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第27回

『感度良好です』

 カラの呼びかけに、ファードはそう応じてきた。カラは軽く驚いて、それから満足そうに頷いた。彼もファードと同じイヤフォンとマイクのセットを使って通信している。相手が躊躇せずに返してきたのが分かったので、安心したのだった。

「このイヤフォンとマイク、便利なだけでなく、性能も申し分なさそうだね」実際、相手が目の前にいるように話せばそれで済むようだったし、両手が自由になるのは、今は首から提げている双眼鏡を使う時以外にも、何かとありがたいはずだった。「それに感度だけでなく、今の所は視界も良好だ。ここからでも君たちが良く見える」カラの傍らには、キャンプ用の折りたたみ椅子に腰掛けた弥祐がいるが、時折双眼鏡を目に当てている彼女とは違い、彼はまだ肉眼でファードらの姿を追っていた。

「ところで、忙しくなる前に一つ伝えておきたいことがあるんだ」自然と微笑んでいたカラは、表情を改め言った。「この遣り取りだけどね、急に電波に乗ることになったんだ」カラの前には、やはり野外で使うような折りたたみ式のテーブルが置かれていて、その上には通信機本体と、丁度先程の会見場を再現したように、何本ものマイクが束ねられ設置されていた。通信機の二つの音声出力端子の内、勿論一つにはカラの使うイヤフォンが繋がれているが、他方からはただケーブルが伸びていて、それは一つの入力を多数の出力に振り分ける機器に接続されていた。カラの発言は、マイクを通してテレビやラジオの電波に乗る。一方ファードからの通信は、一本のケーブルから多数のケーブルに振り分けられ、やはり各局の電波に乗せられる。

 カラの周辺は今喧噪に満ちている。全てはマスコミの群れが、活発に動き回っている結果だった。首を巡らせて見れば、大型の中継車を含む何台もの車がずらりと鼻先を並べていて、壮観な眺めだった。無数のカメラも放列をしいている。一眼には長大な望遠レンズが取り付けられ、担がれたテレビカメラは元より大きく、それらが一心にファードらに向けられている様は、息を潜めて合図を待つ狙撃兵(しかも砲兵だ)たちを思わせて、どこか物騒だった。あちこちでレポーターの声高な調子が響くかと思えば、発電機の回る音も喧しい。そんな電力は、通信機からの微弱な入力を複数へ出力するため、増幅するのにも用いられていた。走り回っているのは主にラフな服装の若者で、裏方仕事に余念が無いのだろう。要するにこれは一つの巨大な熱意だった。この熱意がファードとの遣り取りを公開して欲しいと言ってきた時、別に他人に聞かれて困ることは無かったが、この場でのマスコミとの関わりを出来るだけ避けたいカラにしてみれば、出だしでのつまずきを思わせる事態だった。しかし、カラはここでもしぶとく交渉力を発揮して、その要求は受け入れるが、遣り取りを聞けるなら今何が起きているか賢明な諸氏には良く理解できるだろうし、自分は監督に集中したくもあるので、風乗りが山越えを試みている間の自分や他のスタッフへの取材は御免被りたいと、言葉巧みに相手を説得した。その上で、今朝方弥祐と一緒に本社からやってきた若いスタッフたちに、彼や弥祐の周りをそれとなく囲むように居てもらっている。今の所、共存はうまくいっているように見える。だが、それも表面上のことで、気詰まりな居心地の悪さに、常に背中を突かれているような気分だった。

「僕たちは予定通り、一号登山道のパーキングエリアにいる」気を取り直して、カラはそう告げた。「山開きが今週末で良かったよ。とにかく、君たちをカメラに収めたい人たちで、この広い駐車場もほぼ一杯だ」

 一号登山道は、フェンサリサを形作る比較的低い一山へ入る道で、昔からトレッキングコースとして人気が高く、そのためその入り口に接する敷地には、大型の観光バスも含め数十台が駐車できる第1駐車場と、その周囲には宿泊施設や飲食店、土産物屋などが建ち並んでいる。コンクリで一段高く土台を作った駐車場の、それを囲む手摺りに寄れば、足下には先程ファードらが越えて行った草原が一度なだらかに下り、再び高くなっていく先にフェンサリサの高い峰々が臨まれて、視界は申し分なく、落ち着いて山越えを見守るには都合の良い場所だった。ただ広さで言うと、今回の取材拠点となるには些か手狭だったようだ。山開きを数日後に控え、シーズン中にしか営業していない店舗も店を開けているようだが、目前の時ならぬ活況ぶりに、そういった人々も目を丸くしているに違いなかった。

『そうですか』

 しかし、カラからそう事情を聞いても、ファードの返事は普段通りだった。カラは頼もしさを感じた。重要な荷物を預かり、風乗りとしての晴れの舞台とも言える、あの高い峰々を久々に前にしても、ファードは非常に落ち着いていると思ったからだ。

「今の状況を報告して欲しい」自分も端的に物を言うように努めることにして、カラはそう送った。

『時折鋭くなりますが、風はまだ大人しく、視界も良好です』

「二人とも体調はどうだい?」

『問題ありません』

 もう豆粒ほどにしか見えないとしても、カラのすばらしく鋭い目には、岩肌の灰色と昨夜降ったばかりかも知れない雪の白さ、フェンサリサの屋根付近特有の単調な色彩の背景すら苦にせず、フータの白い輝きが紛れることなく見分けられていた。その姿を暫く追っている。すると、それまで順調に高みへ伸びていくだけだった飛跡が、急に右へ逸れ、一つ大きな輪を描いて再び上へ伸び始めた。かと思うと、今度はゆっくりと後ずさり、踏みとどまって揺らめき、押し戻すように前へ進み始める。いよいよ、1年を通して吹き荒れ続ける乾いた嵐の、その勢力帯の一端に触れかかったのだ。もうそろそろ、ファードとフータを煩わせるのは止した方が良かった。

「取り敢えず1時間だ」最後に念を押すことを忘れない。「そこにはきっと、まだ語られていない風も吹いているんだろうね。くれぐれも気を付けて」

『了解』

 それきり、イヤフォンから漏れた微かなノイズが、粉雪のように耳底に降り積もっていく。


 藍がどこかからリビングに駆け込んできて、テレビの前に立った。これでもう何度目になるだろう。

 碧に遅れて目を覚ました藍は、今が朝の支度において最も動きが活発な時である。すなわち顔を洗う。碧の両親がいつ帰宅するか分からないので、元の制服に着替える。その度に洗面所(風呂場と隣接して脱衣所も兼ねている)とテレビの前とを、ばたばたと往復しているようだった。しかし、その回数は尋常でなかった。彼女は普段から、素直な長い髪のここやあそこに三つ編みを散らばらせ、それは毎朝の気分次第で太さや本数が変わり、基礎のストレートヘアに効果的なアクセントを付け加えているが、見ているとリビングに駆け込んできてテレビの前に立つ度に、そのトレードマークは丁度1本ずつ加算され、数はいつもより多そうだった。碧から借りていたジャージの上下を何故か上だけ丁寧に畳んで持ってきて、同じく丁寧に畳まれた片割れを持ってきたのは、三つ編みが1本増えた後だった。かと思うと、何の脈略もなく朝刊を手に戻ってきたりする。さっきから気になって仕方がなかったのだが、片方だけ履かれていた白いソックスがようやく揃ったのは、その後の事だった。

 碧はというと、彼女の方はもうとっくに身支度を済ませ、今は親友の様子とテレビとを交互に見ながら、朝食の準備をしていた。ばたついている友人を見るとちょっと気の毒に思うが、また絡まれるのを恐れて余計な事は言えないでいる。藍が目覚めてから10分にも満たない間の一連の出来事は、碧の遺伝子に深く教訓の刻印を施すもので、彼女の後に続く子々孫々は、始原の直感からも明らかに、ある種の物事への対処を確実に他の血筋よりも上手くやれるようになったはずだった。始原の直感というのは自身の子宮がそう自覚しているという、根拠としては聖のものであってもちょっと気恥ずかしくて口には出しにくい、ある種の霊感を元にした確信だった。とにかく昨日から、エンタテイメント映画の、それも刺激への指向が最早怪物化してしまったようなそれのヒロインに、突如抜擢されたような気分だった。碧はそこに救いがあると信じ、朝食の支度にいそしんでいた。すると背後で、藍がいきなり大声を出したのである。味見をしようとして少量すくった熱いスープをがっと飲み込んでしまい、目の前が暗くなりかけた。

「見てみ!」

 滲んだ涙を素早く拭って振り返った碧が目にしたのは、親友が普段から惜しげもなく見せてくれる、余人にはなかなか難しい無垢な笑顔だった。藍はテレビを指さして、とても上機嫌だった。

「ファードさん、もうあんな高い所まで行ったわ。これならけっこう楽に越えられるんとちゃう?」

 藍は心から胸躍らせていた。その様子を見て、碧も急に気が楽になった。先程からどうしても納得がいかず、迷宮入りの様相を呈し始めていた昨夜の残りのスープの味の再調整が、突然上手くいった。

「藍ちゃん、運ぶの手伝って」頷いてガスコンロの火を止めると、碧は声をかけた。

「お。今日の元気の素、できたか」藍が駆け寄ってくる。

「うん。いっぱい食べて、いっぱいファードさんのこと応援しよ」


 今日が平日ならば、あと暫く時間が経てば、正面の広場を横切る通勤や通学の人々の姿が、ぐっと増えてくる頃合いだった。つまり、開館時間にはまだ早いはずなのだが、“時の三精霊”の正面玄関に当たる二列に並んだ回転ドアの一方から、当館の制服を着た男性が一人、忙しげに出入りしている。最初出てきた時、彼は入館口周辺をざっと確認してみた。一度引っ込んで出てきた時にはほうきとちり取りを持っていて、ここで働くようになって初めてのことだが、手近な所をざっと掃き清めた。満足すると、今度はコンセントの付いたドラム型のコード巻き取り器を提げて現れる。コードを壁伝いに、または回転ドアの邪魔にならないよう工夫して引き伸ばし、ガムテープで地面に固定しながら、三度館内へ消えて行った。正面玄関脇のその場所で使う何かの機器のために、電源を延長しているようだった。

 程なくして同じ建物正面の、しかし回転ドアからは少し離れた位置に設けられた搬入用の扉の鍵が、中から開けられた気配がした。普段は閉ざされているその観音開きの大扉が開くと、先程の男性スタッフが先ず現れ、続いて別の男性スタッフが大きな台車を押しながら出てきた。台車には、一般の家庭ではちょっとお目にかかれない大画面の薄型テレビと適当な台座、縦に細長い2本のスピーカーが載せられていた。台車の脇では一人の女性スタッフが、進む荷物に合わせてそれらを両手で押さえている。他の二人と同様、生き生きとした表情で作業を進めている彼女は、ファン・ミヨンだった。

 自宅で感じていたように、今朝の彼女は、今一番注目を集めている重要で繊細なプロジェクトに、細い線ながらも連なっている関係者だった。その誇りはささやかなものであっても彼女の足を軽くして、職場について初めて気が付いたが、いつもよりだいぶ早めに出勤していた。ところが、ちょっと浮かれ過ぎかな、と反省しかけた矢先に、彼女よりもっと早くに来ていたスタッフが何人もいたことを知って、ああやっぱりね、可笑しさが込み上げて反省気分など何処かへ行ってしまったのである。同僚たちは職員用通用口の前でどこか不安げな顔を向け合い、身の置き所がないといった様子で立ち尽くしていた。そのグループの中に真実と通用口の鍵を持ったものが居らず、そこでそうしている外なかったのだ。彼らも関係者の列に加えることについて、ファンは何の異存もなかった。あの風乗りはやっぱりファードさんだったんですね! 事情を話した後、知りたくて仕方がなかったことを聞いた誰もが満足げな笑顔になり、困難な仕事に敢えて立ち向かった同僚の行いに目を輝かせた。風乗りの展示のある4階で、ファードをフロアリーダーとして働く若いスタッフたちの反応は特に強く、随分勇気を得たようだった。彼らだけでなく、働くフロアや年齢性別に関係なく誰もが高揚している様子で、ファンの胸も自然と熱くなった。今日はファードさんが急にお休みすることになったけど、みんなで頑張りましょうね。異論はなかった。いつにない結束が生まれた。

 そうして意気揚々といつもより早めの開館準備が始まったが、どうせなら大型テレビを正面玄関前に置いて、道行く人にも今回の山越えの様子を見てもらったらどうでしょう、出来るなら我々の解説付きで。スタッフの一人がそう提案した。風乗りの展示を展開する当館としては、久々に復活し、そして今後二度と目にする機会がないかも知れない山越えという事件には、当然期待される態度で臨まねばならなかった。テレビ中継を展示にしてしまおうというのは、そのほんの一例だ。外で解説をやるならシフトを作り直しますよ。そう手を挙げたのは、今日はファードに代わって4階のリーダーを務めるベテランのスタッフだ。テレビの近くに告知板や、簡単な解説ボードが有った方が良くない? 黒板POPなら任せてよ。解説ボードは白板に要点を書いて、細かい所はいつも配ってるプリントで補えるだろう。ねえ、チラシ作ろうよ。駅前とかで配れば、もっと人が来てくれるよ。それなら俺たちも手伝えるぞ。早めに始まった開館準備と言っても、今出たアイディアを全て形にしようとすれば人手は多いほど助かった。持ち場の準備を終えた4階以外の担当スタッフたちが、続々と応援に駆けつけた。あっ! 映像資料の保存は? 大丈夫ですよ、資料部の人たちがやってくれてますから。

 祝日の早朝だから、人通りがまばらであるのは否めない。しかし“緊急展示”を伝える、ガリ版刷りの急拵えのチラシを抱えた数名は、迷いのない駆け足で人通りのありそうな方面へ散っていった。大型テレビの周辺が、急ピッチで展示の形になっていく。電源が入れられた。ファードとフータが急斜面を駆け上がっていく様がすぐに大写しにされ、2本の外部スピーカーが朗々と現場からのレポートを読み上げ始めた。準備が整ったと判断すると、ファンはもう一人の女性スタッフと協力して、館前の広場を横切っていく人々に声をかけ始めた。展示の趣旨を説明すると、今日の山越えを知らない人もちらほらいたが、かつて風乗りがあの高空を飛翔していたことは誰もが知っていて、風乗りという職業を懐かしみ、その突然の復活に驚き、または期待し、風乗りを繰り手にして自身の記憶のページを暫しめくるのも例外がなかった。夜勤明けということでとても疲れた表情をしていた中年の男性が、急に表情を蘇らせ、テレビに見入り始めてくれたのが特に印象的だった。

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