解説 戦時下の娯楽
『歌もであるが、山本内閣は映画の振興にも力を入れていた。その振興により大日本帝国の各映画制作会社は数多くの映画を制作し、1941年(昭和16年)時点で、大日本帝国はアメリカ合衆国に次いで年間600本にも及ぶ本数の映画を制作していた映画大国となっていたのである。大日本帝国はニュース映画は各社を統合し社団法人日本映画社のみとしたが、通常の映画制作会社は統合させずに映画制作に於いて競争させる事にしていた。その為にジャンルも数多く作られ、喜劇・戦争・刑事物・家族愛・ポルノ・特撮等多岐に及んだ。その中で[日本活動写真株式会社]はポルノ映画制作に主軸を置き大手の映画会社が、本格的なポルノ映画に着手するという世界にも例がない事に取り組んだ。そのあまりにも過激な性描写に内務省は規制を検討したが、山本内閣が戦時下の国民のはけ口にするべきだとして規制を阻止した。その結果として日本活動写真株式会社のポルノ映画は大ヒットする事になった。
戦争映画は大日本帝国政府が後援し、陸軍と海軍が全面的に撮影に協力する事により迫力ある映画となっていた。その戦争映画による軍との協力関係と特撮技術により、ヒット映画を制作していた[東宝映画]が1940年に公開した、[宇宙怪獣襲来]はその年の大日本帝国映画最大のヒット映画となった。宇宙から突如として地球の大日本帝国に襲来した宇宙怪獣と、大日本帝国陸軍海軍が戦うという戦争映画としつつも特撮映画という映画であった。宇宙怪獣は実際に人間が動かす着ぐるみとして、それを利用した迫力ある映画となった。あまりの人気に続編も制作されたが第二次世界大戦後に大日本帝国の水爆実験により誕生した、[水爆大怪獣]をメインにした映画の大ヒットにより宇宙怪獣は脇役に追いやられる不遇な扱いを受ける事になってしまった。
ラジオ・映画と続き、次はテレビについてである。テレビについても山本内閣は国民生活での娯楽として、重要な役割りを担う事になると判断し研究開発を行わせていた。そして1940年4月13日には大日本帝国初のテレビドラマの実験放送が開始され、その後も数回に渡り実験放送が行われた。その結果も良好であり各電機メーカーのテレビ生産体制が整い、1942年12月1日から大日本帝国に於いて正式にテレビ放送が開始される事になったのである。しかし発売当時のテレビは1台1800円にもなる代物であり、1940年時点での大日本帝国に於ける一般国民の月給580円では、超高級品であった。参考までに当時の各種品目の一部値段を列記しておくと、米10キロ8円・うどん1杯50銭・ビール1本80銭・バス初乗り60銭・新聞月額3円・真空管ラジオ80円・映画館入場料2円となる。この為に一般国民には遅々として普及せず、普通に購入出来るのは金持ちに限られた。しかしそれではテレビの普及率が上がらないとして、国営放送たる帝国放送協会に次いでテレビ放送を開始した民間放送局が、自らの資金で百貨店や銭湯・商店街等に街頭テレビを設置していったのである。これにより山本総理兼海相も帝国放送に街頭テレビ設置を命じ、国鉄主要駅や全国の公会堂に多数設置した。この街頭テレビにより一般国民もテレビに親しむ事が出来るようになり、その結果テレビの普及率も増加していった。各家庭に1台設置するまでの普及率増加は、戦後の電機メーカーによる生産体制拡大を待たねばならなかった(戦時中は軍のレーダーやアナログコンピューター生産に注力しており、テレビの生産ラインが少なかった為である。その為に1台の価格が超高額になったが、生産体制をテレビに集中した結果量産効果で低価格化が可能になった。)が、それでも一般国民にラジオ・映画に次ぐ娯楽を与えたのは大きかった。
ラジオ・映画・テレビの普及と人気は新聞の購読数にも影響を与えた。速報性ではラジオ・テレビに負けるが、写真や文章による詳細な説明、何よりもラジオ・テレビと違い形と文字で残る事の利点が大きかった。その為にラジオの放送欄のみならず、テレビも放送欄が掲載され、映画も新作の広告を行い、ラジオ・テレビに新聞の広告が行われ、映画には新聞が物語の小道具として登場するという、相互関係になっていったのである。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋