侵食
膠着状態に陥った北アフリカに対して、大日本帝国が行ったシベリア解放作戦は大成功を収めていた。これにより大日本帝国はレナ川以東を占領したのである。進撃はソ連軍の残党が相手である為に、ただひたすらに補給兵站線の構築が最大の課題だった。1943年1月25日という真冬に、シベリア解放作戦を開始したのは意味があった。
確かに極寒での作戦は無闇に士気を低下させる事になるが、逆に春になると雪解けにより大地は泥濘となり、進撃が不可能になるのである。その泥濘の大地が乾燥する夏まで待つとなると、作戦の時期を失する事になってしまう。
だから極寒の真冬に作戦は実行されたのである。
極寒の真冬なら大地は凍てつき、障害になる川や湖まで凍り付いている。その為に寒さ対策を十二分に行えば、進撃は可能と判断された。そこで大日本帝国はかつてない規模で、シベリアの大地に補給兵站線を構築したのである。それは一言で言えば、鉄道の増設だった。
シベリア鉄道はほぼ無傷で確保したが、それを複々線工事を行うと同時に既存のシベリア鉄道に対して、補強工事を行った。それはレールを強度の高い物と交換し、枕木の間隔を狭めて補強することにより、南満州鉄道製M55型蒸気機関車の運行を可能にする事だった。
南満州鉄道製M55型蒸気機関車は南満州鉄道が開発した長編成輸送を可能にする、強力な蒸気機関車でありその最大出力は5300馬力にも達する。大日本帝国の国鉄が運用するD51蒸気機関車が3800馬力であるのを考えると、倍に近い馬力を誇り4600トンの貨物を牽引する事が可能だった。大日本帝国国鉄のD51蒸気機関車が2200トンの貨物を牽引する事を考えると、国際航路の中型貨物船に匹敵する輸送力をM55型蒸気機関車は有していたのである。
それだけの輸送力を発揮可能となれば、大日本帝国はかつてのシベリア出兵時の悪夢を繰り返さない為にも、シベリア鉄道を最大限に有効活用し補給兵站線を万難を排して維持する事を決めたのである。進撃がシベリア鉄道沿線に限定されてしまう、との意見も参謀本部では出された。
だが幾らシベリア出兵時の荷馬車から装輪車輌・半装軌車輌に替わっても 、車輌だけでは轍を取られ悪路を通過することが困難になる。路面状態がここまで悪化すると当然のことながら、車輌の故障や事故が頻発して損耗率も急上昇することになるのである。ましてシベリアの奥地は随所に永久凍土地帯があることから、春先の解けの季節になれば泥濘となり移動は困難を極める。
だからこそシベリア鉄道を確保し進撃の自由度を確保する為に、複々線工事も行う事にしたのである。そしてシベリア鉄道で大量の物資と車輌を送り込む事で車輌の移動負担を軽減させる事で、最前線での補給兵站線維持を確保する事が出来るのである。
M55型蒸気機関車の1編成の輸送重量だけで単純に計算すれば、大日本帝国陸軍式の編成なら前線の5個師団が必要とする補給量を、この1編成で賄える計算になる。その為に大日本帝国陸軍参謀本部としては南満州鉄道の協力を得て最大で1日15編成の貨物列車を、沿海州と満州の両方からシベリアへ向けて送り出す予定であった。 これだけの補給量ならば単純計算で、75個師団への補給が可能であった。
今回のシベリア解放作戦では大日本帝国陸軍第1方面軍合計12個師団、満州帝国陸軍20個師団、中華民国陸軍30個師団、の合計62個師団が参加したが補給兵站線は完璧に維持され最前線は、補給不足に陥る事無く活動出来たのである。