ハワイ沖海戦4
急降下爆撃を受けるようになった大日本帝国海軍第3機動艦隊は、パニック状態になった。正規空母扶桑級4隻の飛行甲板には艦載機が発艦態勢にあり、格納庫では未だに機関砲弾・機銃弾・噴進弾・爆弾・魚雷が溢れかえっていた。南雲司令長官は全艦に対空戦を命令したが、その弾幕を顧みずアメリカ合衆国海軍航空隊の艦上爆撃機SB2Cヘルダイヴァーは急降下爆撃を敢行した。対空戦を開始した第3機動艦隊であるが如何に近接信管型とはいえ、それは百発百中では無く比較的に撃墜数が向上しただけである。
しかも突然の対空戦であり全く警戒していなかった中での射撃であり、命中率は驚く程に低かった。その弾幕を突っ切って急降下爆撃を行った艦上爆撃機SB2Cヘルダイヴァー隊は、2000ポンド爆弾を次々と投下した。対空戦に加えて必死の回避機動を行っていた正規空母扶桑級4隻であるが、その内の扶桑・山城・伊勢の3隻に2000ポンド爆弾は次々と命中した。
山城は、艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、艦橋の艦長以下指揮官らが戦死した。艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦に移乗した。その後山城では大爆発が2回起き、艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含め800名弱で、航空機搭乗員では飛行隊長以下、21名が戦死した。
伊勢は、3発の爆弾が命中し被害は最も深刻だった。被弾からわずか20分後に総員退去が発令されたのである。その発令から30分伊勢は沈没した。あえて艦内に残った艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した。搭乗員の戦死は10名で、飛行隊長以下搭乗員の多くは駆逐艦に救助された。
扶桑は、被弾した爆弾は2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能であった。しかし被弾による火災が格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機燃料へ次々と誘爆を起こし、大火災が発生したのである。更に被弾直後に別の急降下爆撃機を発見し回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなり洋上に停止した。扶桑の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦に移乗したあと軽巡洋艦に移った。そして南雲司令長官は軽巡洋艦に将旗を掲げたのである。扶桑の艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により総員退艦を命令。扶桑の処置をめぐって南雲司令部では議論が交わされ、一時は曳航による処置も検討されたが結局は、処分命令が下り駆逐隊が雷撃処分を行った。山城・伊勢の2隻と比べて扶桑では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらより少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者7名であった。
その攻撃の中で唯一、日向だけが急降下爆撃を免れていた。たまたまアメリカ合衆国海軍航空隊の攻撃時に、雲の下にいた為に最初の攻撃を交わす形になっていたのである。
だがそれも一時の平穏だった。急降下爆撃をした時に日向を捕捉したアメリカ合衆国海軍航空隊は、日向への攻撃を開始した。日向も必死の回避を行っていたが、急降下爆撃をする機体の数が多過ぎた。その為に日向には無慈悲にも10発以上の2000ポンド爆弾が命中。日向は大爆発を起こして消滅した。
第3機動艦隊は主力となる正規空母4隻を失い、戦闘能力の大半を喪失する事になった。軽巡洋艦に移乗した南雲司令長官はそれでもやる気であったが、上空は完全にアメリカ合衆国海軍航空隊に覆い尽くされていた。南雲司令長官は近接信管を重視し、対空戦の継続を命令したがそれは絶望的であった。




