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第26回

 陽は畳んだ割烹着を棚の決まった場所に戻し、一息ついた。ファードも弥祐も御山へ出掛けた今朝は、いつ家の仕事を始めても誰にも気兼ねがいらない訳だから、久々に彼女の自然に従い早くに床をあげていたし、特に食事は用意も片付けも一人分で、普段は店を開けた後に少しずつ済ませていくようなことまで全部終わらせてしまっても、なお開店にはまだ余裕があった。それでも陽は構わなかった。緑茶を淹れると、居間のテレビの前に腰を落ち着けた。

 毎朝テレビを点けぬ彼女ではないが、それも都心の方へ出掛ける孫たちのために交通機関の状況を確認したり、ちょっと天気予報を見たいがためで、こんな風にその前に腰を落ち着けるなど、そもそも他にテレビを必要としない陽には珍しいことだった。このような訳なので、知りたいことが知られれば拘りはなく、電源を入れて最初に映った局でも山越えの話題を扱っているようだったから、そのまま見ることにした。すぐに感じたのは、映し出される様子の中に漂うどこか不穏なもの、しかも予兆ではなく余韻だった。何かのトラブルを想像させるが、映像からも音声からも筋道だった情報はいっかな提供されない。陽は遂にリモコンに手を伸ばそうとした。だが、一瞬早く叩き出された音声に打たれて、思わず手を止めてしまった。

『あっ!』

 画面には見えないが若い女性の叫び声で、レポーターが手にしたマイクを忘れ、うっかり口にしたのかと思われた。老いたりとは言え、陽の耳はまだまだ達者だった。露骨に顔を顰め、少し手荒く音量を下げた。

『風乗りです! 風乗りが今、飛び立ちました!』その女性レポーターは、喋ることだけは忘れていなかった。『HMLが談話の中で触れただけで、その姿は一向に見えませんでしたが…風乗りは確かに、あのように今でも存在していたのです!』

 ちゃんと聞いていたら、この最後のコメントには苦笑したことだろう。しかし陽は、もっと大事なことに気を取られていた。記憶に残る姿とは異なり、フェンサリサ東支店の社屋は木造2階建てだった彼女の現役当時から、もっと丈高く、頼りがいのある外観に様変わりしていた。その分暖かみは失われたようだが、社屋の上にも寿ぐような青空は一杯に広がっている。そして澄み渡った新しい青さの中に、いのちを輝かせた白くしなやかな風が、待ち兼ねたように放たれたのだった。僅かに遅れ、カメラがフータの姿を大きく捉える。ああ、スカーラル・シーはやっぱり美しい生き物だ。そう思って直ぐ、随分久しぶりにそう感じたと気付き、少なからず驚いた。人の営みなどとは決して関係のない所で、フェンサリサは佇むようだった。御山に向かい、ファードとフータは真っ直ぐに駆けていったが、陽の目には些か気負いすぎのようにも見えた。


 近年益々人口の集中化が進む首都では、例えば5階建てくらいの規模の集合住宅が複数棟集まって形作るような新興住宅地が、郊外へちょっと足を伸ばすと頻繁に目につくようになっている。こんな蜂の巣のような住居は、特に都心部に新しく仕事を持った新市民たちの、格好の我が家となっていた。故郷を一人遠く離れ、“時の三精霊”を職場とするファン・ミヨンも、そんな集合住宅の一戸に住んでいる。

 祝日の今日も、彼女には仕事があった。世間が休みの日の出勤というと、通勤は楽だけど来館者は多いでしょ、それがね。ままならぬ現実を習慣的に嘆じてみたり、特に今朝のような上天気の場合もう少し我が身を悲劇化して支度をするものだが、今この瞬間の彼女は既に仕事に臨むファン・ミヨンのように、活気と集中力にみちみちて、小走りに動きながらでも髪をきれいにまとめられたし、弁当に詰める卵焼きの焼き加減と味付けは完璧、点けっぱなしのテレビも一語一句聞き取れていた。常よりは随分早起きした彼女は勿論、今日行われることになるであろう、ファードの山越えに心浮き立たせているのだった。新たな混乱のタネにならないようにと配慮してか、HMLはファードやフータの詳しい個人情報をマスコミに公開しなかったようで、各局各紙誌は彼らを“X”と呼び、中には実在を疑う声さえあるようだが、真実を知るファンは少なからずこの状況を楽しめた。いや、マスコミよりも気の毒なのは、幾らかでもファードらのことを知る“時の三精霊”の同僚たちだった。何人もの見知った顔が、後一歩で真実という場所で立ち往生しているとしたら、意地が悪いのは承知の上で、それでも彼女は口元に、作家めいた笑みを浮かべずにはいられなかった。その時、聞きたいと思っていたことをはっきりと聞き取った。現場で山越えの指揮を執るHMLの役員が、この会見が終わり次第風乗りは出発すると、テレビの中で明言したのだった。

 その時までに残された時間が正確に読めるかのように、彼女は落ち着いた手付きで弁当の用意を終え、トースターにパンをセットし、ベーコンエッグを焼き始めた。いつものように丁寧にコーヒーを淹れてもまだ余裕があるはずだったが、急に混乱した内容を喋り出したテレビに対し、彼女は自分の落ち着きを見習わせようと、暫くの間じっと右の掌をそれへ向けて突き出していた。テレビは物事の筋道を思い出す。満足げに頷き、小さな輪を描くようにコーヒーの挽き粉に熱い湯を注ぎ始めたら、今度はそれが、唐突に絶頂に達してしまった女性の叫ぶ、あの愛の神へのごく短い祝詞を真似たような気がして、真っ赤になって睨み付けた。すると清らかな白さが、さっと彼女の疑念を払ったようだった。急いで寄ったために一瞬ピントが外れたが、カメラはすぐに、飛び立ったファードとフータを明瞭に捉えた。フェンサリサは東支店からもなお距離を置き、そうであっても覆い被さってくるような威容を見せていた。朝日を浴び、その山頂付近の万年雪は白く燃え立つようで、しかし飛行妖精の白い体も、それを遠景に一層誇らしく目に映えた。南に大きく取られた窓へ、ファンは目をやった。首都の空も気持ちよく晴れ上がっている。遠いけれど一つに繋がった空の下で、たった今、風乗りが完全に息を吹き返そうとしていた。ファードと仕事をし、展示の企画や作製に関わり、風乗りの歴史に殊の外興味を持つ彼女の胸が、高鳴らない訳はなかった。

 ファンの完璧な朝は、ここで遂にけちがついた。優雅に注ぎ足そうと視線を落としたその時だ。三穴のドリッパーから、お湯はとうの昔に落ちきってしまっていた。


 南北二千数百kmを貫くフェンサリサ大山脈周辺の地形として、このような起伏のなだらかな、途方もなく広い草原は珍しいものではなかった。総面積で言えば、他の地域の同様な草原帯と比較して、この辺りの広がりは決して大きな方ではない。だが、それでも横切っていくとなると、一直線に空を行ってもかなりの時間が必要とされた。

 ファードとフータは、草の海原を帆もかけずにすいすい渡っていく。一枚の広がりである実際の海が、そのおもてに様々な表情を見せるあの不思議と同じに、足下の草の海も決して単調な緑の連なりではなかった。天然の芝地の広がりは、懐かしい眠気を誘うようだった。様々な色合いの草花には集団生活者も個人主義者もいて、比較的狭い区域に密生するもの、たなびく霞のように長く広がるもの、新天地へと果敢に点々と広がっていくもの、緑のそらの中の星団や星雲や個々の星々を思わせた。黒々とした灌木の小さな茂みが、所々に、忘れられた古い生き物のようにうずくまっている。更に希には、大木の姿もこちらに1本、あそこに1本とあって、それらの狼煙台は続く先に我が王国があることを示していた。草の丈が急に高くなった。昨夜渡ったマハージアナ川が、ここでは川幅も狭く、酷く蛇行して流れている。薄灰色の背と、黄色のくちばしを持った大きな水鳥たちが群れていた。点在する木の上に、彼らのものと思われる細枝で編んだ粗末な巣が見て取れ、適した木が少ないために、住宅事情は首都の利便な地域より余程逼迫しているようだった。三日月型に行き場を失ってしまった水にも、どこか朗らかさが感じられた。上空を行くため直接目には出来ないが、足下の草原は無数の小さな世界に分かれていて、その世界の各々は、互いに違った小さな命を驚くべき数で隠している。生命の賑やかさは、風に薫るものだった。風乗りには手に取るように分かるのだった。

 起伏のあった地形が、いつの間にか緩やかに上るだけになっている。ファードとフータは、地表との間隔は一定に保つ感じで、標高が上がるなりに徐々に高度も上げていった。足下の景色が一変した。山裾の森林地帯へ差し掛かったのだが、この森は少し手前から次第に木立が増え始めて、というような始まり方をしない。本当に見事に、草原帯と一線を画していた。安全な高度を保って樹冠の上を飛翔していく。この高さをこのスピードで進んでいくと、それらの形や色合いを大きく捉えた変化が、分類写真を1枚1枚繰るように把握できた。標高が上がるにつれ、優勢な樹種も変化する見本だった。やがて樹冠から、沸き立つようだった緑が速やかに退いていく。代わって木々の枝先には、黄緑や赤や茶といった色合いが、細い絵筆で点々と打ったように目立ち始めた。全て今年生まれの葉の子供たちで、標高もここまで高くなると、今がようやく葉の開き始める季節なのだった。もっとも、遠くには葉に先立って花をつける木も見える。平地では花見の頃もとうに過ぎたが、白味の強い野生種の花もまた見事で、遠目に散る様は初夏の粉雪だった。

 ぐんぐん進んで行く。陽の下にこぼれだしたばかりで、風にそよぐ色とりどりの稚魚のようだった若い葉の群れも、いつの間にか見られなくなってきた。この辺りでは、まだ固く冬芽の中に閉じこもっているのだった。だんだん木々の姿がみすぼらしくなってくる。種類の違う木が優勢になってきたのかとも思うが、実際には少し手前から目にしてきていたのと同じ樹種が、標高の低い場所ではもっと堂々と天に突き出ていたはずなのに、この辺りでは十分に成長できないでいるのだった。目立って白っぽいのは立ち枯れた木だろう、その数も増えてきた。やがて、丈の高い木はふいと姿を消してしまう。入れ替わって現れたのは地を這うような樹種で、それらの合間に白けた灰色の岩がごろごろした、荒々しい山の素肌も覗くようになってきた。その平伏したような木々は、見掛け通り直ぐ岩場に場所を譲ってしまった。小さな影がちらっと目の端を動いて、顔を向けた時にはもう見えなかった。細長い姿に思えたから、ごろつく岩の隙間に獲物のネズミの姿を探す、小さなイタチの仲間かも知れなかった。植物は、そのような小動物や鳥の目ばかりを楽しませている、高山の草花が点在するだけになっている。森林限界線を越えたのだ。風の質が変わり、冷たく鋭くなってきた。ファードはネックガードをぐいと引き上げ、最後まで外気に晒していた顔の下半分もここで完全に覆った。少し下ろしてあったフライトジャケットのジッパーも、しっかりと閉め切った。

 風で吹き千切れ、斜面を駆け下りてきた小さな雲の欠片を、何度か突っ切った後だった。単調なノイズを微かに漏らすだけだったイヤフォンに、確かに変化があったようだった。意識の必要なだけをそちらへ向ける。

『ファード、聞こえるかい?』

 カラの声だった。

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