増援展開
1943年6月1日。大日本帝国の方針通り、連合国は各戦線に援軍を派遣する事になった。まずはイタリア王国に展開する事になり、大規模な援軍が派遣された。大英帝国陸軍が10個師団、中華民国陸軍が30個師団、満州帝国陸軍が20個師団、タイ王国陸軍が10個師団を送り込んだ。その全てが大日本帝国の軍事援助を受けており、装備は大日本帝国製兵器に統一されていた。
そして指揮系統は大日本帝国陸軍の第1方面軍司令官石原莞爾大将を総司令官とする、『連合軍イタリア王国救援総軍』として一本化される事になり中華民国陸軍・満州帝国陸軍・タイ王国陸軍は、大日本帝国陸軍の指揮下に入る事になった。イタリア王国にとってはこれ以上無い援軍となり、フランス共和国陸軍とオランダ王国陸軍の侵攻を防ぎ逆侵攻も可能になるようになったのである。イタリア王国も陸軍の増強を進めており、戦力は着実に増えていた。
北アフリカ戦線にも援軍は派遣され、スエズ運河周辺を死守する大英帝国陸軍にとっては待ち望んだ援軍となった。援軍を派遣したのはオーストラリア陸軍が10個師団、ニュージーランド陸軍が8個師団、トルコ陸軍が7個師団、イラン陸軍が10個師団、大英帝国陸軍が20個師団であった。
イタリア王国に派遣された陸軍と同じく、全ての師団が大日本帝国の軍事援助により大日本帝国製兵器を装備しており、その軍事力は大幅に増強されていた。北アフリカ戦線ではアメリカ合衆国軍を押し返して、地中海の制海権と制空権を奪還する事を最優先事項となっていた。
その為に派遣された連合軍により、イタリア王国と北アフリカでの情勢は大きく動く事になった。そして太平洋方面では大日本帝国が太平洋の制海権を確固たるものにする為に、『ハワイ諸島占領作戦』を実行する事になった。太平洋と地中海という東西3方面での同時作戦となったが、その結果は真逆のものになってしまったのである。




