戦略見直し
連合軍によるポー平原侵攻により、イタリア王国はアルプス山脈までの領土を奪還する事に成功した。フランス共和国とオランダ王国にとっては、予想外の大損害であり戦略変更を迫られる程であった。その中でも最大の衝撃は、大日本帝国の投入した新型噴進弾であった。その情報はフランス共和国本国に報告され、即座にロケット開発を統括するブラウン博士に伝達された。それを聞いたブラウン博士は即座に、自ら開発中のV2の先を越されたと悔しがった。
それもそうであろう1943年8月末には、ブラウン博士はV2の実用化が可能だとしていたのである。その僅かな差で、大日本帝国に世界初の弾道弾という実績を奪われてしまったのだ。その衝撃はフランス共和国とオランダ王国政府にも及び、戦略の根本的見直しを図る必要に迫られた。その会談は1943年6月20日にフランス共和国首都パリのヴェルサイユ宮殿で行われた。
フランス共和国とオランダ王国の政府首脳陣が参加し、アメリカ合衆国の駐仏大使も参加した。だがその会談が行われる前日に北アフリカ戦線でも、連合軍の侵攻が開始された。北アフリカ戦線にも援軍は派遣され、スエズ運河周辺を死守する大英帝国陸軍にとっては待ち望んだ援軍となっていた。援軍を派遣したのはオーストラリア陸軍が10個師団、ニュージーランド陸軍が8個師団、トルコ陸軍が7個師団、イラン陸軍が10個師団、大英帝国陸軍が20個師団であった。
その援軍はイタリア王国に送られた援軍と同じく、大日本帝国の軍事援助を受けており装備面でアメリカ合衆国軍を上回るものになっていた。流石に43式弾道弾は配備されていなかったが、43式自走式多連装ロケット砲カチューシャは軍事援助されておりアメリカ合衆国軍の頭上に大量に降り注いでいた。その為にアメリカ合衆国も北アフリカ戦線での戦略見直しを図られる事になったが、ヴェルサイユ宮殿での会談はフランス共和国とオランダ王国が主軸の問題である為に、北アフリカ戦線の話題は出されずヨーロッパ戦線のみの話題になっていた。




