G計画
1942年10月30日。大日本帝国にて正式に核開発が開始された。
『大日本帝国での核開発は第二次世界大戦前から開始されていた。しかしそれは[核爆弾]としての開発では無く、膨大な動力としての[原子力機関・原子力発電]での開発だった。その為に大日本帝国の核開発は海軍主導で商工省と共同で行われていたのである。だがその核開発は大英帝国脱出作戦により、大きく変更される事になった。大英帝国から脱出した科学者・技術者達が、大日本帝国の要請により核開発に協力を開始した。当初は大日本帝国は従来通りの開発内容を加速させる為の増員であったが、大英帝国の科学者・技術者達は大日本帝国が爆弾として核開発を行っていないのに驚いた。
大英帝国は1939年6月にバーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見を成し遂げていた。2人の計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられた。オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構のレポートを書き、バーミンガム大学物理学科主任のマーク・オリファントを通じてイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送った。 これにより1940年5月には、MAUD委員会と呼ばれるウラン爆弾の実現可能性を評価する委員会が組織されていたのである。その後大英帝国は核開発を行ったが、フランス・オランダによる本土侵攻により計画は中断。そして脱出作戦に汎ゆる技術レポートを持ち出し、大日本帝国に到着後にその全てを提示したのである。それによって大日本帝国が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示されたのであった。そして更に大英帝国はアメリカ合衆国が当然ながら、核爆弾を開発している可能性は十分にあると警告したのだ。
こうなるともはや大日本帝国は[原子力機関・原子力発電]開発どころでは無く、核爆弾開発に最優先で取り込む事を決定したのである。そして山本総理兼海相は太平洋平定作戦中の1942年10月26日に緊急閣議を開催し、そこで予算の大幅増額による核爆弾開発計画[G計画]を提示した。G計画のGはそのまま原子力の頭文字であり、安直ながら単純明快な計画名だった。その計画内容を山本総理兼海相は説明したが、内容は驚くべきものだった。そして更に山本総理兼海相は計画の説明者として、とある人物を閣議室に招き入れたのである。その人物に閣僚達は驚いた。大英帝国首相チャーチルが入って来たのだ。
東郷外相は驚きの声をあげた程である。山本総理兼海相に招き入れられた、チャーチル首相は核爆弾開発を真剣に行うべきだと力説した。それは[原子力機関・原子力発電]開発に尽力していた大日本帝国としては、突然の方針転換だがアメリカ合衆国が核爆弾開発を行っているのは確実で、核爆弾は戦争の趨勢を左右する程のものだとも語った。核爆弾が実用化されると1発で都市が壊滅状態になる、凄惨極まりない破壊力を有する事になるともチャーチル首相は説明した。そして大英帝国は本土が占領された事により核爆弾開発が継続不可能になった為に、脱出した全科学者・技術者を提供し大日本帝国の核爆弾開発を強力に推進すると断言したのである。
その言葉に東條陸相や岸商工大臣・東郷外相、そして他の閣僚達もG計画推進に賛成した。ただ1人賀屋大蔵大臣は、莫大な予算が必要な計画の為に黙り込み頭を抱えていた。既に現在の[原子力機関・原子力発電]開発に投入した研究開発費は25億円にも及んでいた。賀屋大蔵大臣は半ば諦めたように、G計画に必要な資金はどれくらいになるのか尋ねた。山本総理兼海相は約50億円は必要になると語ったのである。それを聞いた賀屋大蔵大臣は天を仰いだ。ここへきて更に爆弾の為に約50億円もの巨額の予算が必要なのである。
賀屋大蔵大臣の心配は分かるとチャーチル首相は語った。だが将来的には中東での油田開発による資金により、今回の予算は全て回収出来ると説得したのである。それを受けて賀屋大蔵大臣はもはや吹っ切れた表情で、G計画に賛成すると語ったのだ。これにより改めて山本総理兼海相はG計画を閣議決定し、帝国議会に送付したのである。そして1942年10月30日帝国議会にてG計画は賛成多数により成立し、大日本帝国にて正式に核開発が開始されたのだ。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋
史実でアメリカ合衆国はマンハッタン計画に、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)を投入しています。
この小説の世界線での大日本帝国は1ドル=2円で、更に数字を端数を揃える為に約50億円としました。




