表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/38

第35回

 弟子を追って見上げた先、世界は相変わらず激しく動揺し続けていたけれども、男は辛うじてそれを認めた。巨大な雲のドームの下で、はぐれ雲たちが心ゆくまで疾走の遊技に興じている。遮られ乏しい光、渦巻く雲片の紗、それでも黒雲を背景にその異質は目についた。見間違えっこない、あれは確かにスカーラル・シーの白く輝く毛並みだ。鳥肌が立つのを感じる。自制の手綱に苛立ちながら、男も弟子の後を追った。

 弟子とは対照的に、男はきりきりするような思いで上昇する風の梯子だけを瞬間的慎重さで選び選び、目標へ近付いた。弟子が打ち抜いていった後をすぐに追えば苦労も少なかっただろうが、とても頭が追いつかなかった。もどかしく距離が詰まる、飛膜を大きく広げ下降してくるスカーラル・シーの姿が、次第に細部まで見て取れるようになってくる。希な長さで現れた上昇の梯子にきわどく縋って、男は一気に未知の飛行妖精の少し上まで出た。野生じゃない、鞍を負っている。その中央に力無く伏せてしまっている風乗りの姿、後端には荷を保護するとおぼしき、堅固なケースが固定されていた。状況を考え合わせ、あれが大切な薬品を収めたケースだと判断する。自身と弟子の有様を思えば、実に信じ難いことだった。山越えは果たされたのだ。

 しかし、男の目に感嘆の色は無かった。この風乗りは、何故山頂を遙かに超えた、あんな高い空から落ちてきたのか。一瞬よぎった疑問も、今の戦慄にすぐさま掻き消されてしまう。山越えの風乗りは、意識を失っているらしかった。鞍上に安らかに身を横たえていた。空には今だって大風が雪崩れ噴火し、男も弟子も、抗いようもなく攪拌され続けていた。それなのに山越えの風乗りは、その力の抜けた手足さえそよとも揺らすことが無い。有り得ない場所に、完全な安らかさが見出されるのだった。山越えの風乗りは、その異常の上にたゆたっている。

 異様な安定はその風乗りを負った飛行妖精にも及んでいる。と言うより、この飛行妖精こそが異常の土台となっているように思える。飛行妖精も目をしっかりと閉じ、口許はきつく引き結ばれているようで、苦しげな様子に安否が気遣われた。そして静かの海を、鏡のように凪いだ空気の薄層が一枚一枚、無限に積み重なる無動の一筋を、鏡を音も無く優しく割りながら、撫でるように降下していくのだった。男と弟子を苛み続ける、大風の気の遠くなるようなうねりを、この飛行妖精は完全に擦り抜けて滑空している。その体は硬直し、あらゆる回転軸に対し不動、毛足の長く柔らかな体毛の一本すらそよがすことが無い。山越えの風乗りと相棒は、点として落下している。もしくは固まった時間を身に纏い落下している。ただ重力と飛膜が受ける抵抗の諍うまま、言い表し難い様子で落ちている。

 男の背筋を冷たい汗が伝った。この連中は本当に風乗りか? この世のものならぬ悪霊、あるいは時間の途轍もなく古い記憶から今に滲み出てきた、太古の始妖精ではないのか。

「しっかりしてください!」

 甲高い弟子の声が耳朶を打ち、男は我に返った。弟子は未だに身じろぎ一つしない山越えの風乗りに、必死になって声をかけ続けていたらしい。相手の力無い様子に動転したのか、その沈黙に安否は気遣っても、不気味とは捉えていないようだった。何とかしてもっと相手の傍に寄ろうとしては失敗し、表情は見えないが、きっと悔し涙を滲ませながら繰り返し挑んでいるのが男には分かった。しかし度重なる失敗は、この酷い飛行環境のせいばかりではなかった。弟子の相棒の方はこの異様を察知している。危険を感じ、近寄ろうとしたがらないのだった。

「言うことを聞けぇ!!」

 風と相棒、双方をねじ伏せて、弟子は遂に静寂の飛行妖精の左後肢の先を、右手の指先で摑んだ。グローブを嵌めた指先が毛並みに滑る、弟子はこんな時でも爪を立てないように再度力を込め、各指の真ん中の関節だけをきつく折り曲げ、その真っ白になった関節が、ごついオーバーグローブを通しても男には見えるようだった。弟子はしっかりと後肢を摑み直し、右腕に力を込めた。そうやって自分と相手を引き寄せ、こちらの飛膜を相手のそれの下へ差し入れて、自分の身を介抱が必要な者の隣へ運ぼうとしているのだった。その時である、静寂の飛行妖精に固着していた時間が、一部ではあるが不意に剥がれ、風に散ったようだった。目許のみが生を思い出している。突然、その目が見開かれたのだった。

「危ねぇ! やめろっ!!」

 男は咄嗟に叫んでいた。我が身を省みない弟子を窘めたのではなかった。男は見開かれた飛行妖精の目に心臓を鷲摑みにされている。それは何も映してはいなかった、限界まで開かれ、晒されたのは、不気味な空ろな穴だった。これから起こると予感されたことに、男の肌は焼け付くようだった。

 静寂が恐るべき咆哮を打ち放った。鼓膜を打つ様が余りにも激しすぎ、結局は無に帰するその始まりの音。二人はまだ、激しい目覚めと同時に彼の飛行妖精が爆発させ、吹き飛ばした巨岩の如き風塊の表面に、ちょっと触れただけに過ぎない。即座に飲み込まれる。その桁外れの衝撃に、他愛も無く弾き飛ばされた。

 少しでも身構えられた、男の方はまだ良かった。弟子は全く不意に、しかも至近で爆発を受けたのだった。男と彼の相棒は、辛くも衝撃を受け流した。失速と紙一重ではあったが、故意の錐揉み状態でこの危機をやり過ごした。必死の上目遣いで何とか弟子の行方を追おうとする。弟子は飛行を取り戻せずに飛ばされる、いくらでも纏い付こうとする周辺の風全てを引き千切り、ただ一直線に山頂へ落ちていく。男は思わず顔を背けそうになった。だが、山脈の奥から吹きだし続ける風が、この時期に風乗りを閉め出し続けてきたその風が、今は弟子とその相棒を救った。山頂の岩肌の直上で、重たい風の突き出しがずぅんと来た。弟子たちはそれに横殴りにされた。

 男は今度こそ全く色を失った。2度も無防備のまま重たい風に打たれたために、弟子たちは気を失っていた。相棒は様々な外力に転がされるまま、複雑に回転して落ちていく。弟子は全身を弛緩させ、その小さな体が鞍から放り出されそうになっては安全ベルトに引き戻される、時折胸や額を、強く鞍に打ち付けているようだった。男は叫ぼうとし、声が喉に張り付いてしまっているのを知る。頼む! 彼は歯ぎしりした。落ちる前にどうか気が付いてくれ。

 恐るべき飛行妖精が爆発させ続けている風の一応の圏外に、男はやっと逃げ延びた。鬼の形相で下方に目を走らせる。ずっと低い斜面、所々灰色の地が剥き出しになった岩棚の上辺りで、白い輝点が丁度滑空をし始めたように見えた。なんてことだ! あいつらあんな所まで岩肌に出会わずに落ちて、最後の最後で息を吹き返しやがった。弟子とその相棒の強運に驚嘆し、束の間頭の中が白くなった。だが突風に煽られて反転、飛行を再開した弟子たちの姿もくるっと掻き消えた。彼の方はまだ事件に巻き込まれている。爆発し続ける風が、あの飛行妖精の緩やかな落下と共に再び迫っている。背を向けた挙げ句に捕まれば、それこそ為す術がなかった。だから男は、敢えて限界と思える所まで爆心に近付いた。そして球状に広がる爆風の、その点を含む表面上をきわどく滑り、爆心の周囲を巡るように飛ぼうと試みた。

「おいっ!」

 男は風の爆流に逆らう無理を承知で、それでも出せる限りの大声で、山越えの風乗りに向かって叫ぶのである。

「目を覚ませ! 相棒を落ち着かせろ!」


 人々の目から山頂付近を隠し沸き立ち続けていた雲塊の一部が、突然爆発四散した。高原のパーキングエリアを埋める多くの人々が、一斉にどよめく。

 無数の雲片は最初重厚な滑らかさで球状に大輪の花を開きかけたが、すぐにそれぞれが一つとして同じでない酩酊の飛跡を描いて疾走し、やがて力を散じたみたいに薄く広がって、最後は消えていった。まさに奇風だった。人々は初めてあの高い空を身近に感じ、呆然と見守った。

 一時休んでいたカメラというカメラが、咄嗟に空へ向けられた。今は陽光に照らされるようになった高い斜面を背景に、雲片とは異なる三つの白い輝きを、彼らはすぐに見付けるだろう。


「…っ!!」

 アウトドア・テーブルが大きく揺れ、見放されたように置いてあった通信機本体やマイクの束が、天板をごとっと踏み鳴らし、小さく回る。

 弥祐は体の支えを求めて、咄嗟に左手をテーブルについたのだった。右手は耳許を押さえ、顔を強く顰めている。今、何かの爆発が重く頭蓋から脊柱の末端まで駆け抜け、殴られたように膝を折ったのだった。爆発は右耳に装着したままだったイヤフォンから、全く不意の鉄砲水のように突出してきた。そして一向に威力を衰えさせる気配が無い。彼女は衝撃の滝に頭から打たれていた。イヤフォンを、これまで雷障害のどんな恫喝にも取り合わず、頑なにつけたままだったそれを、遂に外してしまった。訳が分からずにじっと見詰める。イヤフォンは彼女の掌で、燃えるように震え続けていた。

「おい、今のっ!」

 横合いからの誰かの大声で、膝を折る様なことがあったばかりだからか、弥祐は過敏に反応した。びくっとして振り返る。

「一瞬、何か映らなかったか?」

 少し離れた所に人だかりが出来ている。山向こうからの映像を入れているモニターの前に、集まっている人々だった。撮影隊ばかりが陣取っているこの場所には、モニターと言っても確認用の小さなものしかない。このような人だかりはあちこちに出来ていた。今、弥祐の傍には誰もいない。カラや、二人をマスコミからさりげなくブロックしてくれていたスタッフたちは、様々な対応のために散ってしまっていた。彼女だけがただ一人、ずっと同じ場所から、同じ空を見上げ続けていたのだった。

「何だった?」

「分からん。山頂を仰いだ画みたいだったが…」

「ああ、くそっ。もうちょっとなんだけどな」

 遣り取りから察するに、あの大雲が、天頂までそそり立つ電波塔でもあったあれが勢いを弱め始め、山向こうからの中継を再び受信できるようになっているらしかった。そう理解して弥祐ははっとする。テレビは復旧しつつある、では無線は。手の中にある、このマイクとイヤフォンはどうなのか。

「ファード…?」

 イヤフォンは相変わらず爆発を吐き出し続け、滾るようにケースを激しく振動させている。弥祐は意を決してスピーカーの開口部を掌で包み、ぎゅっと握りしめた。途端にそこから肩の辺りまで、むず痒さが骨を走る。そうしてマイクの自由管を真っ直ぐに伸ばし、恐る恐る、その名を呼んでみたのだった。

「…」

 でも、仮に彼女の声が届いたとして、彼はどうやってこの爆発のノイズに打ち勝ち、返事を伝えられるだろう。弥祐は俯いた。爆発のノイズ? そしてふと、今自分が思ったことに引っ掛かった。

 ……そうだ。

 無意識的には、既に理解していたのだった。彼女の勘の良さがそれを意識化した。この爆音は今までの、雷障害由来のノイズなんかじゃない。地面を見詰め、もっと詳しく思い直してみた。きっとそう、この轟音は雷雲の邪魔立てじゃない、無線機は正しく相手方の、今も空の何処かにいる二人の経験を私に伝えている。

 胸に強い痛みを感じた。拳を打ち付けられたみたいだった。じゃあ、この止まない爆発は一体なんなの? なんでこんなに胸が痛いのに、懐かしさまで一緒に感じるの? 痛切な焦燥感は心が、懐かしさはイヤフォンを握りしめる、彼女の右手が感じている。誰が自分をくすぐったく揺すぶるのか、彼女の骨は知っていた。どれほど恐ろしい叫び声になったって凍りっこないよ、彼女の血は微笑んだ。だってしょっちゅうその体を撫でてあげた家族なんだもん、間違えっこないよ。ねぇ…

「ファードっ!!」

 弾かれたように、もう迷いも何も無く、弥祐はマイクに向かって叫んでいた。

「ファード! お願い、返事して! ファードっ!!」

 誰もが気遣ってそっとしておこうと思っていた少女が、突然狂ったように叫びだしたのである。近くにいて気付いた人々は驚き、ぞっとした。弥祐には人の目が感じられない、感じられたとしても構ってはいられない。彼が助けを求めている。そして助けられるのは、名を呼ぶその人しかいないのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ