シベリア解放作戦3
お久しぶりです。
南樺太とウラジオストク占領を果たした大日本帝国は、満州帝国国境から全面侵攻を開始した。
『満州帝国国境から大日本帝国陸軍と中華民国陸軍、そして大日本帝国陸軍指揮下の満州帝国陸軍が一斉に、シベリアに向けて侵攻が開始された。作戦の主力はアラビア半島打通作戦を成功させた、石原莞爾大将率いる大日本帝国陸軍第1方面軍だった。第1方面軍には第1・第2・第3軍の3個軍が所属しており第1軍には第1自動車化歩兵師団・第2自動車化歩兵師団・第3自動車化歩兵師団・第1戦車師団が所属。
第2軍には第4自動車化歩兵師団・第5自動車化歩兵師団・第6自動車化歩兵師団・第2戦車師団が所属。
第3軍には第3戦車師団・第4戦車師団・第5戦車師団・第7自動車化歩兵師団が所属。第1方面軍は合計12個師団を傘下にしていたのである。
かつてアラビア半島打通作戦の時に派遣された編成よりも、機械化は進み全ての師団が車輌を運用するようになった。それは各財閥の戦時生産体制が整った成果でもあった。
そしてそれは大日本帝国陸軍が開戦当初までの、[歩兵主体]の陸軍から[機械化]を成し遂げた
証だった。しかも更に大日本帝国陸軍は自動車化歩兵師団だけでは移動は大量のトラックになり、不整地での機動力低下を招く事から装甲車や半装軌車輌の開発を推し進めていた。それにより早急に[自動車化歩兵師団]から[機械化歩兵師団]への以降を強力に推進していた。だがその変更でトラックが不要になる事は無く、補給兵站線の維持には必要不可欠だった。
更に大日本帝国陸軍はイタリア王国救援の為の、[第2方面軍]を編成していた。師団構成は第1方面軍と同じであり、イタリア王国を強力に援護する為であった。しかも広大なシベリアへの侵攻である為に第1方面軍だけでは手が足りない事が当然ながら分かりきっていた為に、満州帝国駐留の関東軍を再編成し[第3方面軍]としての編成も行っていた。
大日本帝国本土の師団を全て第1方面軍と同じ師団構成を行っており、更に選抜徴兵による新編師団も同様の構成にしていた。
大日本帝国陸軍の指揮下には満州帝国陸軍も存在したが、保護国が宗主国に従い行動していただけだった。その為に満州帝国陸軍の指揮権は大日本帝国陸軍にあり、満州帝国陸軍の独自性は無かった。満州帝国陸軍も大日本帝国からの軍事援助により、強力に近代化されており大日本帝国陸軍の進撃速度に追従出来た。
満州帝国の経済体制も宗主国である大日本帝国を参考に、重厚長大産業育成による重工業化を推し進めており更には大日本帝国から各財閥が進出しており、経済力は飛躍的に発展していた。
その経済力を背景に満州帝国陸軍は、20個師団の編成を行い全てを大日本帝国陸軍第1方面軍の指揮下として、シベリア侵攻に参加していた。
満州帝国陸軍とは違いある程度の独自性を有する中華民国陸軍だが、戦力的には大日本帝国陸軍に劣る為に形式上は大日本帝国陸軍の指揮下に入っていた。
中華民国陸軍は30個師(師団に相当)を派遣しており、それらは大日本帝国が派遣した軍事顧問団により航空機全般の空戦を指導する為の大日本帝国海軍の原忠一大将、陸戦全般を指導する為の大日本帝国陸軍の山下奉文大将が、それぞれ指導し練度は著しく向上していた。その為に中華民国陸軍は、数だけ多いという状況を克服していたのである。
その3カ国陸軍による侵攻を受けたシベリアは、もはや組織だった抵抗は行われずシベリアの大地は、ズタズタに引き裂かれていった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋