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第36回

 跳ねるように痙攣した。水中を必死に浮上していて、遂に水面を突き破った人のようだった。意識が消失点の彼方から跳躍し、内から弾け裂けたように、荒々しくまぶたを開いたのだった。

 体は芯が燃え、それでいて噴き出す冷たい汗に、表面からは凍り付いていくようだった。訳も分からずにただひたすら酸素を貪っている。まぶたは開き、視覚は長い眠りの床から起き上がろうとし、けれどどっと雪崩れ込む光の重みに、再びくずおれた。

 要するに、目覚めてからの暫くは人の生理機能があるだけだった。だがその声が、ここに彼を呼び戻したのだった。

『ファード!』

 無性に懐かしい声だった。その声が自分の名前を強く呼んでいる。風乗りの霊感が再び血流に乗って巡り始めた、細胞の隅々まで速やかに行き渡る。風乗りの思考が、感覚が、有るべき所に一気に収束し、働き始めた。

 水平と静止。ファードの平衡感覚はそう判断する。だが落ち着きを取り戻した視覚は、彼に明らかな落下も告げている。鞍は何かに激しく共鳴するように、強く細かな振動を伝えていた。この微妙な釣り合いが条件になる希な落下状態と、偶然呼び合い最大化したような振動は何か。ファードは理由を探ろうとした。

 フータの様子を見ようとして偶然目の端に引っかけたものに、たちまち心を吸い寄せられた。しっかり見据えてみてもなお信じ難い。ファードとフータは、ずっと最後の風乗りではないかと言われ続けてきた。彼らは空で孤独なはずだった。それが少し離れた空を、距離と安定を保つためなのか、何処か衛星が巡るのに似て見知らぬ風乗りが飛行している。彼らは極限の所で、この空を埋め尽くす乱流を捌いているようだった。そして時折こちらを振り返り、危うく体勢を立て直す、幾度となく繰り返す。ゴーグルと引き上げたネックガードが表情を隠し、ただ振り返るばかりで他に身振りはなく、相手の意図は判然としない。声を嗄らし、何かを呼びかけているようにも見えた。だがそうだとしても、この狂奔する風に引き千切られぬ言葉など、人が持つはずもなかった。

『ファード! 聞いてるの? 聞こえてるなら返事してっ!』

 彼女の声ならば、先程からはっきりと聞こえていたのだ。やっとマイクとイヤフォンのことを思い出す。

「…弥祐か?」

 分かりきったことを聞いている。自分は鏡に悪戯されてるんじゃないのか、そんな通らない考えに、ファードは抗い難く捕らえられてしまっている。


 弥祐は鋭く息を飲んだ。ファードがすぐ耳許で囁いたようだったのだ。イヤフォンは今でも石の巨輪の大地を蹴立てる轟きを噴き出し続け、疎ましく右手で覆い塞がれてしまっている。無線を通じ、聞こえたのでは有り得なかった。

 浮かびかかった馬鹿げた考えは、頭を強く振って即刻追い払う。彼の相棒は取り敢えず無事と言って良かった、それは彼女の右手が知っていた。ならばファードだって、きっとなんでもなかったのに違いなかった。

 目を一杯に見開いて振り返り、飛び出しそうになった心臓に身を竦ませたのも束の間だ。彼女は再び山を、空を見上げた。異形の大雲は、既に雲頂部分から崩れ始めているらしかった。それはあたかも自然の摂理に反した自身の成長を償い、速やかに自壊しているようだったが、それでも“非ず”の立ち姿であるようなその様に、変化は先刻から少しも無かった。あの二人はこの世界から一度消えて。弥祐にはこの言い方が、とても比喩だとは思えなかった。一度消えて、また元通り戻ってきたんだ。耳許で確かに聞いたファードの返事は、イヤフォンがこんな有様では彼の応答をどう受信したものか、心配する彼女をファードが気遣って、彼が風に囁かせたものなのかも知れなかった。

 弥祐は表情を引き締めた。そして応じた。

「そう、弥祐!」

 相手はこの世界に再び生まれ落ちてきたばかりなのだ。そう理解した。落ち着いて、分かり易く。でも急いで。

「ファード。今から言うことを、良く聞いて」


『フータがさっきから助けを呼んでるみたいなの。お願い、見てあげて』

 ただの眠りでは有り得ない、未だに不安の拭えない不可解な状態から急に目覚め、やはりまだ完全に頭が働いていなかったとファードは悟る。弥祐に教えられ、ようやくこの形ある全てを塵に返すような轟きの正体を知ったのだった。

 フータは叫んでいた。自身を滑空させ続けるために通常飛膜の下に巻かせる風の、それに比したら無限大とも言える規模の風を、局所的な台風のように巻いていた。彼は常軌を逸した怒りに囚われ、こんな風に叫んでいるのか。否、彼からは何の感情も感じられない。フータは目覚め損なったのだ。双子は風になったあの時、明瞭に隔てられた両界の普段は跨ぎ越せない境を跨いで立ち、薄明として在ったのだった。その繊細微妙な在り方から、ファードの方は今し方、本来両足をつけているべき世界へと転倒して、故に元通り目覚められた。然るにフータは未だ境の上で揺らいで居る。生態系の成員中でもとりわけ風に親しい風の妖精であるから、もう殆どフータなのに、精霊と細糸のような緒でまだ繋がっているらしかった。フータという個体の、一番奥深い核心はまだ風のままだった。言わば血の通った、小さな“風の座”であった。

 見知らぬ風乗りが、突き放されまい、落とされまい、全力でその場に在ろうとして、痙攣的に跳ね回るような飛び方をしている。その狂乱の風の只中に在って、しかし自身は無動で落ち続けていることに、ファードは暫し感銘を受けた。“風の座”とは、この世界に可能な風の吹き方が全て保存された、言わば虚空に漂う記憶なのかも知れなかった。記憶は風に吹かれることが無い。風たちを擦り抜けさせながら、気付かれることもなく、ただ吹かすだけだった。

 ファードはアームレストから両手を放し、体を更に前へ屈めさせた。丁度フータの両耳の下辺りで、彼の頭を挟むように手を添えた。今の相棒を正気に戻す方法など、ファードとて知るはずはない。ただ、もし相棒が風の記憶を夢に見ているのなら、起こしてやればいいと単純に思っただけだった。毎朝目覚め、先ず身支度を整え、次にフータの様子を見に行く。嗅ぎ慣れたにおい、大きな窓から差し込む明るい光に、舞い踊る銀色の粒子。ファードは相棒の部屋に立っている。こいつ、今日は朝寝坊だな。彼は起床の言葉をかけた。いつもの何でもない文句に、伝えなくてはいけない言葉も添えて。

「さぁ、フータ。もう起きる時間だ」

 ここは風の始まる場所だから、囁くだけでも充分だった。

「俺達は戻ってきた。山を越えたんだ。もう『馬鹿馬鹿しいこと』を、やる必要はないんだ」


 もうとっくに声が嗄れてしまっているのにも気付かずに、一体何度目か、男は山越えの風乗りの方へ振り返った。繰り返してきたことを叫びかけ、目敏く見付けたその変化に口を閉じる。彼を悩ますあの化け物の目が、落ちた光を二度と戻さない、底知れぬ空ろだったそれが、その表面に光を止め始めたようだった。上半分に光差す大空、下半分に眼下の複雑な地形が、おもちゃのように小さく、丸く歪んで浮かび上がってくる。その像が急速にはっきりしていけば、同じ速やかさで風の爆発も萎んでいった。山越えの飛行妖精が、二、三度瞬きした。何処か自問自答しているような仕草に見えた。そして男は、突然静寂に包まれていたことを知り、息を飲んだ。

 風が無くなっていた。山越えの飛行妖精の爆発だけでなく、元から吹き狂っていた山頂の風さえも、嘘のように消えていた。編集したフィルムを見るような鮮やかさで、世界が入れ替わってしまっていたのだった。だが狼狽はほんの一瞬、したたかな男は、下界へ向け直ぐさま相棒を駆り立てた。もうこんな場所に留まっている理由など無いのである。風の牢獄から抜け出すのに、またと無い機会だった。


 煮え立つ鞍が急に熱を失い始めたかと思うと、さざ波の余韻一つ残さず、ふっと凪いでしまった。ファードははっとして顔を上げると同時に、両手を放した。それまで進む時間すら擦り抜けて静止するようだったフータが、もぞりと頭を動かしたのだ。こちらに少し不自然な様子で、鞍を負っているからそれは仕方ないのだが、首を曲げた相棒と目が合う。いつものフータだった。目を頻りにしばたたかせ、少しぼんやりしたようなのはファードにも覚えのあることで、心配は無さそうだった。とにかく思ったままの、確証も何も無いにわか処置だったが、功を奏したようでファードは安堵した。フータもこの世界へ、自分の空のあるこの世界へ、無事に戻ってこれたのだ。

 視界の端を矢のように掠めた影があった。難しい状況の中でもこちらと並んで飛ぼうとしていた、見知らぬ風乗りだった。易しい空を行くようにぐんぐん高度を下げていく。それでファードも、この高みが今は全くの無風であるという、驚くべき事実を知ったのだった。しかしこの奇跡も、長くは続かないと察せられる。風は一時的に呆けているだけなのだ。この空は、フータという特異な“風の座”の突然の出現と、同様の消失を経験した。ほんの束の間、局所的ではあってもこの場の風は特異な記憶に思い出され、そして突然忘れられたのだ。風は今、呆然と立ち尽くしている。けれど再びの狂奔に、もぞもぞと体を揺すり始めてもいる。

「フータ」ファードにはその様子が見える。見上げ睨み付けながら、アームレストに手を戻した。「今の内に下りよう。行けるか?」

 フータはぶるるっと頭を振った。返事の代わりに、飛膜を広げ落下傘のようだった姿勢を前傾させ、何の不安も感じさせない加速で下界を目指し始めた。


 程なくして、重く低く、大波が岩に砕け散った。風が再び疾走を始め、偶然二つの大きなうねりとなり、破滅的に波頭を打ち付け合い、迸って、静寂の空に再び無数の奇風の種をばらまいたのだった。ファードは肩越しに振り返った。たった今砕け散って生まれた風たちの、特に目敏い連中が、岩壁を軋ませ雪崩れ追ってくる。しかしフータの方が遙かに速い。もう一度なぶってやろうと嵩にかかって寄せ来る風を、軽やかに置き去りにした。難無く高度を下げ、風の無法な王国を後にした。

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