ロンドン陥落
1942年9月5日。大英帝国帝都ロンドンでは、フランス・オランダ陸軍による侵攻作戦が進展していた。
『フランス・オランダ陸軍による侵攻は激しさを増し、大英帝国陸軍は劣勢だった。大日本帝国からの軍事援助は継続されていたが、かつてより大規模には行えなかった。軍事援助は空輸で行われておりイタリア王国から百式輸送機により空輸されていたが、フランス陸軍航空隊の投入した新型機であるFw190が必死の迎撃作戦を行っていた。フランス陸軍航空隊の新型戦闘機であるFw190は、性能的には大日本帝国の陣風艦上戦闘機と二式戦闘機鍾馗には及ばないものの、確実に性能向上は果たしていた。その為にフランス陸軍航空隊はジェット戦闘機Me262と組み合わせて、百式輸送機を狙った一撃離脱戦法を採用し数多くの戦果をあげたのである。その為に大日本帝国としても百式輸送機の数を減らして護衛戦闘機の数を増やして空輸を行うしか無く、それによりただでさえ空輸という効率性が低い輸送である為に大英帝国へ空輸出来る量が目に見えて低下していたのであった。更にロンドンが戦場であり周辺部も侵攻されている最中で、大日本帝国海軍航空隊第11航空艦隊が駐留するグラスゴーの大英帝国空軍基地に到着する為にそこからロンドンへの輸送も時間が必要であった。その結果は前線での兵力不足という結果として表れたのである。』
小森菜子著
『欧州の聖戦』より一部抜粋
大英帝国グラスゴーのホテルを臨時首相官邸としていたチャーチル首相は、閣僚達を集めて対策会議を行っていた。前線から届く報告は大英帝国陸軍の敗退ばかりであり、あまりにも被害が大きかった。その為にチャーチル首相はロンドンの放棄を決定し、閣僚達も賛同したのである。フランス・オランダ陸軍と陸軍航空隊による攻撃は熾烈で、新型兵器である大型噴進弾も中々の被害をロンドンに与えていた。そこでチャーチル首相はロンドンを放棄して一気にスコットランドまで戦線を後退させ、兵力を集中させるべきだと対策会議で語ったのだ。閣僚達もその意見に賛同したが、更にチャーチルははもう1つの案を提案し閣僚達もそれを受け入れた。それを受けてチャーチル首相はエディンバラ城に向かい国王ジョージ6世に謁見する事にしたのである。
『ロンドン放棄によるスコットランドへの戦線後退を決定してから、私は国王陛下に謁見した。そこで私は国王陛下にロンドン放棄について説明し、兵力の密度を高める為にスコットランドまで戦線を縮小させると語ったのである。それを聞いた国王陛下は残念そうにしたが、了承して頂けたのである。そして更に私は現状では圧倒的に劣勢であり、今のうちに脱出計画を策定するべきだと進言した。それを聞いた国王陛下は無言で立ち上がり、窓辺に立ち暫く外の景色を見つめていた。私にはその行動が痛いほど理解出来た。
既に大日本帝国からの軍事援助を受ける対価として、植民地とオーストラリア・ニュージーランドの独立や中東の油田開発権譲渡という大英帝国崩壊に繋がる事を決定していたのである。そしてそれに追い打ちをかけるように、大英帝国本土から脱出する必要に迫られたのだ。偉大なる大英帝国もここまで追い詰められてしまった事が、国王陛下としても受け入れにくい事実だったのだ。それが理解出来た為に私は紅茶にも手を付けず、ただじっと国王陛下が口を開くのを待っていた。静寂が辺りを支配し5分ばかりが経過しただろうか、そこで国王陛下は私に振り向くと残念そうな表情を浮かべながら、早急に脱出計画を策定するように仰られたのである。
私は立ち上がると深々と頭を垂れた。』
ウィンストンチャーチル著
『第二次世界大戦回顧録』より一部抜粋




