平穏な暮らしのために
「おい、レジナルド! 今すぐ増援の兵を出せ! あの魔王の無礼極まりない態度、
絶対に許せねえ。叩きのめして教育してやる!」
白亜の大理石が敷き詰められたヴァレリウス帝国の謁見の間。
重厚な扉を凄まじい音を立てて弾き飛ばし、
踏み込んできた人類最強の勇者エゾは、
玉座に鎮座する皇帝を見上げて激昂していた。
だが、皇帝レジナルドは深くため息をつき、静かに首を横に振る。新魔王アインの底知れぬ実力を本能的に察知している皇帝にとって、不用意な刺激は国家の破滅を意味していた。
「断る。それはあまりにも無謀な行動だ。
エゾよ、今回の件はただ見逃すのだ」
「見逃すだと!? ふざけるな、俺のプライドがあの侮辱を黙って流せるわけねえだろ!」
「これは皇帝としての命令だ。絶対に無茶な真似はするな、エゾ」
鋭い威圧を放つ皇帝の言葉に、
エゾはチッと舌打ちをしながらも、
不敵な笑みを浮かべた。
「……チッ、別にいいさ。あんた、
まだあの国に血の刻印を押してねえんだろ?
だったらなんで俺の邪魔をするんだよ?」
「それには別の深い理由がある。
断じてお前の個人的な我が儘や、
身勝手なプライドのために動かせる国ではない」
「へえ、そうかい。あんた、俺が人類最強の
『勇者』だってことを忘れてんじゃねえか?
国が協力してくれないなら問題ねえよ。
俺一人で、あの魔王の国を直々にぶっ潰してやる。それに……俺にはあいつがいるからな。あの女一人いれば、
魔国全体を消し去ることだって容易いんだよ」
エゾの口から出た相棒の言葉に、
皇帝レジナルドの顔が目に見えて青ざめた。
その存在がどれほど危険な兵器であるかを、
皇帝は誰よりも理解していたからだ。
「……何だと? まさか、
あの娘を一人で使おうというのか……!?」
「さあな、
それはもうあんたの知ったことじゃねえよ」
踵を返し、
謁見の間を去ろうとする勇者の背中に、
皇帝は必死の警告をぶつける。
「エゾ! 行動は慎重に考えろ! お前はあの魔王をあまりにも過小評価しすぎている!」
「過小評価なんかしてねえよ。
これが現実ってだけだ」
重々しい扉が閉まり、
人間の傲慢さと不穏な火種が帝国に残された。
◇◇◇
「魔王城の広大な図書室の奥深くで、古びた羊皮紙の匂いは突如たる猛烈な熱気によって完全に吹き飛ばされた。俺は自分の手のひらを見つめ、一寸の濁りもないその皮膚の上に、鮮やかなオレンジ色の炎が小さくパチパチと弾けながら浮かんでいるのを目を限界まで丸くして凝視していた。純粋な、カケラほどの嘘偽りもない歓喜の涙が、今にも目から大理石の床へとパパッと零れ落ちそうだった。
(やった……おいマジで言ってんのかよ!?
あの地獄の指導(特訓)を経て、ついにすべての魔法の中で最も初歩的な**【火炎球】**を正式に発動できたぞ! 俺はもう、一から十まで完全な出来損ないの詐欺師じゃねぇんだ!)
俺は猛烈な勢いで振り返り、その唇に暢気な不敵な笑みを浮かべながら、隣にいた魔族の少女に向かって次の計画を力強くアナウンスした。
「ルーン! 今すぐあの危険な森へ行くぞ!
俺の新しいスキルの威力を試してみたいんだ。
この魔法がどれだけの物理的質量
を叩き出せるのか、本物の標的
が必要だからな!」
俺は上着の位置を直し、言葉を重ねた。
「あぁ、それとナスに言って、ミクロも一緒に連れてこさせてくれ。実際の野生の環境で、ミクロが一体どんな能力を秘めてるのかこの目で一度見てみたいしな」
だが、俺がそのセリフを最後まで言い切るよりも早く、図書室の重厚な扉が滑らかに左右に開かれた。ナスがプロの執事としての容赦のない規律を顔に張り付かせながら室内に踏み込み、その両腕で黒猫をまるで国宝の遺物かのように恭しく抱え上げていた。
「ミクロ様は、常に準備万端にございます」
ナスは深遠な、
地鳴りのような心酔の声を室内に響かせた。
「ミクロ様があなた様を失望させるようなことは絶対にございません、エイン様。あの御方の神々しい肉体は、大自然のいかなる障害をも完全に私物化する手作業が整っておりますから」
俺は、頭の上の王冠を片方の耳の横に少しだけ傾けたまま、暢気に気の抜けたあくびをしている猫を見下ろした。
「そいつはどうだか。あっちの化け物どもに、
丸ごと一瞬で喰い散らかされなきゃいいけどな」
「一切のご心配は無用にございます、エイン様」
ナスは硬い、直立不動の一礼を捧げた。
「この私の両腕が、あの御方の絶対的な防護となりますので」
「まぁ、それなら出発するか」
俺は暢気に顎を引いた。これから歩かなきゃいけない長い骨折り損の道のりを覚悟して。
だが、ルーンちゃんは宮廷の扉に向かって一ミリも動ようとはしなかった。代わりに彼女は図書室のド真ん中へと一歩踏み出し、その小さなツノをピクピクと震わせながら巨大な魔導書を開いた。
「エイン様、どうぞ近くへお寄りください」
彼女が蚊の鳴くような声音で静かに囁いた瞬間、俺たちの足元の床に、複雑な銀色の ルーンが猛烈な勢いで光り輝く輪(魔導陣)として視覚的に顕現した。
フワッ。
一瞬の残光の後、視界を埋め尽くしていた巨大な本棚の山は完全に消失した。図書室の暖かな空気は、瞬時に湿った、肌を刺すような冷たい突風へと変貌し、俺たちの頭上には、恐るべき野生の木々がドス黒く絡み合う天井が現実として姿を現していたのだ。
俺は瞬きをし、完全な白目のドン引き顔で周囲の現実を凝視した。
「おい……今のは一体全体何なんだ!?」
「転移魔法にございます、エイン様」
ルーンちゃんは顔をかすかに赤く染め、
恥ずかしがり屋の微笑みを浮かべながら報告した。
「へぇ……おいおい、
実質死ぬほど便利じゃねぇか」
俺はボソッと呟いた。自身の合理主義が、歩く骨折り損を完全にゼロにするその手際をパッと絶賛していた。俺は頭を振り、前方の開けた場所へと一歩踏み出しながら右手を掲げた。
「よし、お前たちよく聞けよ。これから先、何が起きたとしても俺たちの戦いにだけは絶対に割込み(インターラプション)するんじゃねぇぞ。俺たちの平穏な引きこもり生活を守るためには、自分自身の力で身を護る(ガードする)現実を身に付けなきゃならねぇんだ。お前らの防護なしで、俺がどこまでやれるのか正確に把握しておきたいんだよ」
「御意にございます、エイン様」
ナスとルーンが同時に深く顎を引いて返事をし、
俺に空間を譲るために静かに後ろへと下がった。
俺は静かに目を閉じ、魂の奥底にある限界なき魔力容量に意識を集中させ、その魔力の細い一本の糸を攻撃魔法の型へと強引に成形しようとした。だが、俺の手のひらに火炎球の火花が視覚的に顕現するよりも早く、前方の鬱蒼とした茂みが暴力的な質量で完全に粉々に爆砕した。
一頭の巨大な、見るもおぞましい形相にねじ曲がったオーガが――普通の人間の優に三倍はあろうかという巨体に、頑丈な古の傷跡を無数に刻み込んだ化け物が、猛烈な殺意の質量を乗せて俺の正面へと突進してきたのだ。その化け物は地鳴りのような大咆哮をあげ、巨大な石の棍棒を頭上に掲げながら、超高速の残像となって一瞬で距離を詰めてきた。
「おい、待てっ――!?」
俺はパニックの声をあげ、身体の生存本能が即座に脳内で悲鳴をあげる中、完全に理性を失った防護の構えを強引に固めようとした。
だが、その化け物が俺に向かってあと一歩を踏み出すよりも早く、周囲の空間を完全に引き裂く、完全に見えない不条理な異常現象がパパッと炸裂したのだ。
ヒュッ。ヒュッ。ヒュッ。
空間を切り裂く三筋の、完全に見えない、剃刀のように な真空の斬撃が、恐るべき鋭さの質量を伴って大気の中を一瞬で駆け抜けた。一秒の何分の一という刹那の間、突進していた巨大なオーガの肉体(器)はその場に完全に凝固した。あいたの喉の奥から放たれていた凄まじい大咆哮は一瞬で消え去り、その巨大な胴体の表面に、一寸の濁りもない三本の血の流れない線がパパッと浮かび上がった。
ズドン。ズドン。ドカァッ!
肉を引きちぎる鈍い音と共に、あの巨体のオーガは綺麗に、真っ二つどころか三つの完璧な肉片へと切り裂かれ、あいつの巨大な石の棍棒と切断された手足が、俺のブーツのわずか数センチ手前の地面へと暴力的に激突し、視界を完全に遮るほどの猛に激突し、視界を完全に遮るほどの猛烈な土煙の嵐を巻き上げた。
火炎球の火花を乗せたまま、完全にその場に硬直していた。俺の顎は完全に、大理石の床どころか地面の泥の中に激突する勢いで外れかけていた。俺は目の前の切り刻まれた肉の塊を白目のドン引き顔で見つめることしかできなかった。
(おいおいおいふざけんなよ!?
俺は絶対に手を出すなってハッキリ言っただろ!
一体全体、今の決定打を叩き込みやがったのはどこのどいつだよ!?)」




