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第28回

 一旦カラとの通信を終了した直後くらいから、フータの体を軽く掬っていくような風が断続的に来始めた。この辺りで一番低い、つまりこの日の山越えの開始点として当然真っ先に選ばれるべき尾根は、目前だった。

 HML時代に幾度も訪ねたその尾根までは、今も通い慣れた道だったし、風もこの程度なら何ら対処に困るものではなかった。小さな船を波間に浮かべて、ゆったりたゆたっているようなのどかさだ。斜面は次第に垂直に近い険しさとなり、それに連れてフータも徐々に垂直上昇の姿勢に近くなっていく。また似たような風が来た。フータ自身の内発的な風による上昇に、ゆっくりと外来の風が持ち上げを加え始める。その瞬間、ファードの目の前にあるフータの首筋の毛が、ざっと一気に逆立った。ファードはとてつもなく強い悪寒に背筋を貫かれて、あっと身を竦ませた。

 その時には、もう岩の斜面に激突する寸前だったのである。斜面側の大気だけが一瞬で大部分抜き去られて、その極低圧の空間にひゅっと吸い込まれたみたいだった。ストローで小さな水滴を吸い取るのは容易いが、二人は丁度その水滴だった。フータが瞬発的に最大の能力を発揮して、飛膜の下に離脱のための大風を起こした。間一髪で墜落は免れたが、あれほどの離脱行動だったというのに、よくよく見れば岩壁はまだぞっとするほどの近くからもたれかかってくるようだった。ファードは息を飲んだ。体を芯から揺さぶるような、低く重たい唸りが轟いている。フェンサリサもこの高所となれば、平地では汗ばむような季節になっても新雪が無くはない。雪崩か。ファードは山頂を振り仰いだ。

 雪崩れてきたのは雪ではなかった。信じがたいほど巨大で重い、空気の塊だった。この大気塊はどうしようもなく転がり落ち、岩壁を幾度も槌打ち、その深甚な嘆きの様が轟きとなって脊椎を軋ませるのだった。このままでは押しつぶされる。ファードは咄嗟にフータを横へ滑らせたが、とても躱しきれるものではなかった。乾いた大滝が二人を落下に巻き込んだ。案に相違して背中に伸し掛かる力が感じられず、一層肌が粟立った。むしろ体が浮き上がるようで、混乱していると今度こそ上から体を押さえつけられた。ただし、大気塊に潰されたのではなく、爆発的に吹き上げられたためだった。一体どんな理屈の風が、自身は轟然と落ち、飲み込んだ物は高く弾き飛ばせるというのか。フータはでたらめに体を振り回され、為す術が無かった。ファードもきっと相棒がそうしているように、歯を食いしばってこの状況をやり過ごそうとした。その間、何かが彼の左腕を強く掠め、弾いていったようだった。

 酷い耳鳴りに襲われ、ファードはどんなに振り回されようとも握っていた鞍のアームレストから、思わず手を放しそうになった。そうしていたら煽られて上体を持ち上げられ、低く伏せた元の姿勢に戻るのに、常識では考えられない苦労を強いられていたかも知れない。苦痛を堪えるために自然と見開いた目は、光の霧雨が紗をかける、全くおとぎ話の挿絵のような青空や稜線を見ているが、彼を打ちのめさんとする耳鳴りや瞬間的に全力を出したための体の痛みは現実の領域で、五感が引き裂かれたような違和感が凄まじかった。時間が経つにつれて、空間を覆ってきらめく光の粒は、どうやら先程の空気雪崩で巻き上げられた、大量の粉雪らしいと考えられるようになった。そう思う頃には、耳鳴りもだいぶひいていた。

 吹き飛ばされている間に何かが強く弾いていった、左の二の腕の辺りを確認した。丈夫な皮革製のフライトジャケットのその部分が、鋭い刃物で一息になぎ払ったようにすっぱりと、10cm近くにわたって切り裂かれていた。風に吹き飛ばされた、角の鋭い小石か何かの仕業かも知れなかった。「フータ、怪我はないか」戦慄を隠せずにファードは相棒に問うた。フータは力強く首を横に振り、問題は無いと言ってきた。幸運に感謝せずにはいられなかった。

 横殴りの強い風が、改めて二人の注意を呼び覚ました。周囲に目を配れば、目指していた尾根もこの辺りで一番高い頂も既に斜めに見下ろせる高さで、一気に数百mを吹き上げられたのだと知った。彼らはこれから越えようとしている山の縁にいる訳だが、そうやって稜線の間近に身を置いて初めて、ファードは経験することの重さを再確認するようだった。全身から冷たい汗が噴き出す。ファードとフータが、風乗りにも和睦不能であり続けてきた季節的な大嵐と、フェンサリサ上空で直接対峙するのは今日が初めてである。そしてその規模は、東支店屋上からの遠目の観察では、熟練したファードの目すら誤らせるものだった。予想と現実の余りの落差に声を失った。先程の大気の雪崩など、まだほんの序の口だったのだ。この高い空を満たしているものは、大きすぎ、澄み切りすぎ、美しすぎる、全てにわたって物悲しい、純粋な力の奔流だった。感じられるのは、ただ畏怖と憧憬だった。ファードは身震いした。

 この力はただひたすらに孤高なだけでなく、ただひたすらに盲目的でもあった。喩えれば山脈の奥深く、まだ誰にも知られていない空に爆発点があって、この大風はいつも山脈の内から外へ、単調に、しかし絶対的に、異物を遠ざける噴き出しであり続けているのだった。その本来の単調さが、思いも寄らぬ複雑な動きに転じてファードらを翻弄するのは、単純でない地形と干渉しあった結果だった。一体何という風なのか。過去、どんな風乗りも越えたことが無い。覆し得ない道理に思えた。

 フータ共々全身で探って慎重に吹きつけてくる風を読み、その場に危うい安定を保ちながら、しかし、とファードは反論する。風には吹き返しがあった。地形効果でこれだけ複雑に風が巻いているのなら、ほんの一吹きでも、一途な噴き出しを割って山脈内へ突き通る、奔放な風が生まれるかも知れなかった。諦めるのはまだ早い。ファードとフータはその一瞬を探すため、雪に青く輝く岩壁に沿い、ゆっくりと進み始めた。


 陽は、ほぅっと、詰めていた息を大きく吐いた。それまで見入っていたテレビも、同時に活気を取り戻したようだった。飛行する対象に錐揉みというと、普通は落ちて行くものの状態を指して言う言葉だが、先程のまるで逆回しの姿だったファードとフータを見て、陽は息を飲み、騒がしいテレビも一瞬言葉を失ったのだった。やがて稜線際でそろそろと動き始めた彼らを認め、この番組の女性レポーターは楽観的な判断をしたようだ。すっかり調子を取り戻した張りのある声で、結果的に一気に山頂付近まで達することが出来たのだから、幸先がいいというような趣旨のことを述べた。人生の大半を風乗りとして生きてきた陽は、無論、そんなもっともらしいだけの見解を見下した。ファードらの達したあの空に、楽観を許すような易しさなど何処にもありはしなかった。それにしても、勘のいいファードとフータをああも簡単に翻弄するとは、あれは一体どんな風だったのだろう。経験を積んだ陽であっても、この時期のフェンサリサの、あんな山頂間際までは上がったことがない。両手に包んだ湯飲みの中身は、次第に冷めていくようだった。そんなことは気にも止めず、というよりも両手の中の物のことなどすっかり失念して、陽は画面を見詰め続ける。


 ファードとフータは、ある狭い範囲を巡回するようにして吹き返しの風を探し続けていた。無線の通信範囲を考慮すれば、あまり捜索の範囲を広げられないのだった。この制約は不利なようにも有利なようにも思えたが、もし言われているように、本当に山脈の端から端までこの大風が吹いているのなら、考えても仕方のないことだった。結局、何処に突破の糸口を求めようとも、探索は困難を極めるに違いないのだ。

 とにかく気流は荒々しく、一瞬たりとも安定していることが無いのであった。山脈深部から一途に吹き出してきた風は、山襞の明るい所、暗い所へと無心に滑り込み、そこからは悪意を持った無数のしなやかな砲弾となり、空中で弾道が交差する砲弾同士は更に予測不能な軌跡を描いて、時には渦にもなり、ファードとフータを破滅させようと身も竦むような勢いで迫ってくるのだった。時には、稜線から遠く離れた所まで小石のように弾き飛ばされた。数百m、いやその倍以上も一気に叩き落とされた。その度に心臓を縮み上がらせ、全身の骨をガタガタギシギシいわせながら生き残ったが、巡回路である尾根近くまで戻ろうとする矢先に、また同じような目に遭う始末だった。確かにフータは風の妖精だ。彼は飛膜の下に自身の風を操り、何処までも滑空して行ける。しかし、如何に風を操れようとも、ちっぽけな一個体がこの真に摑み所の無い巨大な風を、御せる道理は何処にも無かった。自分の風を手放さず、飛行を続けているだけでも素晴らしかった。

 ただ、そうは言ってもフータは今、恐らく生涯で初めて自身の限界を意識させられ、打ちのめされているだろう。彼の柔らかな体毛は、今にも火花を散らしそうだった。ファードだって歯がみしていることにはかわりがない。だが、二人がいくら焦れようとも、山は頑なに彼らを掻い潜らせようとしなかった。二人は遂に消耗を意識し始める。時間ばかりが徒に過ぎていく。


 この様子を、今は彼も双眼鏡に目を押し当て、カラは見守っていた。無意識の内に口許が強く引き結ばれている。時折、彼の傍で同じように双眼鏡を覗いている弥祐が、鋭く息を飲む気配が伝わってきた。彼も肌にちりちりと不快な痛みを感じ続け、まったく安らぎとは程遠い気分だった。しかしその一方で、風乗りとしての彼の心には、恍惚とした痺れも広がっていくようだった。

 ファードとフータは今同じ思いを巡らせ、同じ入力を全身に得て、同じ出力を外界へ返していた。そうしなければ生き残れない飛行を続ける中で、彼らの連携も急速に極限まで練り上げられていくようだった。双眼鏡の限られた視野の中、カラはその目で、風乗りの奇跡をありありと見ているのだ。彼の目に映るそれは、最早一個の飛翔生物と言った方が良いだろう。ファードとフータ、二人を隔つ固有名詞は淡雪のように溶け、混じり合った。彼の者は二にして一の在り方をしている。すなわち、双子だった。

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