AL作戦
1943年3月20日。大日本帝国は陸海軍合同作戦として『AL作戦』を開始した。AL作戦はアリューシャン作戦の略称であり、アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島制圧作戦だった。
『大日本帝国がAL作戦を実行した理由は、1942年12月15日にアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊によって行われた、空襲未遂があったからである。1942年10月25日の太平洋平定作戦でハワイ諸島以外を制圧した大日本帝国だが、アメリカ合衆国は北太平洋から直接北海道を狙って来たのである。
1942年12月15日の空襲阻止以後から、陸海軍の共同作戦として練られていたのがAL作戦だった。その後1943年1月25日に開始されたシベリア解放作戦の成功を受けて、レナ川以東を大日本帝国が占領した事からAL作戦は修正された。当初は海軍連合艦隊の役割が非常に高い作戦だったが、カムチャツカ半島やユーラシア大陸最東端のチュクチ半島まで占領したために、それら各地に海軍と陸軍の航空隊が展開し航空支援は充実したものになった。
大日本帝国海軍連合艦隊はAL作戦に、第1機動艦隊を投入した。第1機動艦隊は超弩級空母大和級3隻と重装甲空母秋津洲が配備されている、この時点では世界最強の空母機動艦隊であり、その打撃力はお墨付きであった。更に北海道からチュクチ半島まで進出した海軍航空隊の第9航空艦隊も作戦に参加する事になった。
陸軍は今回のAL作戦に、1個師団と2個大隊を投入する事にした。1個師団はAL作戦の本命たるダッチハーバー占領、2個大隊はそれぞれがアッツ島・キスカ島占領用であった。その地上兵力に加えて南樺太から進出した陸軍航空隊の第2飛行師団も投入される事になっていた。
これに対してアメリカ合衆国は戦力的に、完全に劣勢であった。海軍は1942年12月15日の大日本帝国奇襲作戦の失敗により、這々の体で西海岸に逃げ帰ってからパイロットと機体の補充に追われていた。何せ空母航空隊が壊滅状態となっていたからである。機体や艦艇は製造・建造が軌道に乗り続々と完成していたが、問題は速成培養のパイロットの練度だった。この為に海軍太平洋艦隊は西海岸沿岸部でひたすら練度向上の為の訓練を行っていた。
というよりアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊にとっては、ハワイパールハーバーは最早母港とはなり得なかった。ミッドウェー島とジョンストン島から日替わりで空襲を受ける事になり、更には潜水艦による通商破壊戦により補給兵站線も寸断され孤島となっていたからだ。
陸軍は更に状況が違いトーチ作戦の結果を受けて、新編した師団は訓練を終えると北アフリカに続々と送り込んでいた。その為に本土防衛部隊と州兵しか、有効な防衛兵力として運用出来なかった。しかもそれは広く全土に配備していた為に、大日本帝国のAL作戦開始時には、アラスカに配備された陸軍1個旅団しか移動出来なかった。
陸軍航空隊もアラスカに輸送機を合わせても120機しか配備されていない有様だった。
そしてその状況の中で大日本帝国海軍連合艦隊第1機動艦隊の艦載機が、アリューシャン列島に襲い掛かったのである。』
小森菜子著
『帝国の聖戦』より一部抜粋




