アメリカ合衆国本土初空襲4
重陸上攻撃機深山と重爆撃機連山がサンフランシスコへの爆撃を開始した。それぞれ爆弾搭載量は3.5トンであったが、これによりハワイ諸島からの往復を可能にしたのだ。この時点でこのような長距離を往復可能なのは、重陸上攻撃機深山と重爆撃機連山だけであった。その為にサンフランシスコには、膨大な数の250キロ爆弾が降り注いだのだ。
その爆弾の雨はサンフランシスコを地獄絵図に変えた。情け容赦無い無差別爆撃は、大日本帝国の決意とアメリカ合衆国の悲劇という、相反する事態を象徴していた。逃げ惑う人々は改めて戦争を実感し、本土空襲を招いた連邦政府に不満を強めた。
それはアメリカ合衆国国民の本心だった。何せ戦況は詳細には伝えられず、善戦しているだけとの発表が続いていた矢先の本土空襲だ。そうなると怒りは直接手を下した大日本帝国よりも、発表しなかった連邦政府に向けられたのである。
だがだからと言って攻撃が止まるわけでは無かった。大日本帝国の攻撃は激しさを増し、遂には海軍連合艦隊機動艦隊の艦砲射撃まで始まったのである。
サンフランシスコの住民にとって唯一の救いは、大日本帝国海軍連合艦隊機動艦隊に戦艦がいなかった事だ。空母主兵主義の大日本帝国海軍には、重巡洋艦翔鶴級と重巡洋艦黒姫級の31センチ連装砲が、最大口径の主砲だった。だが現状ではその31センチ砲弾の弾幕や、各種重巡洋艦・軽巡洋艦・駆逐艦の艦砲射撃は鋼鉄の嵐としてサンフランシスコに降り注いだ。
特に軽巡洋艦と駆逐艦は両用砲であり対空戦闘が可能な為に、速射性能が高く驚異的な速度で艦砲射撃を続けていた。この海空一体攻撃にアメリカ合衆国は何一つ反撃手段を持っていなかった。ただただサンフランシスコは攻撃を受け続けたのである。
そして数時間後。サンフランシスコ上空から航空隊はハワイ諸島に引き返し、艦載機は空母に着艦し、大日本帝国海軍連合艦隊機動艦隊は真珠湾に帰港を開始した。サンフランシスコはその都市機能を完全に喪失した。沿岸部や内陸部の区別無く、艦砲射撃と空襲が行われたのだ。
この一連の攻撃による死傷者は約30万人にも及ぶ甚大なものになった。だがこれが終わりでは無く、始まりであったのだ。




