第29回
呼吸と心拍が完全に同じリズムで一致していた。当事者たちにも未だ知られていない、双子の顕著な特徴だった。
大いなる、そして複雑極まる大気の流れは、瞬間瞬間、絶え間なく双子によって分析されている。それに従い双子は風を見ているのである。それにしてもどうだ、この驚異的な立体透視図は! 大地と平行な一つの平面内に、ベクトルの矢印が無数に、恐るべき無秩序さでとっちらかっている。全てその平面内での、ある瞬間の風の動きの視覚化である。同じような平面は、低きにも高きにも積み重なっている。俯いて見よ、振り仰いで見よ。どのようなイメージが脳内に浮かぶか。空間に乱雑に浮遊する長短様々の矢印が、ぞっとするような数、浮かび上がってくるだろう。これが今双子の瞳に映じている光景の、おおよその描写である。彼は空や山を、写真に写るようには見ていない。我々には努めてみても猶おぼろげな、観念というものそのものを極めて自然に見て取っている。そして双子も、その観念の場にあっては大きさを持った物体であることを止め、一本のベクトルとなっている。
双子のやるべき事は単純明快だった。要するに、山脈の内へ入り込める一つの合力を求めればそれで済むのだ。足し合わせるベクトルが星の数ほどで、微分的な時間を考えてみてもどうもそれらを不変と見なせなさそうな所が、少しばかり厄介なだけだった。この難問を前に、双子は試行錯誤などしていない。神がかり的な風向・風力演算器は常に正しい答えのみをはじき出しているのだが、如何せん、彼のいる空はそれが一瞬の未来には反故にされてしまうような場所だった。惑星の運行ほどには単純化できないこの現象の中に放り込まれ、そこで双子は確たる未来を計算しなければならなかったが、彼は尻込みしなかった。彼は恐るべき演算器であるが、実際は風に生きるもっと精妙なもので、根拠はそれで充分だった。もう何度目か、稜線際であえなく裏返され落下しかけた時、反転する視界が爆光に満たされ、確信に心が沸き立つようだった。次の解を得るまでに初めてプロセスが無く、彼はそれを一摑みに得ていたようだった。今から12秒後、ここから約113m離れたあの稜線へ向けて、一本の太い風が確かに吹き返した。
これを渇望していた。姿勢を立て直す間も惜しかった。裏返された時、僅かでも動力が途切れたことで無数の風に群がり寄られたが、咆哮一声、半ばねじれた体勢のまま爆発的に加速し、それらを全て引き千切って突進した。こうして押し通るのは勿論体力を余計に使う。だが今は、あの太い風が吹き返すその瞬間に、その力の中に身を置くことが何よりも大切だった。
太い力が悠然と稜線へ向けて進み始めた。双子はその先陣に、斜め後方から滑り込む様にして加わった。その直後、全身の骨がぎっと軋んで一斉に後へずれたのが分かるくらいの、凄まじい加速がきた。彼は辛うじて姿勢を保ち、その力に乗った。目指す先に岩で出来た稜線は勿論無い。ただ、その上に伸し掛かかって在る大気の巨塊も、阻むという点では岩壁と大差ない重厚さだった。身を竦ませる暇も無い。双子は見えない岩壁に、吹き返しの風もろとも突っ込んで行った。
水飴の中にでも飛び込んだ様だった。突進の勢いがみるみる殺がれていくだけでなく、呼吸を奪われそうな錯覚すらあった。そんな中で双子はより以上に集中しようとしている。まだ稜線から、ほんの数歩山脈内に入り込んだだけだった。それだけで噴き出してくる風は勢いに拍車をかけ、一層嵩にかかって岩襞の間を跳ね回り始めた。双子の目的はただ一つ、乱雑さを倍加させた風の守りを突き抜けて、山向こうに達することだ。迷っている暇は無い。下手を打てば、また稜線の外からやり直しだ。こんなにも難しい次の一手は何処へ打つべきか。感覚は全方位へ広げ、意志は解を得るために針先よりも細くその一点へ絞り込んだ。肉眼では見えるはずのない山向こうの景色が、ぱっと目の前に広がった。
凄まじい郷愁に惹かれ、左上方へ行きかけた。ところがすぐに、このまま正面へ、と誰かが賢しげに叱咤した。その時、双子の意識は明瞭な二つに剥離し、個々へ還ったのだ。一つが一摑みに感じ取った奇跡的な無風状態は、最初行きかけた方に確かにあった。だが、どちらかが最後の一瞬に、理性のくびきに捉えられてしまったのだ。最初、その正面突破も比較的易しそうだった。しめたと思ったのも束の間、突如、進む先の風が一点に収縮した。ファードとフータは愕然とした。もう次に起こった風の大爆発を、避ける手立てはなかった。
一号登山道のパーキングエリア、草原に面した鉄製の手摺りに伸し掛かるようにして鈴なりになっている人々が、一斉にどよめいた。彼方に見上げる山頂付近の状況がどのようなものであるかは、今はもう、騒がしいレポーターたちですら言葉を無くし、固唾を呑むほどの明らかさだった。だから、風乗りが急に力を得、真っ直ぐ突き通すように頂の陰に隠れていった時は、遂に西側へ抜ける道を見付けたかと、彼らが勝利を思ったのも無理はなかった。だがそれもほんの束の間、明るい響きが、まだ高い空へ吸い込まれてしまう前だったのである。笑顔で見守っていた同じ頂の陰から、全く思い掛けず、風乗りがきりきり舞いしながら飛び出してきたのだった。まるで山の体内から鋭く吐き出されたみたいで、本当に力を消化されてしまったのか、一瞬前とは打って変わり朽ち葉のように吹かれる頼りない飛び姿になっていた。何が起こったのかは誰にも分からなかったが、次に起こりそうなことは誰にも予感できた。
「ファード!」
カラは思わず立ち上がっていた。マイクへ向け、声を限りに怒鳴っていた。
ファードはそれを、風の嘲笑う声だと思っていた。
しかし違う。本当はカラの大声で、それは耳元、相変わらず明瞭な音声を伝えてくるイヤフォンから聞こえてきている。そんな理解もままならないほど、ファードの心は乱れていた。胸の悪くなりそうなめまいが続き、口の中はからからだった。恐らくは相棒も同じような状態だろう。破滅的な風は渦巻き続け、厭わしい呪いは執拗に二人に絡みついてくる。それだけが今、二人にとって真実のようであった。何か全身に圧力を感じ始め、そのために、二人はどちらとも無く考えを先に進ませることができた。本当に、これが世界の全てか。
間一髪、二人は同時に気が付いたのである。自分はまだ飛んでいる、今はそれが全てなのだと。
目前に岩壁が迫っていた。たとえ意識が混濁していても、空を行く者のそれとして鍛え上げられてきた全神経は、災いの急速な接近を圧力として感じ取り、警報を発し続けていたのだった。咄嗟に身を翻し、押す風と戻す風の隙間に滑り込み、更に身をよじって戻す風の中に飛び込んだ。肌がちりちりと焼け、目の前が暗くなりかけた。飛ぶ自分という、二人にとっての全てを思い出したファードとフータは、風の舌打ちを尻目に、しぶとく生き残った。
その時、カラの呼びかけが聞こえてきたのである。ファードは先ずそう理解し、応じねばと思い、ふと何かを勘違いしていたような、そう思うのが勘違いのような、はっきりしない感覚に襲われた。呼吸を整える。ようやく応答した。
「はい」
存外弱々しい声で、自分でも驚いた。
カラは最初、イヤフォンの故障だと思った。それくらい酷く掠れ、弱々しいファードの返事だった。
「…何が起こったんだい?」焦りで詰問調とならないよう、努めて気を遣いながらカラは問うた。先程と同じように、返答まで長い間があった。
『道を見付けたと思ったのですが…』ファードはまた黙る。『しかし、行き止まりでした。すぐに押し返されてしまった』
遠目に見たことの説明にはなっているようだが、相手の声の憔悴ぶりから、言葉に出来る以上の何か深刻な事態があったようにも思える。それは彼らが双子だったことに関係しているのだろうか。双眼鏡の狭い視野の中で、今は何とか平衡を保つのがやっとのようなファードとフータは、最早双子ではなかった。山頂の陰に飛び込む時までの、彼らの信じ難いような一体感には風乗りの恍惚を感じたカラであったが、その状態であった二人がここまで打ちのめされているとなると、さすがに戦慄の方が先に立ってくる。
「一旦戻るかい?」
それが賢明なように思えた。
『一旦戻るかい?』
カラはそう聞いてきた。ファードもこの時までにはだいぶ落ち着きを取り戻していたから、相手が冷静に、事実上の続行不可をほのめかしたとしても、特に驚くことはなかった。むしろ、己の全責任で客観的な判断を下さねばと感じた。ファードとフータ、二人とも呼吸も忘れるような飛行を続け、気力、体力共に酷使してはいたが、それほどの長時間でなければ、まだ同じレベルの飛行をする余裕はあった。次に時刻を確認する。鞍の前部に埋め込みの、シンプルな構造に完璧な防水・防塵、とにかく頑丈さが売りの飛行時計は、今もこの悪条件の中、愚直に時を刻み続けている。与えられた持ち時間である1時間には、まだ早かった。そして何より、風は一向に勢いを衰えさせていないのである。気力と体力の余裕を根拠に、ファードはこの事実を困難ではなく、可能性の高さと受け取った。先程のような太い吹き返しが再び生まれる可能性は、確かに低くないのだった。
「もう少しやらせてください」しっかりとした口調でそう言えた。今度は相手の方が、返答まで少し間を置いた。
『…ファード、正直に答えて欲しい』カラには珍しい、硬い声だと思った。『君とフータに、その余裕はあるのかい?』
「それは問題ありません」長く空で生き残ってきた二人であるから、そこは見誤っていないと思った。「正直、ここまで風に翻弄されたのは初めてです。ですが、まだ迎え撃てています」実際、困難は痛感していても意地や見栄とは無縁で、ファードにもフータにも、心に恐れや諦めの曇りは一点も無かった。
迎え撃てている、とはっきり言い切ったファードに対して、カラはそれでも迷う所があった。あの場所が、荒れてはいてもカラも知っているような空だったのなら、ファードの言葉を疑う理由は何処にもなかっただろう。遠目では、確かにファードとフータはあの高い空で、見守るこちらも吹き倒されそうな、身の毛もよだつ酷い風と渡り合っていた。今は返答に力強さが感じられ、消耗も一時的なものかと思わせた。しかし、それでも。自分は続行を許していいのか。




