トルコ侵攻作戦
1943年7月5日。フランス共和国とオランダ王国はトルコ国境沿いに至る防衛線から、トルコに対して一斉に侵攻を開始した。1943年6月20日にフランス共和国首都パリのヴェルサイユ宮殿で行われた、米仏蘭三カ国による戦略見直しの会議から、短期間での作戦開始となった。だがそれが可能だったのはギリシャのトルコ国境沿いの防衛線に、フランス共和国とオランダ王国の陸軍と航空隊が展開していたからである。
政府首脳陣の合意後に行われた軍部での作戦会議では、トルコ侵攻作戦を察知されないようにする為に北アフリカ戦線での動きも活発に行われた。というより北アフリカ戦線はアメリカ合衆国が担当する戦線であり、トルコ侵攻の陽動というよりも本質的に必要な行動であった。その為に北アフリカ戦線にはフランス共和国海軍も投入し、アメリカ合衆国は大規模な連合軍阻止作戦を開始していた。
フランス共和国はこの作戦にようやく竣工した、海軍の新造艦艇を投入していた。フランス共和国は正規空母ジョッフル級2隻、重巡洋艦サンルイ級6隻・リミエ級5隻、軽巡洋艦ドグラース級5隻・アミラルオーブ級11隻を建造し、大日本帝国海軍の活躍により空母の有効性が認められ、開戦前から建造しており船体が完成していたアルザス級4隻も空母に改装した。空母艦載機はスカウトしたドイツ人技術者もノウハウが無い為に、アメリカ合衆国から購入していた。
大日本帝国もフランス共和国とアメリカ合衆国の北アフリカ戦線での反撃に驚き、海軍連合艦隊の第4機動艦隊・第5機動艦隊・第6機動艦隊を北アフリカ沿岸に派遣した。その戦力により北アフリカ沿岸に展開するフランス共和国とアメリカ合衆国海軍を撃退し、北アフリカ戦線に対して攻撃を行う事にした。それが1943年6月30日の事であった。
これにより大日本帝国以下連合国の注意は、一斉に北アフリカに向けられる事になった。北アフリカ戦線に援軍を派遣していた各国も当然ながら、北アフリカ戦線に注力した。オーストラリア陸軍が10個師団、ニュージーランド陸軍が8個師団、トルコ陸軍が7個師団、イラン陸軍が10個師団、大英帝国陸軍が20個師団であり、この戦力を大日本帝国海軍連合艦隊はフランス共和国海軍とアメリカ合衆国海軍から守る必要があった。だがその連合艦隊が北アフリカ沿岸に接近すると、フランス共和国海軍とアメリカ合衆国海軍は戦いを避けるように地中海西部に逃走したのである。
戦わずして敵海軍を蹴散らした事になり、拍子抜けした大日本帝国海軍連合艦隊であったがそれが1943年7月4日であった。そして翌日に攻撃を開始しようとした大日本帝国海軍連合艦隊に対して、トルコ侵攻の連絡がもたらされた。




