19 深夜の打ち上げ
日付はとっくに変わり、宿舎の周辺は静まり返っていた。アキはなるべく音をたてないように気をつけながら鍵をあけて、イゼルを招き入れる。
2日ぶりの我が家は人気がなかったせいで冷え切っていた。アキは上着を着たまますぐに居間へ向かうとストーブの火をつけた。
「ワインとビールと蒸留酒がありますが何がいいですか?」
アキは自分で言いながらそのラインナップに少し恥ずかしくなった。
ものすごい酒呑みに思われたらどうしよう。決してそこまで酒に強いわけではないのだが、食事や気分に合わせて買い求めるうちに少しずつ増えていってしまったのだ。さらに言い訳をするならトリヤーナが飲む分も含まれている。
「蒸留酒にしましょう。俺がやるのでアキ殿は座っていてください」
イゼルはアキをソファに座らせると、律儀に軍服を脱いでからキッチンに向かった。汚れを気にしてのことなのだろうが、アキはまだ上着を脱ぐ気になれなかった。
「寒くないんですか」
「そこまでは」
王都よりも気温の低い土地で育った彼のことだから、体感温度が違うのかもしれない。それとも筋肉量の違いなのか? とアキはぼんやりと、その逞しい背中を眺めながら思った。
「お酒はいつもの床下にあります」
アキの言葉にイゼルが頷く。彼は、どこに何があるのかを大体把握しているほどには、この家に馴染んでいた。社会に出てから10年近く一人暮らしをしてきたアキにとって、それはとても不思議なことだった。
イゼルが手にしたのは穀物の蒸留酒にスパイスで香り付けがされたものだった。確か去年の収穫祭で珍しく思って買ったはいいものの、一人ではなかなか減らないので持て余し気味だったのだ。
その小ぶりな酒瓶を見た彼は何か思い付いたのか、手慣れた仕草でコンロに火をつけて湯を沸かしはじめた。
「何か食べますか?」
言われてみれば、今日の夕飯は早めにすませたのでアキは小腹が空いていた。だが、何をつまみにすればいいのかさっぱり分からなかった。
「このお酒には何が合います?」
アキの問いかけにイゼルは少しの間逡巡してから口を開いた。
「ナッツや干した果物でしょうか」
「干したベリーなら戸棚にありますよ」
それはアキがおやつ代わりにストックしているものだった。特産品のジャムに加工される事が多いのだが、アキは生で食べる方が好きだった。残念ながら夏の短い間にしか出回らないので、一年の大半は干したもので我慢している。
静かな夜にヤカンが音をたてて蒸気をあげた。イゼルはカップに蜂蜜をいれて酒を注ぐとお湯割を作った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
イゼルが手渡しながらソファに座ってきて、アキは彼の近さを少し意識しながら礼を言った。
二人の間にはほんのわずかな隙間があって、彼女はなんだかそれがもどかしかった。
部屋の中はまだ十分には温まっていなかったが、カップを両手で包むとじんわりと熱がひろがっていく。そっと口をつけると、少しクセのあったスパイスの香りは蜂蜜の優しい甘さで和らぎ、寒い夜にはちょうどいい。
「そうか、度数の強いお酒もホットワインみたいにできるんですね」
アキは何となくストレートで飲むものだとばかり思っていたので、意外に思った。
「木こりや猟師が野営するときによくやります」
「美味しい……」
ゆっくりと体が温まり、疲れに沁みていくようだった。
二人はとくに何かを話すでもなく、ただちびちびとカップの中身をあけていった。
ちょうど飲み終わる頃、忘れかけていた眠気がアキを急激に襲ってきた。隣で様子を見ていたイゼルが彼女と自分のカップをそっと床に置くと、背もたれにあったブランケットをひっぱり、アキにかけてやった。
「このまま寝ちゃいそう……」
イゼルはごく自然な仕草でアキの腰に手を回し、彼女を肩にもたれさせるように抱き寄せた。
「どうぞ寝てください」
いいかげん風呂に入りたかったし、本当は体を奮い立たせてお開きにするべきだと頭のどこかでは思っていた。それでも、服を通して伝わる人肌のぬくもりと安心感に抗ってまで、彼の抱擁をふりほどく気にはなれなかった。
アキは自ら暖を求めるように体をすり寄せると、反対側に置かれた彼の手を握った。
「おやすみなさい」
イゼルは困ったような顔で少し微笑んでいたが、アキにはもう見えていなかった。
次の日アキは目を覚ますと、自分が誰かに体を預けて寝ていたことにギョッとした。
慌てて記憶をたどりながら視線を上にあげる。そこには静かに寝息をたてているイゼルの顔があった。ホッとしたのもつかの間、彼女の顔はみるみるうちに赤くなっていった。
閉じられた瞼には髪と同じ色素の薄いガラス細工のようなまつ毛が降りていた。印象的な瞳が見えないためかその寝顔は少し幼く見えた。珍しく緩められているシャツの襟元からは鎖骨がのぞいていて、アキはなぜだか見てはいけないものを見てしまったような気がして鼓動が早くなっていった。
目をそらすように窓に向けると、差し込む陽の光がいつもならとっくに出勤している時間であること告げている。一瞬慌てるものの、すぐに今日は午後からの出勤だったことを思い出す。
もう一度、無防備に寝ている彼の姿をここぞとばかりに眺めていたら、彼女の食い入る視線に気づいたらしいイゼルが、かすかに眉間にシワを寄せた。アキがそのニヤついたしまりのない顔をひっこめる間もなく、彼はあっけなく目を覚ましてしまった。
「……おはようございます」
「おはようございます。……何かありましたか?」
彼はアキのへらへらとした顔を見て訝しく思ったのか、ソファに預けた体を起こしながら言った。
「なんでもないです。気にしないでください」
アキは慌ててソファから立ち上がり、かけていたブランケットをせわしなく畳みはじめた。
昨日は酔いにまかせて自分にしてはずいぶんと大胆なことをしてしまった気がする、と彼女の顔は熱を帯びるが、あの時はそうすることがごく自然なことだと思えたのだ。
「洗面台をお借りしてもよろしいでしょうか」
「はい。今お湯を沸かしますから、ちょっと待ってくださいね」
「いえ、水で結構です」
イゼルはそう言うなりすごい勢いで洗面台に向かっていってしまった。この時期の早朝の水はかなり冷たいはずだ、と心配していると、戻ってきたイゼルの髪がなぜかしっとりと濡れている。
「……髪洗ったんですか?」
「はい。少し頭を冷やしたかったので」
冷やすどころか風邪をひくのでは? とイゼルの不可解な行動にアキは眉をひそめた。
彼のシャツの襟元はいつものようにしっかりと閉じられており、アキはそれを見てホッとしたのと同時に少しがっかりした。
二人はどちらともなく朝食の用意をはじめ、パンとチーズにコーヒーという簡単な食事を終えると、午後の出勤の支度のためにイゼルは一度寮へと帰ることにした。
「明日の晩、また伺ってもいいですか?」
彼は戸口に立つと、真摯な表情で言った。
イゼルがアキの家で夕飯を共にするようになってから、彼は自分のシフトを彼女へこまめに伝えていた。既に今週の予定は知っていたが、イゼルはいつもこうして確認してくれる。
「はい、お待ちしています」
彼はアキの言葉に少し顔をゆるめる。
「あ、そうだ。イゼルさんこれ、使ってください」
アキは、玄関の棚に置かれた小箱の中に手を突っ込んで掻き回す。やがて小さな鍵を探りあてると、そのまま彼の手に握らせた。
「合鍵です。私より早くこちらに来た時は寒いから中に入っていてください」
彼は手のひらをじっと見つめている。
「よろしいのですか?」
「もちろん」
彼には既に、乱雑な部屋を何度も見せてしまっているし、だらしない姿も見せてしまっている。恥じらいがないのもあれだが、アキにはもう隠すものなど何もなかった。
「ありがとうございます」
そう言って彼は、大事そうに鍵を握ると軍服の内ポケットにしまい込んだ。服を整えると、何か言いたげな様子でじっと見つめてきた。
「どうかしましたか?」
アキが促すと、イゼルはわずかに頬を赤くして目をそらした。
「……抱きしめてもよいか迷っていました」
その言葉にアキはブワッと全身が熱くなり、何も言えなくなってしまう。
口を開けたり締めたりして狼狽える彼女に、イゼルは慌てて弁解するように手をあげる。
「申し訳ありません。夜分のことはつい……いえ酒のせいにするつもりはありません」
「いえ私こそ、あのまま眠りこけてしまいご迷惑をかけました」
今更恥ずかしさがこみあげてきて二人は互いに謝りあうが、再び沈黙が訪れる。
やがておずおずとアキが彼の方へ手を伸ばすと、イゼルがホッとしたような表情で彼女の体を引きよせた。二人はずいぶんとぎこちなく抱擁を交わしたのだった。
「あら、おはようございますー」
戸口で彼の去りゆく姿を見送り、さぁ自分も準備をしなければと振り向いたところを、待ち構えていたような挨拶が耳に飛び込んできた。まさか人がいるとは思わず、アキはびくりとし、冷や汗をかきながらその方向を見やる。
「毎日お仕事たいへんねぇ、昨日はずいぶんと遅かったみたいじゃない」
隣の婦人の意味ありげな笑顔に、アキはひきつった笑顔で頭をさげた。そそくさと家の中に逃げ込むと、筋肉痛で気だるい体をひきずるようにして風呂場へと向かった。




