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第34回

 生身のものも、機械のそれも、たくさんの目が不安げに空を見上げていた。ただし、こちらは弥祐やカラがいるのとは反対側、ファードとフータが山越えを果たして辿り着こうとした街、リアテリアのある側の山腹である。

 人々は、企てが成功裏に運べばファードらが丁度その辺りに姿を現すであろう山の鞍部を、今は雲に隠されて見えないその“風乗りの門”を胸に思い描きながら、各自の見当で雲の底を睨んでいる。“風乗りの門”をずっと下った門前には、標高2000m付近まで車で上れる一山があって、その高原のパーキングエリアには、一号登山道のあの場所よりもずっと多くの人々が集まっているようだった。

 その多くは、山越えが成った瞬間を絶好の場所で取材しようと待ち構える、様々なメディアの関係者たちだったが、一般人とおぼしき人々の姿も少なからず見受けられた。言ってしまえば野次馬なのだろうが、今の場合彼らに、当事者を苛つかせるような態度は少しも感じられない。むしろ、全員が打ちひしがれた様子で空を仰いでいる。肩を抱かれ慰められながら泣きじゃくる者もあるし、この大山脈の何処かに住まうと言い伝えられる、女神エレナに一心に祈る者もいた。彼らこそ、感染力と死亡率、共に高い病の音無き爆発を足下の揺れに感じ、目下対処に必要な薬品の欠乏に見舞われている、その当事者たちなのだ。自分の明日を不安に思い、大切な誰かの無事を願い、そしてきっとまた元気になると信じて已まず、当事者の間でも事情は様々であろうが、躊躇いがちにも不安に駆られやって来て、やはり身の置き所の無いような思いをしているのは誰も同じだった。そしてそんな彼らが目にしたのは、彼らはテレビ局が急遽用意したモニターの映像によってだが、あの悪夢のような大雲の腹に飲み下されていく、風乗りと薬品の映像だった。落胆、生々しい事故の瞬間に立ち会ってしまった事、無情な両手に握り潰されてしまいそうだった。

「まだ復旧せんのか」

 あるテレビ局の撮影隊チーフが、苛立った声でついさっき聞いた事を繰り返した。彼らは山の反対側での出来事を、ノイズに途切れがちな映像で辛うじて確認した。息を飲んだ直後、山向こうからの映像が途絶えてしまった。あの雷雲は彼らから風乗りと薬品だけでなく、情報も奪おうとしている。誰にとっても、分からないというのは恐ろしい事だった。

「まだ無理ですね」機器担当のエンジニアが、ノイズばかりの画面を恨みの籠もった目で睨んでいる。「凄い影響ですよ。電波だけじゃなく、機器そのものもおかしくなりそうだ」

「しかしあの雲、案外早く崩れ始めてるぞ」その中年の男性は、肩に担いだカメラで抜け目なく空を観察し続けていたのだった。「ほら、見ろよ。てっぺんの方がどんどん広がってる」

「ゴロゴロいってんのも、少しは静かになってきましたかね」機器担当者が耳を澄ました。

「それだけ、まだ上の方じゃ気流の動きが激しいってことだ」上手くいかねぇな、まったく。「山向こうの連中も、今はこっちの様子を知りたいだろう。早く現状復帰するのは歓迎だが…」あれほどすばしこかった風乗りを摑まえ、今も隠したままなのは、やはりその変化の激しさなのだ。

「あの連中も平気なんですかね?」商売道具からちらりと目を離して、カメラマンが心配そうに聞いた。

「カメラ、ずっと構えてなくても平気だぞ。どうせここからの画は局に送れてないんだからな」そう言った後、チーフは更に苛立った様子で空を見上げた。頭上すぐには、はぐれた雲片が時折足早に過ぎていくだけの、穏やかな空が広がっている。そこを越して高く見据える先には、光の侵入を許さない、幾層にも不安のわだかまる空があった。

「平気でいてくれなきゃ困るんだよ…これであの連中にまで何かあったら、それこそ洒落にならん」


「おいっ、お前は戻れ! 何度も言わせるなっ!」

「いやだっ! まだ大丈夫です!」

 撮影隊のチーフが高く見上げた、厚く雲に閉ざされた空での事だ。猛り狂う風に翻弄され続け、最早天地も分からなくなりかけていた。山の斜面が、切り立つ余り雪の化粧も不味くなりがちなその岩壁が、全天から全地上へ、全地上から全天へ、彼らの世界全てを球に囲って折り重なっている。くるりと凹んで“風乗りの門”が彼らのすぐ近くに連なっている。風に負けないよう怒鳴り合うのは無駄な消耗だし、余計に苛立つが、お互いそうすることで正気を保てているらしかった。この空には彼らも知らない風があった。と言うのも、彼らは風乗りだった。二人いた。

 ゴーグルに耳覆いのある飛行帽、鼻まで隠れるよう引き上げたネックガード、彼らも身を切る冷気からの守りを第一としているから、顔立ちは全く分からない。ただ体付きと声の高低から判断して、一人は成年の男性、もう一方は男か女か、とにかく子供のようだった。

 それにしてもなんという風の吹く、なんという空なのか。風乗りに恐怖を感じさせる風、そんな風があったことに二人は衝撃を受け、持ち直せないまま押され、返され、叩き落とされ、いつ岩壁に激突するか知れたものではない飛行を続けていた。そしてわけても凄まじい、上昇の大風が吹き始める。二人はこの場からの離脱もままならない、風の牢獄に遂に捕らえられた。しかしそれはそれで、二人に却って腹を括らせたようだった。元々彼らは、ここで持っていたのだから。

「木偶が、大丈夫に見えるかよ!」男は一喝した。尋常ならざるこの空で、相手はずっと全身に全力を命じ続けていたのだ。誰の目にも明らかに、すっかり体が強張ってしまっている。「そんな硬い乗り方でこの風が捌けるか! こんなんじゃ向こうだって山越えなんざ出来っこねぇ。待ってたってしょうがないんだよ!」

「なら、なんで親父さんは残るの?」声は幼くとも、調子には一歩も引かない気の強さが表れている。「これだけ風が巻いてる、隙を突いて飛び込んで、こっちに抜けてこないとも限らない。そう思ってるんでしょ!」

 図星だった。親父さんと呼ばれた男は、苦々しく舌打ちする。

 この二人の風乗りは、ファードとフータのように重い仕事を請け負ったとか、そのような理由が有ってこの場にいるのではなかった。誰かに何を頼まれた訳でもなく、ただ単に自らの意志でこんな空にいる。何故か。

 彼らも昨夜のHML社長の記者会見を、旧式の小型テレビで見ていたのだった。彼らはそこで、あの不吉な病に一刻も早く対応すべく、今の時期の山越えが敢えて企てられていることを知った。その計画は風乗りの虚を衝くようで二人を驚かせたが、より意外だったのは、山を挟んだ大陸の反対側に、彼らと同じ風乗りがまだ存在していたという事実だった。この二人の風乗りが生計を立てているのは、本来の居場所である空ではなかった。形だけでも風乗りとして、辛うじて生き残ってきたのだった。山向こうの事情には詳しくないが、彼の地で風乗りがどのように扱われているか、自身と比べ推し量ってみてもまず差し支えはないだろう。山越えを試みようとしている東の風乗りも、きっと孤独なのだと確信できた。そんな連中が遠くの地で起こった災いのために、風乗り本来の役割を、知らぬはずのない危険を承知で果たそうというのである。自分も山へ向かうべきだと、命じられたように男は感じた。行ってどうする、何が出来る、反論する声も同時に聞き取ってはいたが、それでもじっとしてはいられなかった。

「俺も山へ行ってくる」自分が風乗りのイロハを教えた、弟子とも言える相手に男は告げた。「今の山を単独飛行なんざ正気の沙汰じゃない。上手く合流できればよし、出来なくても、そんな風乗りに出迎えの一つも無いとあっちゃやっぱ悲しいからな。お前は留守番して…」

「自分も行きます!」

 椅子を弾き飛ばすように立ち上がって弟子は言うのである。男はしまったと思った。全く誰に似たものか、この弟子は昔気質というか、とかく心意気にほだされやすい所があるのだった。今の時期のフェンサリサは、遥かな昔から風乗りの通過を拒み続けている。彼自身、何故そうなのかの実体験はまだ無かった。易しい時期にしていた山越えの経験は役立ちそうになく、山頂では自分の身すら持て余すかも知れない。ましてや弟子は、そもそも山越え自体まだ未経験なのだった。連れて行く訳にはいかなかった。

「いや、ちょっと待て」

 と言い終わる前に、彼の頭の上でどたばた人の動き回る気配が始まる。階上は丁度弟子の自室で、風乗りの慣習に従い、仕立てるだけは仕立てさせておいた山越えの装備一式を、初めて袖を通せる期待に胸膨らませ引っ張り出しているのに違いなかった。男は慌てた。下手をすると自分の方が置き去りにされ兼ねなかった。ああ、ちくしょう。男も急いで準備するため、足を踏み鳴らして部屋を出て行った。

 彼らは日付が変わる少し前にようやく住み慣れた家から飛び立ち、今朝方早く“風乗りの門”をはっきり眺める所までやって来た。出発が遅れたのは結局不慣れな弟子が手間取ったからだし、男も面倒を見ない訳にはいかず、東の風乗りがどのルートで山を越えるつもりかなど、肝心な情報は知らないままの旅だった。とは言っても、男は迷わず一直線にここへの進路を取っている。東側から病のある地域まで最短で行く場合、HMLが絡むなら向こうの拠点はフェンサリサ東支店だろうし、それならば東の風乗りは、“風乗りの門”を通ってこちらに訪れるはずだった。

 そのまま近付いていくと、眼下の高原に中継車とおぼしき大型車両を含む、多数の車が駐車している。ほれ見ろ、俺の言った通りだろう。二人は集まっていた人々の真ん中に半ば強引に着地し、場を驚かせた。弟子の方は注目を浴びて小さくなったが、男はさっさと鞍を降り、堂々と人を掻き分けて歩いて行く。彼が目指すのは情報だ、よし、あの男なら色々知ってそうだ。そうしてあの撮影隊チーフの腕をいきなり摑み、拙速なのに上首尾で、知りたいことを聞き出したのだった。東の風乗りは、既にあちらの山頂に達している。アタックの制限は1時間。制止の声も聞かず、彼らは再び高みへと舞い上がった。

 山頂付近は、ただ風の在る世界だった。風の置く曲率多様な軸群は時間の関数で、定義される空間は崩壊と新生を飽くこと無く繰り返す。そもそも根本の時間そのものが風なのだ、絶えず渦巻き、返し、突進し、風は精妙な一刻み毎にそれを押し流し続けている。その時計で1時間程も経っただろうか、男と弟子がこの素世界で質点として振る舞い続けられているのは、殆ど奇跡のように思えた。大声を出し合ってはいるが、それも限界に近かった。

 男は弟子に向かい更に何か言おうとする。もしそれが発せられ、自身聞き取る機会があったのなら、これじゃまるでベテランの相方に声をかけてるみたいじゃないか、彼自身驚いたことだろう。だが実際には、弟子に目を遣った男は言葉を飲み込んでいた。相手の様子が尋常でない、鞍の上で恐ろしく静かで、相棒の飛行妖精にも静止を要求しているようだった。この乱流の只中でホバリングだって? 弟子の相棒と一瞬目が合った。背に負った荷物の鬼気迫る様子に、一番困惑しているのが彼だろう。弟子は身を低く伏せたまま、肩から上を精一杯ねじ曲げている。そうやって高みの一点を、ずっと凝視し続けていた。

「風乗りだぁ!!」

 弟子は出し抜けに叫ぶと、今度は相棒に急上昇をやらせようとした。一体何を、男は怒鳴りかけ、結局は唖然とする。弟子は急に弾け飛び、自分の相棒を偽りの限界に縛り付けていた鎖をも、一瞬で断ち切ったようだった。ただ風が在るだけだった世界に、真っ直ぐな風穴が開けられていく。生身の砲弾が一直線に、分厚い風の層を打ち抜いていくのだった。

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