解説 帝国改革法案2
『そして次は財閥についてである。これは経済機構の改革であり、必要に迫られたと言うよりは国民へのガス抜きのために実施されたと言える。大日本帝国は確かに各種企業が存在したが、財閥と言われる巨大企業体が経済を独占するようになっていた。そして第二次世界大戦勃発で、一部産業の独占体制はさらに強まった。その為に一部国民の不満は高まる事になったが、大日本帝国としては国家・民族としての競争力維持のためにも、超急進派が言うような[財閥の解体]は論外だった。このため法制度を整備することで、今後の企業間競争の健全化を図る事とされた。その1つが[独占禁止法]であった。しかしこれは戦時中という事もあり法自体が強いものではなく、また抜け穴もあったため、当初はあまり実行力はなかった。このため後に国民から不満が出て改訂、強化されていった。一方財閥側も山本内閣への支持は揺るぎ無いものであったが、労働者や国民の不満をかわす名目で、財閥一族や超大株主を経営の第一線から退ける向きを強め、合わせて経営の合理化を進める事を決めた。そして財閥側は政府と商工省を交えて協議を行い、ある種の改革を断行する事になった。それは[財閥]という名称は残しながら創業家一族による同族経営の純粋持株会社から、基幹銀行・総合商社を中心に[グループ]へと体制変更するというものであった。これにより財閥による過度な企業の集中と独占が緩和され、各種産業に新規参入が容易になるという利点があった。しかし重要産業は各種財閥のある種独占というは変わり無く、それが先に記した独占禁止法の改定が行われる理由となった。
ここからはグループに体制変更する事になった財閥の体制について説明する。まずは三菱財閥である。三菱財閥は俗に住友、三井とともに三大財閥であるが、住友、三井が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治期に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。しかし歴史は浅くとも三菱財閥は大日本帝国最大の規模を誇る事になり、グループ移行後もその傘下企業は最多を誇った。三菱銀行を基幹銀行とし三菱商事と三菱重工の3社が三菱グループ御三家と呼ばれる中心を担う事になった。その他に三菱製鋼・三菱鉱業・三菱地所・三菱製紙・三菱電機・三菱自動車・三菱食品・日本郵船等々、数多くの企業が三菱グループを構成していた。三菱グループの基本理念として[三菱は岩崎家一個のものではなく、国家社会のための三菱である]とする考えがある。この言葉は単純明快な合言葉として、[三菱は国家なり]と制定され財閥からグループへ体制変更した時に全グループ企業に徹底された。三菱金曜会(略称・金曜会)と呼ばれる毎月第2金曜日に、グループ企業の会長・社長を集めて行う懇談昼食会を定期的に開催している。またその強固な組織力と規律故に官僚的と揶揄されるが、[組織の三菱]とも呼ばれる程にグループでの組織力は抜きん出ている。
次は住友財閥である。住友財閥は1590年に愛媛県新居浜市で創業した別子銅山(現在の住友金属鉱山)が源流であり、世界で最も古い歴史を持つ財閥である。歴史では圧倒的であるが規模で三菱財閥に凌駕される事になったが、大日本帝国三大財閥の矜持はみせていた。住友銀行を基幹銀行として、住友商事と住友重機械工業の3社が住友グループ御三家と呼ばれる中心を担う事になった。その他に住友金属鉱山・住友金属工業・日本電機・住友ゴム工業・住友林業・住友不動産等々、数多くの企業がグループを構成していた。白水会と呼ばれる月1回のグループ企業の社長の集まりがある。この白水会は現役社長以外の代理出席は認めないという厳しい上、創業家である住友本家への忠誠心が必要であり、住友精神の順守などが定められた血判状と言われる書類に押印しなければ白水会への出席は認められない事になっている。この会議の参加自体が住友家への忠誠心を示す場として、他の財閥の社長会にくらべ最も出席率は高く活動も積極的であり、その統制力も強いといわれている。この他会議内容は一切非公開、議決は満場一致、幹事は持ち回りとするなどが運営上の基本ルールとなっている。そしてそのように住友グループは創業家である住友家を中心に、グループ各社の社長たちが白水会などを通じて連携を深め、集団指導体制を築いておりグループ各社の経営を円滑に進める上で重要な役割を果たし、[結束の住友]と呼ばれる程の団結力をみせている。
次は三井財閥である。三菱財閥・住友財閥と共に、大日本帝国三大財閥を構成する財閥となっている。三井銀行を基幹銀行として、三井物産・三井不動産の3社が三井グループ御三家と呼ばれる中心を担う事になっている。その他に商船三井・王子製紙・東京芝浦電機・三井金属鉱業・三井精機工業・三井食品等々、数多くの企業がグループを構成していた。二木会と呼ばれるグループの連帯維持を目的に設けられた会がある。グループ企業の会長・社長を集めて行う懇談昼食会を活動の中心として、毎月第2木曜日に開かれるのでこの名が付けられた。三井財閥は人材重視の考え方を重視しており、優秀な人材を育成し、その能力を最大限に引き出すことを目指している。これは三井財閥傘下企業の社風や企業文化を代表するものになっており、[人の三井]と呼ばれる程になっている。
次は鈴木グループである。1874年という三菱財閥よりも新しく創業された若い企業であるが、安田財閥を上回り大日本帝国の四大財閥に成長していた。特に海外貿易では鈴木商店は他の財閥を圧倒的に上回る売上高を誇り、スエズ運河を通過する船の一割は鈴木商店所有といわれる程であった。第一次世界大戦後の戦争特需終了と関東大震災により倒産の危機に見舞われたが、海運と大英帝国への太いパイプを築いていた鈴木商店の倒産を避けるべきだとの政府判断により、台湾銀行を通じて公的資金が投入され倒産を免れた。その後鈴木商店は独自の企業改革を行い、株式発行による上場企業となった。そして1940年10月5日に帝国議会に於いて[朝鮮半島及び台湾・樺太本土昇格に関する法律]の成立後に[台湾銀行法]が改正され台湾銀行は台湾の貨幣(台幣)の発行権を持つ特殊銀行であり台湾の中央銀行から、単なる商業銀行になった。それを受けて鈴木商店は自らの企業グループである鈴木グループの基幹銀行として台湾銀行を買収し、[台湾鈴木銀行]に改名した。そしてこれにより鈴木グループは台湾鈴木銀行を基幹銀行とし、鈴木商店と石川島播磨重工業の3社が鈴木グループ御三家と呼ばれる中心を担う事になっていた。その他に神戸製鋼・帝国人造絹絲(帝人)・帝国海運(鈴木商店の海運部門を分社化)・太陽鉱工・川西航空機・出光興産・日本化薬・台湾製糖・朝鮮鉄道等々、数多くの企業がグループを構成していた。他の財閥のように懇親会は開催していなかったが、第二次世界大戦時の鈴木商店社長である高畑誠一が会長の金子直吉に直談判し、[鈴木会]という懇親会を月に1回開催する事になった。これによりグループ間の結束が更に強まる事になったのである。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録外伝〜帝国改革法案解体新書〜』より一部抜粋