4.2
ディアナとアレクシスが食堂に降りていくと、急に準備したとは思えない美しく盛り付けられた品々がテーブルを彩っていた。
ああ、私の好きな物ばかりだ……
ディアナはジェームスや、シェフ達の心使いにぎゅっと胸を締め付けられた。
ヴェルギナ記は返したが、明日またすぐに王都に連れ戻されるのだろう。次、屋敷で食事ができるのはいつだろうか。
世界樹の巫子が生贄的な役割を担っていたというのは、私にとって吉と出るか、凶と出るか分からない。このまま逃げ通せたら、寿命を全うすることも可能かもしれないが、王家は秘密が漏れるのを嫌がるだろう。
夕食の間、向かいに座るアレクシスとルーカスも特に会話はなく、気がつくと締めの紅茶を飲んでいた。
「アレクシス様、ルーカス様、お部屋にご案内いたします」
執事のジェームスが、静かに二人の背後から声をかけた。
ああ、しまった。二部屋も用意させてしまった。どうせ中将は今夜も私を見張るのだろう。
「ジェームス、伝えるのを忘れていたわ。ごめんなさい。アレクシス中将は私の部屋でお休みになられます」
ディアナが遮ると、ジェームスは「承知いたしました」と穏やかに受け応えてくれた。しかし、アレクシスは若干眉を寄せてこちらを見ている。
何か文句があるのだろうか。逃亡しないよう見張られている、という理由を強調しろというのだろうか。しかし、屋敷の者にまで、惨めな姿を見られたくはない。
ディアナがアレクシスを連れて部屋に戻ると、慌ただしく扉をたたく音がした。
「ニルスです」
そう言って扉から入ってきたのは栗色の緩い巻毛に、意志の強そうな青みがかった瞳を持った美丈夫な青年だった。
「ニルス、遅くにありがとう」
ディアナはそう言って、執務机に腰掛けた。
「ディアナ様が戻られたと聞き、急ぎ参りました。ご無事で何よりです」
執務室机の前に来たニルスは、ソファーに腰掛けているアレクシスに目を向けた。
「王国軍の方です。私を見張っているだけなので、気にせず報告をお願い」
ニルスはアレクシスに会釈すると、ディアナに向き合った。
「ディアナ様が不在の間、いくつか問題が起きまして……」
ニルスは元々土地土地を渡り歩く商団の一員だったが、数年前織物の取引で付き合いがあった時にその才能に惚れ、今はセレウキアの経営の実務を色々こなしてもらっている。
小さな問題ならほぼニルスの判断に任せているので、その報告を聞くだけだ。しかし、やはりというか、私が捕まったのを聞きつけた親戚が、新しく育てている事業にちょっかいを出してきたという。叔父は、投資や育てるといった感覚がない。目先の利益ばかり狙って、すぐに事業を潰してしまう。
「叔父上も困ったものね……」
ディアナは肘をつき、視線を遠くに向けた。
「叔父上が経営する果実園は、労働者の不満がだいぶ溜まっていたわよね……いや、もう少し長期に困ってもらわないといけないから、アマリアに連絡をとって。女性問題でバタついてもらいましょう」
面と向かって対抗措置をとるよりも、自ら崩れてくれる方がこちらの痛みがない。叔父の妻はかなりヒステリックな女性だ。せいぜい浮気の代償に苦しむがいい。
「ニルス、私は明日またすぐに王都に引き戻されます。代わりにセスが帰ってくるので、よろしく頼むわね」
「承知しました。……ディアナ様のお帰りを待っております」
ニルスは切なそうな視線をディアナに向けた。
「もし、私がセレウキアに帰ってこれなかったら……」
「必ず帰ってきてください」
ニルスに強く遮られ、ディアナはフッと表情を緩めた。
「万が一の話よ。その場合は、誰か信頼のおける人にセスの後見人を依頼しようと思います。あの子に荒事は無理だから」
「そうならないよう、願っています」
ニルスは執務机に厚みのある書類の束を置くと、後ろ髪を引かれる様子で部屋を後にした。
※ ※ ※
アレクシスは、部屋から去る際ニルスが棘のある視線をこちらに向けたのを感じた。
あの若造、一丁前に主人を守る番犬のつもりか。
「随分とお前に心酔しているようだな。魅了でもかけているのか?」
アレクシスは皮肉な笑みを浮かべて執務机に座るディアナを見た。
「大切な人に魅了は使いません」
ディアナはこちらに目もくれず、ニルスに渡された書類に目を通し、サインをしている。
何か面白くない。実際、あの若者の説明は非常に要領を得ていて、喋り方を聞いただけで優秀だということが分かる。ディアナが全幅の信頼を置いているのも頷ける。
あいつは彼女を敬愛し、役に立つことに喜びを覚えているのだろう。そんなやつからすれば、俺はさしずめ女主人を苦しめる無粋な軍人といったところか。
アレクシスがよくわからない苛立ちを溜め込んでいると、扉がノックされ、ルーカスが入ってきた。
ルーカスはディアナに挨拶すると、アレクシスに小声で耳打ちした。
「ユージン殿下から便りが届いています」
アレクシスは嫌な予感を感じながら、ルーカスと共に部屋を出た。
ルーカスは廊下で鳥に巻き付いていたであろう細い紙を手渡してきた。
折り畳まれた紙を広げると、そこにはユージンの筆跡でたった一行の指令が書いてあった。
――書を取り戻したら、その場で盗んだ者を処分せよ――
ヴェルギナ記を読んだ時から、ユージン殿下ならリスク要素は確実に排除するだろうと思っていた。しかし、こんなすぐとは……
「中将、悪い知らせですか?」
ルーカスが真面目な顔でこちらを見ている。
アレクシスは硬い顔でもう一度紙を見た。
「……少し考える。部屋でディアナ嬢を見張っていてくれ」
「はっ」
ルーカスはキレの良い返事をすると、ディアナの部屋へ入っていった。
アレクシスは一階まで降り、調理場に残る火に手紙を投げ込むと、客間を通り中庭へと出た。
空には欠けた月が一部雲に隠れ、滲んでいる。
もし世界樹の巫子が実は生贄だと国民に広まれば、聖痕をもって生まれた子供を隠す親が増える。そもそも、ヴェルギナ王国のシンボルとしてそびえ立つ世界樹が人喰いの巨樹だと知れ渡れば、ヴェルギナ国の威信も落ち、王家に対する不信も生まれるだろう。王都を怖がり、人が去っていくかもしれない。
ディアナなら、この情報の拡散を盾にこちらに交渉してくる可能性もある。口を塞ぐのが、なによりも安全だということは間違いない。
まったく、なんてものを盗んでくれたんだ……
そして、それを読ませてしまったのは自分の落ち度だ。
苦しませずに殺す方法はある。
しかし、この手であの白い首を手折るのか……
あの煌めく瞳も、温かく柔らかな肌も、耳に心地の良い声も二度と触れることはできなくなる。
俺は、あの強く輝く魂を消し去りたくはない。
アレクシスは執務机で書類を真剣な瞳で見ているディアナを思い浮かべた。
根本的解決にはならないが――
アレクシスは、心を決めるとディアナの部屋へ戻った。
「ルーカス、お前は部屋に戻れ」
見張りの仕事をしていたルーカスを戻すと、アレクシス荷物袋から二つ輪の繋がった手錠を取り出した。
「手を出せ」
ソファーに座っていたディアナは不服そうな表情を浮かべながらも、両手を前に出してきた。
アレクシスはディアナに手錠をかけるとベッドに横たえさせ、ヘッドボードの柱に手錠の端をガチャリとはめ込んだ。
ベッドに横たわっているディアナの足元に乗り上げると、彼女はギョッとした目でこちらを見てきた。
「聖痕がないか、確認する」
アレクシスがディアナのブラウスのリボンを解き始めると、ディアナは手錠がはまったままの腕でアレクシスの腕を振り払おうとしてきた。
「いやです」
ギシリとチェーンが張り詰め、彼女の細い腕に硬い手錠がめり込む。
「また痣になってしまう」
アレクシスはするりと外したブラウスのリボンをディアナの手錠の間に詰め込み、左手で頭上に固定した。
片手でボタンを外して行くと、怒りに少し紅潮した彼女の胸元と腹部が現れたが、どこにも聖痕は無い。
脚をばたつかせるディアナを抑えつつ、うつ伏せにして背中も確認したが、白く滑らかな肌があるだけだ。
それはそうか、背中の開いたドレスなども着ているはずだ。
再びディアナを仰向けに戻すと、頭上から甘い声が降ってきた。
「アレクシス中将……」
声につられて彼女を見上げると、彼女の瞳に吸い込まれそうになり、脳の中がびくりと脈打った。
――しまった。
魅了の魔法のことを忘れていた。
慌てて、自分の精神状態に気を回すと、意外に心に大きな変化は無いような気がする。自分がなすべきことに変化もないし、体温は先程からどうせ高揚してしまっている。
「俺に魅了はかけないのではなかったか?」
アレクシスは苛立ちを隠した目でディアナを見下ろした。
挑発的な瞳で見上げる彼女の唇を塞いでしまいたい。荒い息に上下する彼女の胸元に口付け、めちゃくちゃにしてしまいたいという衝動を感じるが、そんなただ女を犯すような人間になり下がる訳にはいかない。
そこを取り繕っても、今彼女は俺を嫌悪すべき男と認識しているであろうことは、避けようもない事実だろうが。
アレクシスはディアナのスカートをウエストで縛っている紐を黙々と解き始めた。
ディアナは体をひねったり、脚をばたつかせたりして、息が上がっている。
複雑に編み込まれたスカートの紐を解き終わり、指をかけて引き下ろすと、柔らかな太ももに別の意味で見入ってしまう。
ばたつかせるのをやめ、ぐっと膝を揃える彼女の脚を無理矢理開くと、見事な葉の紋様の痣が左太腿の内側にあった。
「世界樹の聖痕だな」
アレクシスは聖痕を親指でそっとなぞった。
あってよかった。ひとまず、今夜彼女を殺さないで済む。無体を強いた言い訳にも多少なるかもしれない。
「これを知っている者は?」
「罰するのですか?」
ディアナは凍りついた表情をこちらにむけた。
「いや、罰しはしない」
「……家の者だけです」
「そうか……」
アレクシスはその答えに嬉しさを感じ、質問をした自分の下心に気付いた。
ただ確かめたかっただけではないか……他の男が見たことがあるのかを。
アレクシスは自己嫌悪にさいなまれながら、ディアナの手錠を外した。
少し震えながらのろのろと服を着るディアナが痛々しく、思わずできるかどうかも分からない約束が口からこぼれた。
「生贄にならないよう、全力を尽くそう」
ディアナはこちらをじっと見たが、何も言わず目線を外した。