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「よろしい。であれば、これは指導です」
眼前の脅威。
実力は未知数で、素性も分からず、場所も不利。
「…………」
あまりに不利すぎる条件のなか、リリが選んだ行動。
「逃走、ですか」
それは百八十度反転しての全力疾走。
構えた杖すら横に投げ捨てるほど徹底した、文字通りの逃走だった。
(リアが起きない以上、戦うのはいくらなんでも無謀がすぎる。ううん、仮にリアが起きてたとしても戦いで勝つのは難しいはず)
レクスの弟子になってからの行動は、一貫して対話からの懐柔だった。
ミカエラに対しては迎撃の意思を示したが、あくまで無効化することが目的のこと。
力で相手を制圧し事態を解決する方法は、するしない以前に恐らくできない。
(なら、私がすべきことは今知った事実をフロストさんに伝えること。そのうえで対策を練るか、一緒に戦ってもらうしかない!)
だからリリは、数歩駆けた辺りでポケットに手を伸ばした。
取り出したそれは、護身用にと両親が持たせてくれた護身用の魔法具の数々。
リアが語るに良い出来らしいが、出し惜しむことなく全てを後方に投げた。
「足止めの用意があるとは。どうやら少しばかり侮ったみたいですね」
効果の程度は知らないが。
それでも怯ませるくらいはできる。
そんなリリの思惑とは裏腹に、男の表情に変化はなかった。
(…………違う!)
変化は、あった。
気づくには遅すぎるほどの変化が。
「【偉大なる我が神よ。この身に迫る悪意を退け、立ち向かう風を我へ授けよ】」
詠唱。
その男の右手には一冊の本が携えられ、左手には鉛の鈴が握られている。
特別な何かがあったわけではない。
逃げんとするリリが視線を外している間に、男は魔法具を取り出し構えていただけ。
敵を前に背中を向けるという、余りにも不用心すぎる行動が結果となった。
「【風よ。我が身を守る盾となり、その全てを防ぎたまえ】!」
返す形でリリも詠唱を唱える。
凡庸式防御魔法。
周囲の風を魔法で編み込み、物理的な防壁にするための魔法だ。
「きゃっ!?」
しかし、意味がない。
三流以下の魔法使いが咄嗟に発動させた魔法と。
魔法具を構え発動させた、リリアよりも才能のある男の魔法。
衝突はすれど、押し合いにもならない。
「いやはや、実に驚いた。魔法具をこちらに投げてきた時点で魔法は諦めたのかと思っていたが、まさか反射的に受けようとするとは」
砂浜に建てた砂上の楼閣の如く。
文字通り一瞬で、リリの魔法は破られ体が宙を舞う。
「がっ…………!?」
撃墜し、息が詰まる。
背中がひび割れたと錯覚するほど痛み、ほんの僅かだが意識が滲む。
「痛い想いをさせたかな?それについては申し訳ないと思っているよ。本来なら、こちらに迫る危険のみを排除するための魔法なのだが。生憎と周囲で発動した魔法にも作用するのでね」
受け身なんて取れるわけがない。
そんな練習は、お嬢様であるリリはする必要のないものだ。
「だが、悪いのは君だ。こちらの提案を無下にしなければ。こんなことにはなっていないのだからね」
それでもリリが動けたのは、リアの記憶を見ていたからだろう。
敵を前に悶え苦しむだけでは、どうやっても事態は好転しない。
知っていたからこそ、リリは歯を食いしばって再び逃走を目論む。
「えっ…………?」
「悪いが、そう遠くに行かれるのは困るんだ。こちらにも立場があるからね」
なのに、体が動かない。
リリアの体がリリの命令に従おうとしない。
「これは拘束魔法といってね。普段はさほど使い所がない代物なんだが、個人的な趣味として覚えているものを使わせてもらった」
だから、これ以上の抵抗は無意味だ。
そう言わんばかりに男はゆっくりと距離を詰め、そしてリリの正面へと立ち塞がった。
「さて、さて、さて。できることなら幼い子供を痛めつける趣味はないのだが、なにしろ提案を拒否されたばかりだ。いくら語ったところで意味はないだろう」
男はそういうと、右手でリリの顔を頬を掴み、無理やり目線を合わさせる。
「先ほどの返答。もしかすればこちらの聞き間違いだったかもしれない。うっかり手が滑り足の置き場を間違えたのかもしれない。なにしろ君は子供だ、そういう間違いがあっても仕方がない」
リリの両目が捉えたのは、どこか愉快さを秘めた男の笑み。
まるで極上の美酒を味わうように、抵抗しようと藻掻くリリの表情を堪能している。
「だから、正直に答えてほしい。「魔王」レクスを殺すことに、君は協力してくれるのかを」
男はそこでリリの頬から手を離し、舐め回すように顔をぐるりと撫でてみせた。
説明されずとも分かる。
自由の効かない体に、リリの妨害を迎撃した魔法具。
肯定以外を口にすれば、きっと男は容赦しないはずだ。
「…………あの人は優しいから。前世で大切な人を死なせてしまったから。きっと私を巻き込みたくないと思ってるんです」
「…………?」
だからこそ。
リリの返答は、決まっていた。
「あの人の行動原理は、誰よりも深い後悔と自責の念なんです。そしてそれは、私にも向けられている。自分の我が儘に突き合わせ、人生そのものを歪めてしまった。それは、どうやっても変えられないことだから」
聞かれるまでもなく、考える必要すらない。
「私は、決めてるんです。例え世界中の誰もが恨み憎んだとしても、私だけはリアの味方でいるって。絶対に、何があっても傍に居続けるって」
リリの人生は、リアと出会った時から決まっていて。
間違いなく運命だったと、そう確信しているから。
「だから、私は貴方の味方にはなりません。まして殺すだなんて、そんなことは絶対にしない!」
そう高らかに宣言するリリを前に、男は微塵たりとも反応しなかった。
怒るでも嘆くでも、まして共感し感動するなんてこともなかった。
「そうですか。それは、実に残念だ」
ただ、利用価値はないと。
さながら不要になった書類を捨てるように、男は書物に魔力を込め始める。
「もう少し利口であれば、幾ばくかは長生きできたものを」
その言葉は、果たしてどういう意味だったのか。
リリには分からず、そして分かるまでの猶予は存在しなかった。
「───────喧しいぞ、権力者の豚が」
ただしそれは。
「テメぇ、誰に対して手ぇ出してんだ?」
リリの一番の味方が、目を覚まさなかったの話だが。




