込めている。
「おつかれさまです。雪がついてますよ」
そう言ってイゼルはアキの肩を指差した。彼女は慌てて雪を払いながら中に入る。吐かれた息は白く、玄関から暗闇に溶け込んでいく。
「外に出たらまた降っていました」
「明日は積もりそうですね」
この数週間、日中は降ったりやんだりを繰り返していたが、今夜は恐らく夜通し降り続くのだろう。
城内における主要な場所や、城下の大通りにおいては熱を発生させる魔法陣が敷かれているので雪が積もることはなく、最初アキは感動した。しかし金持ちならいざしらず、細い道や個人宅までは魔力のコストがかかるため、もっぱら人力で除雪しなければならないところは元いた世界と同じだ。
アキは朝の雪かきのことを思うと少し憂鬱になった。
「頭にもついてます」
アキの黒い髪の上にうっすらと積もった雪に目をとめ、イゼルが手をのばしてきた。彼女はおとなしく頭をさげた。
大きな手がアキの髪をそっとすべるように撫でていく。その感触に、アキは一瞬ぞわりとする。触れたそばから溶けていく雪片が彼女の髪とイゼルの指先を濡らしていく。
しばらくしてイゼルの手が所在なさげに宙にさまようと、彼女の肩に置かれた。一瞬、沈黙があたりを支配する。
「どうかしました?」
「いえ、玄関は冷えるので行きましょう」
顔をあげたアキが問うと、イゼルは赤くなった頬を隠すように居間へと彼女を促した。
夕飯後、二人はソファでハーブティーを飲んでいた。イゼルの淹れてくれたそれは、リグレンへの出張の際に飲んだものと同じで、今はアキの家にもストックされている。
二人はぽつりぽつりと話しては会話がとぎれ、やがてストーブの燃える音だけが部屋に響くようになった。訪れる沈黙は決して不快なものではなかった。
「今日は、お渡ししたいものがあります」
先に沈黙を破ったのはイゼルだった。アキが隣を見上げると、彼は真剣な眼差しでこちらを見下ろしていた。間近で見るアイスグレーの瞳に吸い込まれそうだと思った。
アキはそこから目を離すことができないまま、居住まいをただすように体をイゼルの方に向き直した。
「これを、受け取ってくれますか」
彼は背後から隠し持っていた何かを彼女に手渡した。
アキが、何となく彼から目を離すのを惜しく思いながらゆっくりと手元を見ると、それは油紙に包まれたものだった。両手にすっぽりと収まる。
もう一度彼を見上げると、イゼルは開けるように促して頷いてみせた。その表情はなぜか硬い。
「……あ」
簡素な包みを開いたそこにあったのは、一本のスプーンだった。蔓草のからむ繊細な装飾がほどこされた木彫りのそれに、アキは収穫祭の時のことを思い出した。
「まさか、これ、イゼルさんが作ったんですか?」
あの時、スプーンを買おうとするアキに、彼はやたら真剣な表情で自分が作ると言ったのだ。
「俺の故郷では、結婚を申し込む時に自分で彫ったスプーンを送ります」
「なぜ……スプーンを?」
アキは急に自己主張をはじめた自分の鼓動を意識しないようにつとめ、なるべく平静を装って聞いてみた。というのも、もし自分が何か勘違いをしていたら、とてもいたたまれないと思ったからだ。
「古い慣習ですが、食うに困らせないという意味がありますね」
もっともその意味は既に形骸化しているが、と彼は付け加えた。
アキはじっとスプーンを見つめていた。彫刻の部分をなぞるように指を滑らせると、なめらかな感触がして、丁寧なつくりであることがうかがえた。
「とても綺麗……」
ポツリとアキが呟くと、イゼルの手がのびるのが見え、彼女の手を握り込んできた。自分の手が大きな彼の手に包まれていくのを意識してしまう。
彼女は頬が熱くなっていくのを感じ、うつむいたまま顔をあげることができなくなった。
「あなたに他意はないと分かっていても、他の誰かが作った物を持っていて欲しくなかった。自分でも狭量な男だと思います」
「そんなことないです……」
アキは自嘲するような彼の声になんとか返事をするが、とにかく恥ずかしくて仕方がない。
「あの、ありがとうございます。大事にしますね」
なんとかして赤い顔のままアキが顔をあげると、イゼルと目が合った。恥ずかしくてたまらないのに、その瞳から目をそらすことができない。
「アキ殿、どうか俺の伴侶となってください」
彼の顔はひどく切なげで、アキは心臓が掴まれたように息がつまった。と同時に不安がドッと押し寄せてきた。
「……あ、の、本当に私でいいんですか?」
以前コンラスはアキに「仕事ばかりさせてしまった」と謝った。トリヤーナはアキのことを「仕事人間」と評した。それは自分の望んだ道で後悔はなかったが、アキにはどうしても聞かずにはいられなかった。
「私は……今の仕事を辞めたくないんです。というか辞められないというか」
「はい」
考えを整理するように少しずつ話し出すアキの様子に、イゼルは辛抱強く次の言葉を待った。
「今日みたいに帰りが遅くなることもあるし」
「はい」
アキがイゼルを見上げると、彼はいつものように淡々とした表情だったが、真摯に彼女の言葉に耳を傾けているようだった。
「だらしないですし」
「そうですか?」
「だって、イゼルさんはいつも身なりも身辺もキチンとしてるのに、私ばかりみっともない所を見せてます」
「それは……あなたが俺のみっともない所を見ていないだけです」
イゼルがふと目を彷徨わせ頬を僅かに染めた。
「年上なのに」
「……俺が年下だと頼りないですか?」
「そうじゃなくて」
アキはゆるゆると頭を横にふる。
「だから、つまり、家でご飯を作ってあなたの帰りを待ってる奥さんにはなれないんです」
アキはだんだん自分がみじめに思えてきた。彼と付き合ってからは不思議と忘れていたが、やっぱり自分には何の魅力もないのではないか。コンラスが見合いの話を持ってきた時にもそう思ったのだ。果たしてもし自分が男だったら、わざわざこんな女を嫁にしたいだろうか、と。
「俺は……アキ殿に家で出迎えてもらいたくて結婚を申し込んでいるわけではないのですが」
彼は少し困ったような顔をしたが、声色は優しかった。
「じゃあ何で私と結婚したいと思うんですか」
この国では結婚した女性は一度仕事を辞める人が多い。少なくともアキの周りではそうだった。家に入るのが当たり前なのに、彼はそれを望んでいるわけではないらしい。
アキはぐるぐると回る頭で余計なことばかり考え肝心なことを忘れていた。
「アキ殿のそばにいたいからです」
少し強い口調で言われたその言葉に弾かれて、見上げた顔はなぜか怒っているようだった。
「アキ殿は……違うのでしょうか」
視線を落とし、幾分ひそめられた声は、誰に言うでもなくつぶやかれた。
「……そうか」
彼の顔を見ていたら、自然と口をついて出た。イゼルが視線を戻すと、アキは張り詰めていたこわばりを解いてふにゃりと笑った。
彼の言葉が腑に落ちた彼女は、それ以上意味のない問答をあれこれ考えることをやめた。
「……私も、もっとイゼルさんのそばにいたいです」
アキの気の抜けた笑顔を見たイゼルが彼女の肩に手をかけた。気がついたらアキの目前にはアイスグレーの瞳が迫り、彼女は魅入られたように呆けた顔をした。その隙に彼は素早く頬に唇を落とした。
それはほんの一瞬のことで、アキには何が起きたのかよく分からなかった。
「すみません。つい」
アキが何か言うよりも先に、衝動的な行動を恥じたイゼルが真っ赤な顔で謝ってきた。
やがてアキにも自分の身に起きたことがようやく分かったのか、じわじわと熱くなる頬に手をやる。恥ずかしいが、不快ではない。むしろ嬉しいとすら感じてしまう。ただ何と言えばよいのか分からなくて、アキは固まっていた。
「浮かれすぎました」
「いえ、謝らないでください……」
ぜんぜん浮かれているようには見えないけど、と思いながら、申し訳無さそうな顔をするイゼルにアキは恐縮する。何か自分も言わなければ、彼に悪いと思った。
「あの、もっとしていただいてもぜんぜんかまいませんから」
彼女の発した小さな声に、イゼルはぴしりと固まる。
アキは猛烈に自分の舌をかみ切りたくなった。もっと他に言いようがあっただろう。こんな馬鹿なことを言うつもりじゃなかったのに、何とかイゼルの好意に応えようと沸いた頭で考えたのが悪かったのだ。自分の方こそよっぽど浮かれている。
「あの、今のは……」
慌てて真っ赤になる顔を手で隠そうとすると、先にイゼルに掴まれた。アキを見つめる瞳は潤み、熱にうかされているようだった。眉を寄せて何かをこらえている。
「本当ですか?」
「え、それは」
彼女が何か弁解の言葉を紡ぐ前に、イゼルはその口を塞いだ。その衝撃にアキは何も考えられなくなり、頭の中が白く濁っていく。
一度軽く押し付けたそれはすぐに離され、イゼルは怖いくらいに真剣な顔でアキを覗き込んだ。
「嫌、ですか?」
イゼルは再度、確認するように問う。
これは、きっとそういうことなのだろう。慣れていないアキでもさすがに分かる。アキは思考を放棄しそうになる頭の片隅で清水の舞台から飛び降りることにした。
「嫌じゃないです」
アキが消え入りそうな声をしぼりだすと、イゼルはふわりと笑った。まるで花が開いたよう、とアキはきつく抱きしめてくる彼の腕の中で思った。
翌朝、まだ日が昇らない薄暗い中を、なにやら動く影があった。
「あの、まだ早いですし寒いですから」
「大丈夫です。アキ殿は寝ていてください」
一抹の不安を抱いたアキが止めるのも聞かずにイゼルは玄関を出た後、一心不乱に雪かきをしていた。
その勢いはアキの家の玄関先にとどまるところを知らず、周囲の家々にまで及んだ。彼の顔は妙にスッキリとしている。
案の定、早朝の雪かき音を不審に思った隣の婦人が顔をだしてきた。彼女は既に雪かきがなされている玄関先と、爽やかに挨拶をしてくるイゼルの姿を見て驚くが、その好奇心を隠そうともしなかった。
アキとはどの様な関係なのかと直球で問われた彼が「婚約者です」と即答したことをアキはまだ知らない。




