第一話 盗賊娘、前世を思い出す
盗みは成功した。
少なくとも、ディアナ・アディンセルはそう思っていた。
新月の夜だった。
月明かりのない迷いの森を、盗賊団アディンセルの面々が駆け抜けていく。木々は黒く、道は湿り、枝はまるでこちらの足を引っかけるために伸びているみたいだった。
普通の追っ手ならここで終わる。
迷いの森は、入るたびに道を変える。木々は形を変え、人の足跡を食い、同じ場所を何度でも歩かせる。まともな人間なら、夜に踏み込んだ時点で帰れない。
だが、リュクス・アディンセルはまともな人間ではない。
ディアナの父であり、盗賊団の頭であり、そして他国の貴族の屋敷から、迷いの森を抜けるための特別な羅針盤を盗んできた、どうしようもなく腕の立つ男である。
「ディアナ、右だ!」
「分かってる!」
返事をしながら、ディアナは木の根を飛び越えた。
胸元の革袋が跳ねる。中には小箱がひとつ。つい数刻前、王城から盗み出したばかりの国宝――オールトの指輪が入っている。
正確には、父たちが宝物庫から抜き、最後にディアナへ渡されたものだ。
危ない獲物ほど、一番足の速い者が持つ。
それが盗賊団アディンセルのやり方だった。つまり今夜の最終走者は、ディアナである。
責任重大。胃が痛い。
でも、足は止めない。
盗賊娘として十七年生きてきた身体は、こういう時だけ妙に頼もしい。
「お嬢、後ろ、三つ来てる!」
「ミロ、数え方が雑!」
「じゃあ五つ!」
「増やすな!」
軽口を叩くミロの声が、すぐ後ろから飛んできた。
そのさらに奥で、ダンテが魔銃に手をかける。ガロは罠糸を指に引っかけ、カイルは枝の影へ身を滑らせた。バルドは一番後ろで毒針を構えている。
荒っぽくて、口が悪くて、世間的にはどう見てもならず者で、でもディアナにとっては家族みたいな男たち。
その全員が、今夜は同じ方向へ走っている。
勝てる。
迷いの森に入った時点で、こちらの勝ちだ。
そう思った瞬間だった。
前方の木陰に、人が立っていた。
「……え?」
思わず声が漏れた。
黒い外套。騎士の制服。夜の森に場違いなくらい整った立ち姿。銀白色の髪が、森に漂う淡い魔力の光を拾って闇の中に浮き、角度によって薄い金の糸を混ぜたように揺れていた。
迷っていない。
この森の中で、その男だけが、最初からそこに道があることを知っているみたいに立っていた。
ディアナは反射で短剣に手を伸ばした。その瞬間、森が沈んだ。
音が消えた、と思った。
次に来たのは、黒鉄色の鎖だった。
足元から噴き上がった鎖が、ディアナの足首をさらい、膝を絡め、腰を引く。背中を打つより早く、肩にも腕にも冷たい魔力が巻きついた。
息が詰まる。
それでも、胸元の革袋だけは抱え込んだ。
よくやった、私。
いや、褒めている場合ではない。
「ディアナ! 逃げろっ!」
リュクスの怒声が飛んだ。
飛んだ、はずだった。
次の瞬間には、父も地面に叩きつけられていた。カイルの短剣は抜かれる前に止まり、ダンテの魔銃は銃口を上げきれず、ガロの指先は罠糸に届かない。ミロの悪態も、毒針へ伸びたバルドの手も、すべて銀の鎖に絡め取られている。
男は剣を抜いていなかった。詠唱もしていない。ただ、そこに立っているだけだった。
それなのに、盗賊団はもう負けていた。
強い。強すぎる。
国宝を盗み出した盗賊団が、戦う前から負けている。
黒い外套の男が、ゆっくり歩いてくる。
逃げなければいけない。
分かっている。分かっているのに、身体が動かない。鎖が足首に食い込み、腰を縛り、肩を押さえている。指先ひとつ動かすだけで、冷たい魔力が皮膚の下へ入り込むようだった。
男が膝を折った。
その顔が、近づく。
ディアナは息を止めた。
綺麗な男だった。
ただ綺麗なだけではない。整いすぎた顔立ちに、感情の読めない微笑み。深い青灰色の瞳。甘く笑っているのに、見ているだけで逃げ道が消えていくような目。
「よく走ったね」
声は驚くほど甘かった。
甘いのに、優しくはない。褒めているようで、捕まえた獲物の脚を値踏みしている声だ。
ディアナは革袋を抱えたまま、男を睨んだ。
「渡しません」
「何を?」
「これは、うちの獲物です」
男は小さく笑った。
「王国の国宝を、君たちの獲物と言うんだ」
「盗った時点で、いったんうちのものです」
「いい理屈だね。盗賊らしい」
褒められた。
いや、褒められていない。
男の指が伸びる。ディアナは腕に力を込めたが、鎖が肩を押さえる方が早かった。革袋が奪われる。
「返して!」
「今、君たちのものだと主張したばかりなのに?」
「だから返せと言ってるんです!」
男は楽しそうに目を細めた。
「いいよ」
「……はい?」
「そこまで言うなら、君にあげる」
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がした。
男は革袋から小箱を取り出す。封印布に包まれた黒い小箱。父たちが苦労して抜いたはずの獲物を、彼はまるで最初から開け方を知っていたように、何の迷いもなく開けた。
中にあったのは、宝石のない白い輪だった。
正面の一部が、緩やかなV字を描くように切れ込んでいる。派手な宝石も、過剰な細工もない。なのに、不思議と目を奪われる。
綺麗だ。そう思ってしまった。
盗品の宝石をこっそり眺めるのは好きだった。光を弾く石も、細い金細工も、それを当たり前みたいに身に着ける女たちも、少しだけ羨ましかった。
でも、今は違う。
綺麗なものが、怖い。
男は指輪をつまみ、ディアナの左手を取った。
「いえ、そういう意味じゃ――」
「遠慮しなくていい」
「遠慮じゃなくて拒否です」
「なら、拒否ごと受け取っておきなさい」
会話が通じない。
ディアナは手を引こうとした。鎖が鳴っただけだった。男の指は丁寧で、乱暴ではなくて、それが余計に怖い。
指輪が、左手の中指へ滑り込む。かちり、と音がした。鍵が閉まるような音だった。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
白い光。
菫色の画面。
攻略本。イベント画面。真エンド条件。
悪役令嬢。断罪台。
会社帰りの電車の窓。スマホの画面。
眠る前に何度も聞いた声。
ジークムント・ラ・パーソン。
最推し。
最悪の隠しキャラ。
記憶が、怒涛のように流れ込んできた。
ディアナ・アディンセル。
それが、今の彼女の名前だ。
けれど一度目の人生で、彼女はイレーネ・ブラディ・マルチェントという名の令嬢だった。婚約者である王子を、菫色の瞳を持つ少女に奪われ、悪役令嬢として断罪された。
二度目の人生では、地球という星でOLとして暮らしていた。乙女ゲームが好きで、『女神の微笑み』を寝る間も惜しんで遊んだ。そして、そのゲームの中で見てしまったのである。
かつての自分の名前を。
しかも、主人公ヒロインをいじめる悪役令嬢として。
いや、意味が分からない。
意味が分からないまま全ルートを確かめ、攻略本を漁り、寝不足のまま出勤して、前方不注意でトラックに跳ねられた。
どう考えても間抜けな死に方だった。前世の自分に説教できるなら、まず睡眠を取れと言いたい。
そして三度目の今世。
盗賊の頭リュクス・アディンセルの娘、ディアナ・アディンセル。
裏路地を走り、屋根を渡り、鍵を開け、追っ手を撒いて育った、立派な盗賊娘。
そこまで思い出して、ディアナは目の前の男を見た。
銀白色の髪。
深い青灰色の瞳。
整いすぎた顔。
甘い声。
ジークムント・ラ・パーソン。
パーソン王国第一王子。
警衛騎士団の団長。
古代竜の血を引くと囁かれる、災いの王子。
『女神の微笑み』における隠しキャラ。
そしてなにより、前世の自分が追いかけ続けた最推し。
けれど、推しだからこそ知っている。
ジークムント・ラ・パーソンが隠しキャラである理由のひとつ。
――この男が、他人の記憶を視る能力を持っていることを。
「……あ」
声が漏れた。
ジークムントが、ディアナの顔を覗き込む。
「……へえ。何か思い出した?」
甘い声だった。
だが、その声の奥に、冷たい針がある。
ディアナは息を止めた。
思い出した。思い出してしまった。けれど、言えるわけがない。あなたはゲームの隠しキャラで、私は前世であなたを推していて、この世界は乙女ゲームに似ていて、私は悪役令嬢の未来を知っていて――そんなことを言ったら、頭のおかしい盗賊娘である。
いや、もう捕まっているので、頭がおかしい以前に終わっている。
左手が重い。ディアナは指輪を見た。
オールトの指輪。
ゲームで、トゥルーエンドへ辿り着くために必要だった条件。
本物には、花の香りがする。
ディアナは、ほんのわずかに息を吸った。
土の匂い。落ち葉の湿った匂い。ジークムントの外套から漂う冷たい夜気。
花の香りがしない。
これ、本物じゃない。
気づいた瞬間、心臓が嫌な落ち方をした。
ジークムントの青灰色の瞳が、わずかに細まる。
「気づいた?」
終わった。
何に、とは聞けなかった。聞いたら負けだ。黙っていても負けだ。つまり、どちらにしても負けだった。
「……何のことでしょう」
「下手だね」
「初対面の王子様に、いきなり駄目出しされる筋合いはありません」
「初対面?」
ジークムントが楽しそうに繰り返した。
まるで、違うだろう、と言われた気がした。
見られた。
心を読まれたわけではない。今の思考を覗かれたわけでもない。けれど、この男は見たのだ。ディアナの中に落ちた記憶の断片を。
ゲーム画面か。文字か。ジークムントという名前か。
どこまで見られたのか分からない。
分からないことが、怖い。
「面白いものを持っているね、君は」
ジークムントは、ディアナの左手をまだ離さない。
指輪の縁を、親指で軽くなぞる。
ぞわりと、背中に変な熱が走った。
待って。
推しの顔が近い。
推しの声が甘い。
推しが最悪。
情報量が多い。
「ディアナ・アディンセル」
名前を呼ばれた。
名乗っていない。
少なくとも、この男に家名までは告げていない。
なのに、ジークムントは当然のようにその名を口にした。
盗賊団の中でリュクスが叫んだ名前を拾ったのか。
捕縛前から調べられていたのか。
それとも今、視られた記憶のどこかにあったのか。
分からない。
分からないことが、怖い。
ジークムントは納得したように微笑んだ。
微笑んだだけなのに、ディアナの逃げ道が一つずつ閉じていく。
「予定を変えよう」
ジークムントは、楽しそうに目を細めた。
「君は、地下牢に入れるには惜しい」
甘い声だった。
甘いのに、優しくはない。宝石の値を見定めるような、獲物の使い道を考えるような声だった。
ディアナの心臓が、嫌な方向に跳ねた。
最悪だ。
捕まった。記憶を思い出した。指輪は偽物だった。
しかも、推しに「惜しい」と言われた。
褒め言葉ではない。
たぶん、値札を貼られただけである。
最悪なのに、声が良すぎる。




