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第30回

 カラは躊躇しているらしい。続行を願い出た後でイヤフォンに続く沈黙に、ファードは歯嚙みをした。稜線をほんの僅かでも越えたあの時、何故風の直観に従って、左上方へ抜けようとしなかったのだろう。何故人の迷いを正答と信じて、正面から押し通ろうとしたのだろう。吹き返しを探し、容赦ない大風にいつ自分の風を手放すか、一先ず心許ない飛跡で巡回を再開しながら、ファードは堂々巡りをし、苛立った。

 イヤフォンが溜息をついたようだった。不機嫌な考えに沈みかけていたファードは、そちらへ意識を移した。ががっと硬く短いノイズが走る。と思った次の瞬間には、頭の真ん中に弾丸を叩き込まれたかのような、物凄い衝撃がきた。ファードは反射的にイヤフォンをむしり取ろうとした。しかし、小さなそれは飛行帽の耳覆いの下、結局は右手を添え、堪えることしかできなかった。

 耳を聾せんばかりの酷いノイズは断続的に続いた。何度目か、それが耳の奥で爆ぜた後、今度は恐ろしく低く重たい轟きに、内蔵を直接揺さぶられた。フータが鋭く唸り、警告を発した。ファードもそれを目にした。

 行く手の峰に、でたらめな勢いで上昇気流が発生している。それが、まるでフィルムの早回しを見るような急激さで雲を太らせているのである。瞬く間に、雲は見上げること遙かな、目では追えないほどの高さまで立ち上がった。その下にフェンサリサの名だたる頂を幾つも従える、広い広い天蓋となった。それでもなお沸き上がり、広がり続ける雲の巨柱のあちこちに、頻繁に強い光が不規則に走っては消え、目に焼き付く。またイヤフォンが爆ぜた、重爆音が轟いた。この時の気象現象が観測史上例を見ず、特に発達の早さと規模の点で希有なものであったことは、後日判明することである。それほどの途方もない雷雲が、今、発生しつつあった。

 ファードは色を失った。大風が何度もぶっ叩き、捩り上げても微動だにしなかった心が、初めて軋んだようだった。それくらい目前の変化は急で、思いも寄らないものだった。危険を忘れ、思わず鞍の上で上体を起こしてしまう。途端に後へ煽られ、左手をアームレストから放してしまった。舌打ちし、伏せた姿勢に戻そうと右手だけで上体を引き始める。またしても驚くことが起こった。右手をも放してしまった。

 フータが、額から伸びる柔らかな触角状の器官を打つように飛ばし、ファードの右手を絡め取ったのだ。余りの意外さに強張って手を放してしまい、思い出したように伸ばした左手も、アームレストを掴む前にもう1本の器官に絡め取られてしまった。フータは万力のように両手首を締め上げてくる。その行為は、何か強い暗示のようであった。この状況での判断停止は危険極まりないものであるにもかかわらず、ファードは鞍の上で、墓石のように上体を突っ立てた。飛行は完全に、フータ一人の意志に委ねられることになった。

 突き上げるような突風だ、右下から襲ってくる。ファードはその危険を察知するが、体は竦んだように動かない。フータは避けようともせず、むしろ何でもないことのようにその突き上げに乗ってしまった。全身の毛が逆立ち、首だけを巡らせて見れば、襞の一つ一つを剃刀の刃のように並べた岩壁に、恐ろしい豪腕で投げつけられている。しかしファードは、穏やかに引く波に連れ戻されるような、柔らかな印象を直後に感じるのであった。気が付けば、フータはいつの間にか、元いた場所を再び飛んでいる。先程突き上げてきた風が抜けた空間を補填するため、静かに滑り落ちてきた上方の空気塊に乗って、実に巧みに危険をやり過ごしたのだ。事の意外さに目を見張っているのも束の間、ファードの体が前のめりになった。真後ろから手酷く蹴っ飛ばされそうになったのだ。今度も回避行動など、フータは積極的な動きを見せず、ただ自分のへらのような尻尾を咄嗟に軽く持ち上げて、やや下向きに、身を委ねるように蹴られてしまった。ところがすぐ下の空気の層には、少し前から逆の流れが生じていて、フータはとっくに気が付いていたのである。彼はその層に飛び込むと、すぐに飛膜を調節して斜め上向きの揚力を発生させ、今は直下の層とのせめぎ合いで勢いを失った、元いた空気層の元いた場所に、またしても難なく戻ってしまった。ああ、そうか。ファードは悟ったのだった。

 今はもう、ファードは墓石ではなくなっている。再び血は巡り始め、その律動の中に己を見出している。途方もない力の奔流の只中にあることは今だって変わりはない、けれども、ファードは確かに安らぎを感じつつあった。相棒の不可解な行動の謎はもう解けている。彼には伝えたいことがあり、それは伝わったのだ。相棒の2本の触角は手首に巻き付いているから、指先は自由になる。ファードはそっと、伸ばされてぴんと張り詰めているそれらを握りしめた。「そうだったな、相棒」穏やかな中にも、感謝を込めて語りかける。「風は御すものじゃなかった。乗るものだったな」まだ迎え撃てている、先程カラに言った自身の言葉が、なんだか滑稽に思い返された。

『どうした、ファード? ノイズが酷くて良く聞こえない』カラの声で、随分久しぶりに聞いたようだった。途切れ途切れではあったが、焦りを滲ませ確かにそう言ってきた。『なんて上昇気流だ…山越えは中止だ。すぐに戻ってこい』

「…カラさん」対して、ファードの声はとても静かだった。力強くて、穏やかに包み込むようでもある静けさだった。「我々は何故、風乗りと呼ばれるんでしょう」

『なんだって?』鉄を噛み砕くような、身の毛もよだつノイズの中で、カラの澄んだ声がもがくようだ。『もう通信も無理だ。戻れ、早く!』

『ファード? ねぇ、どうしたの?』

「さっきは、風を御そうとして失敗しました」カラの傍で思わず言ったのをマイクが拾ったのだろう、元々弱い入力レベルが更に掻き消されそうになっていたが、弥祐の声も確かに聞こえた。酷くうろたえている様子に、一瞬胸が震えそうになった。それでもファードは言い切った。自分自身に言い聞かせるように。

「乗れば良かったんです。感じたままに」


 辛うじて聞こえたその言葉へ、どういう事か聞き返そうとした。だがその前に、それ自身が破裂したかと思うような、凄まじい爆裂音がイヤフォンから噴き出した。堪らず、カラはそれを右耳からむしり取っていた。


 フータの触角が体を前に引いた。鞍を挟む両膝と上半身に一気に力を込め、風に抗い、ファードはアームレストに両手を戻した。フータの束縛がするりと解けていく。二人の乗るべき風、こんな寄る辺なき空にそんなものはあるのか。それに乗れさえすれば、間違いはないのだ。

 その風はあった。今だからあった。幾らかでもその方向へ吹く傾向が強い、そんな読みを一切許さない真に乱数的な風向の在り方の中、その風だけは太く堅牢で、1分間の持続も恒常的と言って良いこの空で、もう永遠に近い間、たった一つの方向へ吹いているようだった。その風は懐かしく、切ないようだった。何の疑問も感じずに二人して空を飛べていた頃を、胸を打つような唐突さで思い出させた。二人が乗るべき風はこれだった。吸い寄せられるように、その風に合流した。

 途端、静寂に包まれ、波一つ無い水面を行くみたいに飛行が安定した。場所は移さずに空を移ったのだった。そんな見知らぬ空で得られた安寧の只中で、ファードとフータの呼吸と鼓動が、徐々に重なり合っていく。双子は、知っていたのにこの風に乗った。これは逃げ場のない一本道だ、激しく上昇する気流の形を取った、あの滅びへと惹かれゆく…

 比するものなど無い強大な力が、双子を高く引っ張り上げたのだった。先に意識が吸い上げられた、続けて重い肉体が、僅かに遅れそれについてきた。


 一号登山道のパーキングエリアに、複数の悲鳴が響き渡る。人々は、風乗りと現場責任者の無線での遣り取りにどこか不穏な空気を感じ、息を潜めていた。すると突然、風乗りが目を疑うような滑らかさで空を進み始め、あっと思う間に、遠く離れた麓にいても頭上が不安になる、あの巨大な雲の塊に吸い上げられ始めたのである。ありとあらゆる回転運動が重なり合った、信じ難い有様で振り回されながら、上昇速度は却ってスローモーションのように、彼らは雷雲の底へと引き寄せられていった。カラは身を乗り出し、目の前のアウトドア・テーブルを大きく揺らした。その傍らで、気が気でなく既に立ち上がっていた弥祐は、声にならない声を上げていた。双眼鏡を取り落とし、折れそうになった膝で踏ん張って、短く柔らかな髪を、波打つように逆立てた。

 ファードとフータは見えなくなった。あの莫大な雲の巨柱の中へ、為す術もなく消えていった。


 だんっ! と激しく両手をテーブルについて、陽は腰を浮かしかけた。その拍子に湯飲みがひっくり返り、殆ど口も付けずに残っていた、すっかり冷めた緑茶がテーブルの上に薄く広がった。テレビの画面は時折乱れる。恐らくあの雷雲の影響だろうが、長く生きている陽でも、あんな尋常でない雲は見たことがなかった。あれはもう、雲ではなく未知だった。そんな未知の中へ、ファードとフータは消えていったのだ。

 陽は腰を下ろした。揃えた膝の上に緑茶が滴り落ち、着物を濡らすが、彼女は一向構いつけない。

 ただ瞬きもせず、テレビを凝視し続けていた。


“時の三精霊”正面玄関前に急拵えで設置された展示は、当館スタッフたちのやる気が周りに伝染したみたいに、まだ人出のピークには早い休日のこの時間帯にしては、なかなかの盛況ぶりを見せていた。その大画面テレビの前には、列の前に陣取る人々は自主的にしゃがむなどして、何重もの半円形の人垣が出来ている。

 その人々が、今、一斉に身を乗り出した。悲痛な叫び声が幾つも上がった。この時間、画面に合わせて適当な解説を加えたり、集まった人々からの質問に答えていた担当の男性スタッフも、見る見る顔を青ざめさせた。と、視界の端でその動きを捉え、テレビ脇に立っていた彼は画面の前に慌てて飛び出し、彼女の体を受け止めた。力を失ったファン・ミヨンの体は、土のように重く、冷たく感じられた。彼女も、彼とは反対側のテレビ脇で解説を務めていたのであるが、息を飲んで口許を押さえ、よろめくように2歩、3歩、フェンサリサに近付くと、声も音も無く、ふっとくずおれたのだった。


 痛い。

 藍が物凄い力で、碧の左の二の腕を掴んでいた。碧は咄嗟に、空いている手を掴んでくるその手の甲に添えた。ぎゅっと握りしめて、ここに居るって事を伝えるためだった。そう伝えられたと自分も相手に縋って、一人じゃないって事を納得するためだった。どこかへ吹き飛ばされてしまってもおかしくなかった、今の一瞬。その恐ろしい時を、言葉の助けも借りられなかった二人は、身を寄せ合ってやり過ごした。

 彼らを完全に吸い込んでしまっても、いや、彼らに養われたのか、雷雲は益々太っていくようだった。惚けたように暫くその様子を映していたカメラが、急に大きく横に振られた。時間が溶けて人々が動きを取り戻し、事情の説明を求め始めたのだ。人々は、それが出来そうな人の元へ殺到しようとした。その騒ぎの中心に、カメラは向けられたのだ。

 藍と碧は鋭く息を飲んだ。カメラは少し離れた所から、現場責任者として無線で遣り取りしていたフォレステルフを捉えていた。その人の向こうに、偶然、親友の姿を見付けたのだった。

「ミュウちゃん…!」

 立ち尽くして目を見開き、波打つように髪を逆立てた彼女を見ても、碧はそれ以上言葉をかけられなかった。ぞっとするほど胸が締め付けられ、別な物が喉元へせり上がってきて、言葉は押し潰されたのだ。

 息を押し殺して苦痛に耐えていると、今度は脇腹に固い物が押しつけられるのを感じた。碧も藍も、リビングの床に敷かれたカーペットに直に座り、ソファに寄り掛かってテレビを見守っていたのであるが、藍が碧の背とソファとの隙間に、髪をくしゃくしゃにしながら頭をねじ込もうとしてきたのだった。掌に捕らえられた穴掘り虫が、思い掛けない力強さで捕らえた人の指の間をこじ開けるようだったが、碧は親友のそんな仕草を見ても、余計に悲しくなるだけだった。背を浮かしてやると、藍は飛び込むように倒れてきた。両腕できつく碧の腰の辺りを抱きしめ、両膝を深く曲げて嬰児のように丸まった。碧の背に押しつけた額を、嫌々するように振っている。碧の背の後なんて、本当に小さな逃げ場所だった。でも今の藍には、そこにしか逃げる場所が無いのだった。

 碧は藍の両腕を抱え込み、立てた両膝の間に顔を埋めた、そして喉の奥から絞り出すように、ごめんね、ミュウちゃんと呟いた。藍は碧に、碧は藍に逃げ込めた。でも、あんな酷薄な山の麓に、ああしてたった一人、立ち尽くしている彼女の親友は。自分もあの場にいて、彼女を庇う背中や温もりになれたのなら、私はずるいなんて、申し訳なく思うこともなかったのに。


 二つの名前が強く叫ばれた。でもそれは、吸い込まれていく先の空の高みで次第に吹き千切られながら、とうとう、自分が誰を呼ぶものだったか、自身を忘れ去ってしまったのではなかったか。

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