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霊山に龍が住むという話は、太心も幼い頃から聞かされていた。
山頂では、絶えず雨が降っているという。
「さっさと龍に雨を降らせるよう、頼みにいけば良いではないか」
大人が聞いたら卒倒するようなことを、子供の太心は臆面もなく云い放った。
その日は足の運びも快調で、太心はひょいひょいと山を登ると、昼過ぎには龍泉に辿り着いていた。
細い糸のような流れが、岩の隙間から湧きでている。この流れがやがて江になり、海に繋がるのだと方菊に聞かされたことがあるが、海を見たことがない太心には想像もつかなかった。
竹筒に冷たく澄んだ龍泉の水を汲み、太心は帰途に就こうとした。
しかし、まだ日は高い。いつもよりだいぶ余裕があった。
「山頂まで登ってみよう」
村人が畏れ敬う聖地に、太心は思いつきで足を向けたのである。
山頂が近付くにつれ、空気が冷たくなっていく。あれほど掻いていた汗も、いつの間にか引いていた。
そのうち体が湿り気を帯びてきた。
雨が降っているのだ。
「いつも雨が降っているという話は、本当だったのか」
不思議な雨だった。霧雨のように細かく、体に触れた瞬間に消えてしまう。濡れているはずなのに、滴はひとつも垂れてこない。
太心は不思議がりながら、ついに山頂へ登り詰めた。
小さな社がある。
「龍はおらぬかあ」
太心は声を張り上げた。
しばらく返事はない。太心は苛立って、さらに声を張り上げた。
「龍はおらぬかあと聞いておるに」
すると太心の頭上に影が差した。
見上げると、雲を衝かんばかりの巨大な龍が、宙に浮かんで太心を見下ろしていた。
「お、おぬしが、この山に住む龍か」
さすがの太心も息を呑んだ。
龍は五十丈(約一五〇メートル)はあるかという蛇の体を、くねくねと曲げながら、飛び出た眼で太心を睨みつけた。
「童が何の用だ」
低い声が山頂を揺るがせた。それだけで気を失いそうな、恐ろしい声だった。
「村にふた月も雨が降っていない。雨を降らせてくれ」
落ち着きを取り戻した太心は、面と向かって龍に頼み込んだ。
「供物がないではないか」
龍は顔を歪めた。鱗が煌々と輝いた。
「土が干涸びて作物が育たんのじゃ。雨が降って作物ができたら持ってくる」
それを聞くと、龍はぶしゅぶしゅと笑った。
「何がおかしい」
「世の理を判っておらぬおまえがおかしい」
すると龍は、今度は太心をじっと見て「ほう」と唸り、目を細めた。
「おまえ、燕の肉を食ったことがあるな」
「子供の頃に食った。俺と方菊と、隣の花嬢と三人で食わされた」
「三人か」
「だが花嬢は去年死んだ。俺の弟と同じ病だ」
「では残りは二人か」
「それがどうした」
燕の肉といっても、かさかさの塩漬けだったから、しょっぱくてむしろ不味かった。方菊といっしょに、顔をしかめながら飲み込んだものだ。
「燕の肉は、わしの大好物だ。おまえの村の大人は、良さそうな童を選んで燕の肉を食わせるのさ。肉がいずれ体のなかで熟し、童が燕の味になるように。いつでも供物にできるようにな」
「お、俺を供物にするというのか」
すると龍は、またぶしゅぶしゅと笑った。
太心は、はっとなった。
「まさか方菊もか」
「おまえかその方菊とやらか、どちらか一人で良いぞ。二人も食うと胸焼けがする」
「方菊を供物になどできるものか」
「だが、村では方菊を供物にする支度を整えているようだな」
「そんなことがあってたまるか」
太心は躍起になった。
「帰って確かめるといい。元気なおまえより、ひ弱な方菊をやった方が良いと決めたのだろう。四、五日もすれば方菊はここにやってくる」
太心は言葉に詰まった。
方菊を龍の供物にするなど許されないことだった。
「そんなことはさせぬ」
「ならば如何せん」
太心は龍を睨み上げた。
「俺が替わりに供物になってやる」
龍は三度、ぶしゅぶしゅと笑った。
「三日後に俺は必ず戻ってくる。そうすれば、煮るなり焼くなり好きにするがいい。その代わり、方菊を助けてくれ」
太心は覚悟を決めて云い放つと、大股で霊山を下りた。
麓まで戻ると、いつしか雨はやんでおり、体も衣服も綺麗に乾いていた。
太心は家に帰るなり、ろくに口も利かずに閉じこもった。