シベリア解放作戦
1943年1月25日。アメリカ合衆国がトーチ作戦を開始したのと偶然にも同日に、大日本帝国と中華民国による『シベリア解放作戦』が開始されたのである。
『シベリア解放作戦は大日本帝国と中華民国の合同作戦として開始されたが、やはり主力は大日本帝国となっていた。大日本帝国本来の目的である北樺太への侵攻が開始されたが、シベリア解放作戦のまず第一の目的はウラジオストク制圧だった。その為に大日本帝国は海軍連合艦隊と陸軍によるウラジオストク上陸作戦を行うと同時に、満州帝国国境から大日本帝国と中華民国陸軍が一斉に侵攻した。大日本帝国陸軍の指揮下には満州帝国陸軍も存在したが、保護国が宗主国に従い行動していただけだった。その為に満州帝国陸軍の指揮権は大日本帝国陸軍にあり、満州帝国陸軍の独自性は無かった。
ロシアの大地は長引く内戦状態だった。[壮大な社会実験]と揶揄された社会主義国家ソビエト連邦は改革の失敗・共産党内部の派閥争い、そしてスターリンの死亡で内戦に発展していた。このソ連崩壊により、中国では中国共産党が瓦解し中国は、蒋介石率いる国民党が中国を統一し中華民国の建国を宣言したのである。これにより大日本帝国は日中同盟の締結を提案。中華民国政府も賛同した為に、1936年に日中同盟が締結された。ソ連崩壊で特をしたのは大日本帝国であり、満州帝国だった。社会主義という異質な国が崩壊し、北方は警戒する必要が無くなったのである。何せソ連崩壊によりロシアの大地は社会主義者や帝国主義者・資本主義者・無政府主義者等、汎ゆる思想を掲げる者達の内戦状態だった。統一された組織は何一つ無く戦国時代よりも混沌としていた。その為に大日本帝国は技術者や科学者等はその知識を守る為に、積極的なスカウトを行い大日本帝国へ移送していた。
だがそんな人々も祖国の窮状に胸を痛めており、何とかならないかと思っていたのである。東條陸相はそのロシア人達の声を聞き、それを山本総理兼海相に伝えたのである。それを聞いた事により山本総理兼海相は北樺太侵攻の隠れ蓑にしつつ、祖国を想うロシア人を支援出来るとしてシベリア解放作戦を計画したのであった。
まさに[木を隠すなら森の中]を体現化したような作戦であり、作戦は大日本帝国陸軍参謀本部幕僚附(作戦課)参謀の瀬島龍三大佐が立案した。作戦名に[シベリア解放]と付ける事により、北樺太侵攻を隠すという完璧な内容だった。瀬島大佐の意見は陸軍参謀本部作戦課課長である服部卓四郎少将が評価しその案を採用し、正式に大日本帝国の実施する作戦として決定された。
今こうして私がその北樺太侵攻云々を書けるのは、機密指定が解除された現在だから書けるのであり、当時は誰にも知らされていなかった。何せ北樺太侵攻やウラジオストク上陸作戦、満州帝国からの侵攻を行う現場将兵は真相を知らないまま作戦を行っていた。さすがに中華民国の蒋介石国家主席や満州帝国高官は知らされていた筈だが、真の目的を知るのは少なかった。
話を戻す。
北樺太侵攻・ウラジオストク上陸・満州帝国からの侵攻、という同時多発的作戦であるがロシアの大地に統一された組織がいない為に、作戦は呆気ない程に進んだ。ここからはその詳細を書きたいと思う。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋