第一話 物売り少年と人助け少女
広大な空の上、流れる雲の真ん中に、それはあった。
クロスセピア
それが、巨大な浮遊物が有する名前だった。その中に人々は住居を建て、道を作り、歴史を刻んできた。それも最近の話ではない。少なくとも全盛期には十五万超す人口を保持するほどの経済力があり、中心部にはそれを象徴するような立派な城が構えられていた。わかりやすく言い換えれば、空に浮かぶ王国。そしてその中心地である町の名前はランクリットと言った。
これは空の都、ランクリットから始まる、小さな物語である。
◇◇◇
パンを抱えた少年が路上を走っている。幸いにも少年が今いる通りは、全力疾走しても人にぶつかる心配がないほどに人が少なかった。目視で確認できる範囲で少年の前方にいる女性が一人だけである。彼女もその横を走り抜ける少年にはちらりと視線を送る程度で、特別気に掛ける様子は見せなかった。そんな少年の後ろをすごい形相をしたパン屋の親父が追いかけていた。
「コラーッ!待てこのクソガキ!」
辺りに鋭い声が響くも、パン屋の親父はそれで余計に体力を使ったのか、息も切れ切れになる。更に広がっていく少年との距離を見て、あきらめるように速度を落としていった。その間に少年は脇道へと姿を消した。しかし、建物の角をちょうど曲がった所で、少年は人にぶつかった。
「うわぁっ」
思わず尻餅をつく少年。急いで立ち上がろうとするも、追い付いてきたパン屋の親父から逃げることはできずに腕をつかまれ、怒鳴り付けられる羽目になった。
「オレの店のパンを盗むとはいい度胸してんな!」
パン屋の親父はさらに腕に力を入れる。少年の持っていた鞄からは、パンが顔をのぞかせていた。縮こまる少年に、その様子を見ていた、もう一人の人物が声をかける。先程少年にぶつかられた男は言った。
「坊や、パンを盗んだのかい?」
少年は睨み付ける。
「あらら、おじさん。このパンいくら?」
男に値段を聞かれ、不思議に思いながらも、パン屋の親父は少年の持っていたパンの値段を答えた。
それを聞いて、男はポケットから自分のお金を取り出すと、パン屋の親父に手渡す。親父は不満そうな顔をしつつも、それを受け取ると、少年を掴んでいた手を渋々放した。親父は代金をしまうともう関係ないというように、すぐに立ち去っていった。
立ち上がった少年は、つかまれていた腕をさすっている。
男はパン屋の親父を見送ってから一息つくと、少年と目線を合わせるようにしゃがんで話を切り出した。
「ということで坊や、それは俺のパンになった。渡してもらおうか。欲しかったら今度からはちゃんと……」
男は少年に言い聞かせるように注意をした。しかし、少年は全てを聞く前に、また走り去っていった。
「はあ、ダメだ。逃げられた。まあ顔は覚えてるから、いいか」
男は少し落ち込みながらも、立ち上がると再び売り場に戻った。男はこのランクリットの路上で物を売っている職人だった。
◇◇◇
男のいるこのランクリット、もといクロスセピアは五百年も前からその町並みをほとんど変えずに存在しており、景観が損なわれるような高い建物も、他の国の主な移動手段である自動四輪車も町中には見当たらない。その代わりに、町中には運河が縦断しており、住民の移動手段は専ら舟によって賄われているのである。
そんなこの国の産業は主に観光によって成り立っており、観光客をターゲットとした店も多く存在する。
例に漏れず、男もそれで生計を立てている身であった。
そんな男は生まれも育ちもこの町であり、本当にこの町が大好きだった。彼だけではない。この町に住んでいる人ならみんなきっとそう答えるだろう、と男は自信を持っていた。それほどこのランクリットという町は素晴らしいのだ。
ところが最近は少し不安要素もある。
この国特有の自然災害シルクハッシュのことだ。
空の上に浮かんでいるクロスセピアは時々国の一部が雲で覆われてしまう現象が起きる。いわゆる濃霧と言うものだ。シルクハッシュが発生している間、その地域は全ての活動が中断される。最終的に視界がほぼゼロになり移動が困難であるため当然のことだった。それでもこの国の人は昔からこの災害と付き合ってきた。
けれども、逆に言えば、それはそんなに頻繁に起こらないからできたことであった。昔は一年に一回起こるか起こらないかの頻度だったのだ。
ところがこの災害も、段々とその周期を縮めていき、最近は小規模なものを含めると二、三ヶ月に一回という頻度で起こっていた。そのせいもあってか、クロスセピアの人口は次第に減っていき、今では全盛期は十五万以上あった人口も、現在ではその三分の一、五万にまで落ち込んでいた。
ここまで来ると国としても何もしないわけにはいかなかった。国は最近になって王立学術院に専門の機関を設立し、そこに優秀な頭脳を集めて対策に乗り出した。その成果もあり、今ではほぼ百パーセントの確率でシルクハッシュ発生時間と場所の予報を的中させており、国民としても、今後の研究にも更に期待が持てた。
◇◇◇
そんな男だったが、観光客を相手に生計を立てていると言え、決して儲かっているわけではなかった。だからこそ、男はしばらくして、大事なことに気づき更に落胆する。そう、先程パン屋の親父に渡したお金が、彼にとってどれほど大きな意味を持っていたか、に彼はようやく気付いたのである。今日の夕飯代を使いきった、そんな事実だった。
「しまった……」
男はうなだれる。
彼の目の前には、それがお金に変わるはずだった、売れ残った商品が整然と並べられている。彼が売っていたのは、アクセサリーなどの小物類。もちろんそれだけでは空腹は満たされない。その時だった。
「あの……すみません」
お客さんと思われる声が聞こえた。
「はい、いらっしゃいませ」
男は力なく声のする方を見上げる。
そこにいたのは、インテリという言葉が似合いそうな少女だった。男が見ただけでそう思った理由は、その子が制服を着ていたからに他ならない。
ラフォード学院の制服。町でもトップクラスの成績の子が通う学校だった。もちろん学院を卒業した人の多くが王立学術院に行く、というエリートコースを歩むには必須条件と言っていい学校だった。
そんなお嬢さんが、心配そうな顔で男を覗き込んでいた。
「私、さっきの騒動を見てたんですけど、大丈夫かなって思って。パン屋の人にお金渡してたけど、もしかして困ってたりします?」
「ぎくっ!」
痛いところを付かれたと思った。その子は続けた。
「あは。私、その道が通学路であなたのこと、毎日見てたんですよ。年も近そうだったから、何だか親近感もあって、いつか話しかけてみようかなって思ってました。こんな時になんですけど、良かったらそこにある商品も見てみてもいいですか?」
その女の子は男の前に置かれた商品に目を移す。
そこには別に女の子が欲しがりそうなキラキラしたものや、高価なものはない。そこにあるのは似通ったデザインで、せいぜい色が違う程度の首飾りや、何を模しているかはわかるが、センスが感じられない置物だけだった。
「これ全部、あなたが作ったんですか?」
「ああ、そうだよ」
男は空腹のせいもあって、短い返事をする。
「綺麗。デザインはちょっとあれだけど、作品自体は丁寧に細かいところまで作りこまれていて、全体の形としても崩れたところがない」
予想外の褒め言葉に、男はもう一度その子の顔を見る。
「本当にそう思ってる?」
「嘘なんかつきません。逆に作り方を知りたいくらい。えへへ」
彼女は屈託のない笑顔で答えた。
「作り方? じゃあ、見せてあげようか?」
男は彼女の言葉に嬉しくなったのか、そう言うと、後ろから箱を準備して中から「あるもの」を取り出した。
それは、雲のかたまりだった。
この町でとれる原材料のひとつであり、質が良ければそれ自体が高値で取引される代物でもある。
男はそれを丸めて両手で包むと、ぐいっと力を込める。一瞬だった。そこから光が漏れ、手の甲のところに大きな魔方陣のようなものが現れたかと思うと、その時にはすでに、雲のかたまりは青色のアクセサリーに変わっていた。
「すごい!これって『紋章術』ですよね」
彼女は驚嘆の声を上げた。
『紋章術』、それは王立学術院などの研究機関で開発された新技術のことである。簡単に言うと、製作過程を簡略化して製品を作る技術。このように加工品を作ったりするのに役に立っている。質は少し落ちるのが難点だが、大量生産を可能にしているのだ。
紋章術は日々新しいものが開発され、その度に大幅に手間を省くことができるが、習得が難しかったり、習得に時間やお金がかかったりするものもあるため、一概に習得するのがよいとは言えないのが実情である。
「びっくりです。私も学校でこの授業があるんですけど、難しくって」
できたアクセサリーを手に取りながら、彼女は言う。
紋章術は技術であるため、理屈も大事ではあるが、最終的には練習量や本人のもっているセンスによって出来は左右されてしまう。彼女はそのことを十分に理解した上で、それでもなお、男の紋章術の技術の高さに驚きを隠せないでいた。
「ここまで出来が良いのは初めて見ました。早くてかつ正確。もしかしてこの町で一番うまいんじゃないんですか?」
彼女は男の方を向く。男は彼女の言葉を嬉しいとは思ったが、その言葉を素直には信じられなかった。
「もし、本当に俺がこの町で一番の紋章術師だったら、もっと商品が売れても良いと思うけど」
男はそんなはずはない、と溜息交じりにこたえた。
「そんなこと言わないで下さいよ」
慰めるようにそういうと、彼女は考え込む表情になった。
「うーん、そうですね。こういうのは技術もですけど、デザインも大事だと思うんです」
その言葉で、暗にデザインの悪さを指摘され、男はへこむ。
「大丈夫です!作る技術は一級品なんですから、良質な元ネタがあれば、良いんですよ。私で良かったらアドバイスしましょうか。今の若者の流行とかいろいろ教えられると思いますよ」
彼女は嬉しそうだった。けれども、それ以上に喜んだ人がいた。
「本当に!ありがとう、お姉さん!すっごく助かる。俺、普通の人たちの感覚とか全然わかんなくて」
男は立ち上がると、思わず彼女の手を握った。
「あは。お姉さんって、あなたいくつ?」
「え、一五だけど……」
二人の間に気まずい空気が流れる。男の方は不思議そうな顔をしていたが、女の子の方は明らかに驚いていた。
「え、私より年下?一人で店を出してるから、てっきり年上だと思ってた。でも、確かによく見れば童顔かも」
「わ、悪かったな」
男は困ったように顔を背ける。
「ごめんね、勝手に勘違いしちゃってて。私はカノン。カノン・ノベルティ。ラフォード学院の一年生。よろしくね」
そう自己紹介をして、彼女は改めて手を差し出した。
「俺の名前はノア。こちらこそ」
こうして二人の間に握手が交わされ、『契約』が成立したのだった。