奇襲作戦3
アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊艦載機は、突如として上空から銃弾と噴進弾の嵐を受ける事になった。奇襲作戦の予定が奇襲を受けてしまったのである。防弾装甲を強化したアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の誇る新型艦載機だったが、その機体は次々と叩き落されていった。何せ武装が強力過ぎた。局地戦闘機紫電は武装を25ミリ機関砲2門・13ミリ機銃4門・50キロ噴進弾14発であり、ジェット戦闘機烈風と火龍は武装を30ミリ機関砲4門・13ミリ機銃6門・50キロ噴進弾14発であり、二式戦闘機鍾馗は武装を25ミリ機関砲2門・13ミリ機銃4門・50キロ噴進弾10発であった。これに加えて大日本帝国海軍航空隊は新型機として『ジェット戦闘機震電』を投入していたのである。『エンテ型』と呼ばれる独特の機体形状で、主翼は世界で初めて『後退翼』となっていた。それにジェットエンジンの相性は抜群でありジェット戦闘機烈風・火龍と同じ、石川島播磨重工業製ターボジェットエンジンの『ネ25』ながら最大速度は900キロを発揮したのである。その為に後退翼は以後のジェット機の標準装備となり、ジェット戦闘機烈風・火龍も改良型から後退翼を装備する事になった。そしてジェット戦闘機震電は武装を35ミリ機関砲4門・13ミリ機銃6門・50キロ噴進弾12発という強力過ぎる装備だった。
機関砲は大口径で主翼や胴体を1発で吹き飛ばし、噴進弾は近接信管で回避したと思っても至近距離でいきなり爆発し、アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊艦載機は突然の攻撃に一気に半数近くが撃墜された。残された約700機は態勢を立て直そうとしたが、その練度差が大き過ぎたのである。何せアメリカ合衆国はトラック島沖海戦の敗北以後必死に操縦士育成を行ったが、その教官達も実戦経験が無くただ単に『航空機を操縦出来る』というレベルにしただけだった。戦艦こそが海軍の主役だとして空母は大日本帝国の増強に形だけ対抗した状態だった為に起こった悲劇だったのである。この瞬間もアメリカ合衆国本土では大量の操縦士が育成されていたが、それは操縦出来るレベルでしか育成出来なかった。
だからこそ大日本帝国海軍陸軍航空隊の攻撃を生き延びた機体は、必死の努力虚しく次々と叩き落されるだけだった。一部は逃走を図ったがレシプロ機である局地戦闘機紫電と二式戦闘機鍾馗でさえ、アメリカ海軍太平洋艦隊艦載機の速度を上回っており、ジェット戦闘機である烈風・火龍・震電は圧倒的な速度を誇り、逃走を完全に阻止した。大日本帝国海軍陸軍航空隊もアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊艦載機が新型機だとは分かっており、気を引き締めて空戦に突入したが呆気ない戦いに驚いていた。全滅を図り攻撃を続けていたが突如として地上から、緊急連絡が行われた。それは偶然北海道を視察していた大日本帝国陸軍参謀本部幕僚附(作戦課)参謀の瀬島龍三大佐(アラビア半島打通作戦の成功により1階級特進し、1942年10月の士気高揚の策による全軍1階級特進により大佐になっていた)からだった。
驚く海軍陸軍航空隊の操縦士達だったが42式早期警戒管制機を中継しての連絡は、残るアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊艦載機を見逃すように命令するものだった。その命令に更に驚いた操縦士達に瀬島大佐は、「見逃す事により大日本帝国戦闘機の高性能さを知らしめ、圧倒的性能差に士気喪失を誘うのが目的」だと語った。それに一理あると判断した隊長達は攻撃中止を命じたのである。これによりアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊艦載機の残存115機は這々の体で空母に帰還した。
瀬島大佐の命令はある種独断専行だったが東條陸相のみならず山本総理兼海相も、瀬島大佐の命令を承認した。『戦わずして勝つ』を実施出来るならそれに越したことはないとの判断であった。