第25回
目覚めてから思い出すまで少しかかったが、そう言えば、昨夜はリビングで眠り込んでしまったのだった。ソファとセットのクッションの一つを枕に、毛足の長いカーペットの上とはいえフローリングの床に寝転がっていて、起きた時体がちょっと痛かった。碧はもっさりと身を起こした。掛けていた薄手の毛布を脇に寄せ、最初一気にやろうとして首筋に電流が走り、少し涙目になった後は徐々に、慎重に伸びをした。
若草色の地に、図案化された小鳥たちの姿が朗らかな遮光カーテンは、少し前の模様替えの際、その時の“主任コーディネーター”だった碧が両親から期待され、壁紙などとセットで選び抜いた物だった。それらの隙間から漏れ込んでくる光は明るい。少なくとも、夜は明けているようだった。
碧はキッチンのテーブルへ目をやった。ごく控えめに入ってくるだけの弱い光を頼りにしても、その上は昨夜整えたまま、手付かずになっているのが分かった。傘式の蠅帳を被せた下には、二人分の食事が用意されている。こうしてパジャマにも着替えず、リビングで眠りこけたままだった事からも容易に知れたが、やはり当人たちの意志に反し、昨夜両親は職場からの帰還を果たせなかったようだ。まあ余り重くない物、例えば旬の野菜のスープなんかは朝食でも構わないだろうから、朝の支度の方は幾分楽になった。
続いて壁に掛かった時計を見た。薄暗いのと、まだ両目がピントの合わせ方を思い出さないようなのとで読み取るのに手間取ったが、やがてそんな確認の無意味さに思い至り、慌ててリモコンを引き寄せるとテレビの電源を入れた。静寂に慣れた耳に、昨夜のままの音量が思いがけず大きく響いて、慌てて小さくした。ごく論理的に考えて、どの時間帯でも報道番組を放映しているのは国営放送という事になっており、実際碧は間違えなかった。画面には何かの会見の模様が映し出されている。折良く、スタジオにいるらしいアナウンサーの声だけの説明が被せられ、HMLのフェンサリサ東支店にてたった今行われている会見の、生中継である事が分かった。端整な顔立ちのフォレステルフが、束ねられたたくさんのマイクの前に一人で座り、しっかりとした態度で話をしている。彼が語った一言に碧は安堵した。ファードが山越えに向かうのはこれから、この会見の後になるそうだった。気が済むと、急に喉の渇きを覚えた。彼女は周辺の空気を構成する全分子、すなわち音を伝える全てを欺く決意を固め、その通りの所作で立ち上がりかけた。にもかかわらず、すぐ傍らでむずかるような身動きがあった。彼女はぎこちなく振り返る。幸いな事に、藍はただ寝返りを打っただけで、まだ深い眠りの中にいるようだった。
昨日の学校帰り、明日は祝日でもある訳だし、碧と藍は盛り場へ繰り出したのだった。普段の例に漏れず、昨日の言い出しっぺも藍だったが、クラス委員長の弥祐だけは移動教室がらみの仕事にぶんどられ、泣く泣く教室で別れなければならなかった。実際、藍は結構本気で弥祐に縋り、つまらないと言い立てているのが碧には分かったのだが、弥祐の方は一向本気にしてないようで、まとわりついてくる藍の脳天に、軽くではあっても何発も、手刀を打ち下ろしている姿がちょっと鬼だった。
繁華街へ出た後は、いつもの街中探検だった。ブランドショップが軒を連ねる地下街を徘徊し、今年の夏物の傾向を把握したり、コーディネイトの青写真を描きあったりした。冷やかしに入ったレコードショップでは、二人がまだ生まれる前に活動し、新しい音楽の遺伝子を世に授けていった、四人組ロックバンドの全アルバム十数枚、例外なくリマスタリングされ同時発売された事を知った。店に入ってすぐの販促コーナーは広く、きらびやかに飾られ、足を止めさせる効果は大きかった。店内BGMに使われている曲に聞き覚えがあると思っていたら、表面の絵柄がよく見えるように並べられたレコードジャケットの中にも、見覚えのあるものが幾つか含まれていた。何処で見たのかは定かでないが、それらのアートワークは確かに二人の印象に深く刻まれていて、思いがけないオリジナルとの出会いを喜んだ。藍は実際に、このバンドに強く興味を持ったようだった。同じコーナーにはレコードやCD以外にも、様々な関連商品が並べられている。新しいファンのために、これらリマスタリングされたアルバムの内容解説や、まつわるエピソードなどをコンパクトにまとめた手頃なガイドブックがあり、ちょっと勉強してみると言って藍は1冊買い求めた。この店を出た後は、小腹が空いたのでクレープ屋の待ち行列に加わった。ベンチに腰掛け、先程のガイドブックを二人で見ながらのんびりしても、まだ探検の時間は残っていた。
「お」再びぶらつき始めて暫く、先にそれに目を留めたのは藍だった。「今日、何かの試合とかあったっけ?」
ど派手な電飾がまばゆい家電量販店の店先に、結構な人垣が出来ているのである。人々は一様に、夏の商戦へ向け何台も展示されている、各メーカーの最新型テレビに見入っていた。
「サッカーの試合とか?」碧があてずっぽうで言ってみる。
「代表の試合は無かったと思うけどなぁ」これくらい注目を集めるなら、やはり代表クラスの試合だろうと藍は踏んだのだった。
案に相違して、一斉に映し出されていたのは印象の薄い感じの、50歳前後の男だった。時折頭を動かすと、後頭部の辺りで髪が一房、ぴんと跳ね上がっているのが分かった。彼は何度も喉元に手をやる。その度に光沢のある品の良いネクタイは歪んでいったが、それでこのネクタイを選んだのは、きっと彼の奥さんなのだと思わせた。彼が何らかの解釈を可能にしそうな表情や仕草をする度に、一斉にたかれたフラッシュで画面が白くなった。記者会見の模様だと分かったが、どこか殺気立っているような記者たちとは対照的に、この男は落ち着き払っている上に、良く気付く目には場を意のままに操っているような印象すら受けた。
こうして、ここでたまたま足を止めたので、藍と碧も例のゼンハイズの会見を目に出来たのだった。ところで、二人はこの時、同じ日の昼過ぎに遠く離れたフェンサリサ大トンネルでどんな悲惨な事故が起きていたのか、まだ知らなかった。足を止めたまま、何となく複数のチャンネルからの情報に触れている内に、ようやく会見場やこの場に漂う緊張感の意味が飲み込め、顔色を変えたのだった。今ではすぐに立ち去るつもりだった事も忘れ、大勢の人に交じって会見の様子を見守った。そして再び、今度は事故を知った時以上に、あっと驚かされたのだった。
「ちょっ!」藍は思わず、強く碧の右腕を掴んでいた。「この風乗りって、ファードさんちゃう!?」元HMLの風乗りで、今でも現役。ゼンハイズが言ったのはそれだけだが、彼女はファードが最後の風乗りなどと言われていることも知っている。そうとしか考えられなかった。
「うん…」言葉を濁しているような調子だったが、それは碧自身も、藍の言う可能性の高さに気を取られていたからだった。事情を知らない近くの人が何人か、藍の訴えに振り返り怪訝そうにしていたが、普段のようにすぐに気付いて友人の袖を引かないのも、別に藍を否定したのではなく、ただ考え込んでいる証拠だった。
「ああ、もう!」しかし、藍は相手の態度を焦れったく思ったようだ。「ミュウんち行こっ! 今ならファードさんも帰ってるやろうし」掴んでいた手を今度は絡めて、引きずろうと力を込めた。
「行ってどうするの?」しかし、柔らかく微笑んだ碧は人類として最も普通な立ち姿のまま、まるで自身が足下の石畳に打ち込まれた鋼の柱のごとく、力を込めた藍を逆に仰け反らせて、びくとも動かなかった。
「どうするって、そら」押したり引いたりを何度か試み、ようやく藍はここで打ち勝つのは言葉だと理解した。「色々詳しいこと聞きたいやん。今のテレビじゃいつ出掛けるのかも分からんかったし、手伝えることだってあるかも知らん」
「この風乗りさんが誰なのかは、きっと藍ちゃんの言う通りだと思うよ」碧は相手に頷いてから、テレビの画面を指さした。「なら今はこのおじさんの部下の人と、交渉中ってことなんじゃないかなぁ」
「じゃあミュウや!」藍はとにかく、推定よりも確定が欲しいようだった。「あの子ならきっと、これから決まることかて知ってるし」
「それは真ならしめること能わずかなー」碧は腕を組み、首を傾げた。
「じゃあ何ならできるん?」藍はフリーハンドで引いた線みたいな目をして、思わず釣り込まれた。
「ミュウちゃんもきっと忙しいってこと」碧は躊躇わずに言った。「だってファードさんが行くなら、ミュウちゃんだってきっとついて行くもん」
「ううむ」相変わらず推定しか聞いてはいない。だが、こんな唸ってる然とした唸り声が無意識に漏れてしまうくらい、確かに碧の言ったことは真ならしめられていた。藍は混乱した。「じゃあ、どないせぇっちゅうねん」
「明日はお休みであります!」碧は急に快活な声を上げて、親友が、その痛み一つ無い見事な金髪を掻きむしろうとする暴挙を止めたのだった。「と言う訳で、今日はうちでお泊まり会をやりましょ−!」彼女の右手は振り上げられ、事は可決され、そうして脈絡はその尻尾すら見せないまま、姿をくらますことに成功したのだった。
「碧…」藍は急に口ごもる。
「いつもの気楽なご招待だよ−。パパとママ、今日も遅くなるって言ってたし、もしかしたら帰ってこないかも知れないから」碧は全く清らかな様子でそう言った。
「そっか」藍は頷いた。碧は見た目と裏腹に結構芯の強い子で、それは長い付き合いで確信していたから心配はしていない。かと言って碧に人恋しい気持ちが無いわけないし、それにこの子の口からご両親のこと聞くたんびに、なんやこっちも人恋しくなってあかんからなぁ。そんな訳で、状況が許す時はいつもそうしているように、今日も藍は誘いに応じることにした。「じゃ、お呼ばれしようかな。けどあんたんちで何すんの?」
「今日はテレビチェックかな」碧は自信を持って提案する。「そうすれば私たちが知りたいことも分かるし、やれることも出来るよ」
「…そっかー。テレビの前で応援するくらいしかできんかー」皆まで聞かずとも相手の意図を悟って、藍はちょっぴり気落ちした。
「大事なお役目だよ」碧は本当にそう思っている。「何かを成し遂げた後、あの時は頑張ったねって身近な人に褒められるの、嬉しくない?」
「すっごい嬉しい」藍はにっこりと笑った。「てことは、今日も夜更かしやね」
「うん」碧も満面の笑みで応えた。
「よし! じゃあさ、ちょっと着替え買いたいし、付き合ってくれる?」踵を返しながら藍は言った。
「一度お家に帰らないの?」
「時間がもったいないって。それにちょうど、そろそろ買い換えなきゃって思ってたところだし。家には後で電話するわ」
止める間も無く、藍はとっとと行ってしまう。実はこの時、碧には藍の判断を疑うところがあったのだが、仕方なしに後を追った。
「やっぱり一度、お家に帰った方が早かったと思います」
どこかメルヘンな意匠の木製のベンチに腰掛けた碧は、彼女には珍しく足を組み、腕も組んで胸を反らしていた。要するにとても憮然としている。
「はい」そんな碧の前、タイル敷きの地面に直に正座するのは藍だった。大きな幾何学模様の一部を成している色タイルに額を擦り付け、要するに見間違えようのないくらい平伏している。
二人は今、とって返した地下街の中、あるランジェリーショップの店先でこんな事をしていた。立ち止まる者こそまだいないが、この光景を見て通行人の誰もが目を丸くしているのは言うまでもない。
一刻も早く落ち着いてファードらのことをチェックしたいし、学校帰りに急に決まった今日のお泊まり会、藍は現地調達で準備を済ませお邪魔することにした。部屋着やタオルなんかは洗濯して返せば済むことやし、碧に借りればええやろ。でも、こればっかはなぁ。さっきも言ったように遅かれ早かれ買うつもりだったし、行きつけの店へ向かったのだった。
「そして藍ちゃんは私が心配した通り、いつもの優柔不断さをとおっても発揮してくれたの」
普段は余り物事に拘らないようで、実は選択に臨み0から1まであらゆる可能性を脳内にリストアップ、それを徹底的に吟味し尽くすのが藍の
「だから決められない性格なんだよね?」
いつもの甘えたような声で断固と遮られ、藍は思わず身を縮めた。すると正座した膝の上に置いた手の甲に、何か冷たい物がふわりと落ちてくる。驚いて目を近付けると、それが体温で溶け切る前、確かに美しく対称的な六角状の形を認めた。驚くほど成長した結晶を多数含む、雪のひとひらだった。それはたった今、見下ろす碧が藍のつむじの上辺りに凝結させた物に違いなかったが、そうと分かっていても、なお藍には天からのお達しの手紙としか思えなかった。
「それにその言い方、よく考えると確率0も吟味してるって事じゃない」
「えろう済んません」藍はごつごつとタイルに額を打ち付けた。「その代わり、晩ご飯は任せてや。確率1で碧を喜ばすさかい、メニューの選定から死ぬ気で行くわ」
藍はとても本気だった。碧は深く溜息をついた。
とにかく、昨日の学校帰りから様々な冒険があって、碧は今朝リビングで正体を無くしていた自分を発見し、今は藍の寝息の調子に聞き耳を立てているのだった。昨夜の食事の用意は、その一コマだけで壮大な叙事詩が書けそうだった。そろそろとした動きの助けを借りながら碧は記憶を整理し、ようやく冷蔵庫に辿り着く。徹底的に気を遣い、力任せにドアを開けようとはせず、ドアと本体を密着させるパッキンの間に徐々に指先を差し込みながら、そっと引きはがすようにドアを開けた。別に昨夜の内に藍に対して何かやましい所が出来たからではなく、単に彼女の性格から来た慎重さだった。2リットル入りのミネラルウォーターの容器に手をかける。容器やコップが冷蔵庫の縁やコップ立てと触れ合ったり、容器の中身をコップに注ぎ込んだりする時に、碧の口から何らかの物音が発せられた。器物が立てる硬く澄んだ音、水流が立てるとくとくという物音に、それらとは逆位相の音を口まねしてぶつけ、消音を試みているのだった。苦労してコップを満たした彼女は、藍からは少し離れ、テレビにはずっと近い場所にふわりと舞い降りた。いわゆるトンビ座りで腰を落ち着け、一口冷たい水を含んでほっとしたのも束の間、またテレビに驚かされ、むせそうになった。
画面の中が俄に慌ただしくなったのである。碧は更に音量を絞らなければならなかった。そうして見守っていると、先程までの会見の場面が急にスタジオへ切り替わり、待機を解いたアナウンサーは、理解して伝えようとすれば次々と差し替えられる手元のメモ類を前に、止揚の適用を思い付いたようだった。彼はついに何事かを断片的に伝え、面目は保たれた。カメラは再びフェンサリサ東支店の現場へ戻された。もう一度会見場を映し出すのかと思いきや、今度のカメラは屋外にあった。それが急に上へ振り上げられる。ワンテンポ遅れてカメラがぐっと寄れば、碧の胸は高鳴った。支店社屋の屋上よりも少し高く、スカーラル・シーに跨った男が浮遊している。サインを貰った時の印象とはまるで違っていたが、彼女にはすぐ、その男がファードだと認められた。「藍ちゃん!」画面を見たままで大きく呼んだ。既に別の気遣いが必要な段階だった。「ファードさんだよ!」
ところが、碧は暫くもどかしい思いをさせられることになる。局の方でも何かと混乱があるらしく、慌ただしい遣り取りだけがマイクを通じて聞こえてくる事もあれば、カメラが無意味と思える頻度で切り替えられ、今の所は本当に意味の無い、お花畑の静止画も何度か挿入された。先程までフォレステルフが座っていたはずだが、今は無人になった会見席が一瞬、見た者に見たと意識させずに深い印象を残す、あのやり方で映された。カメラが支店の正門前へ戻ってくる。これだと碧は身を乗り出すが、カメラは屋上へ向けられなかったし、彼女もそれに気付けなかった。離れた社屋の正面玄関から、わらわらわらわら人が溢れ出してくる。皆一様に憑かれたような形相で、正門目掛け疾走してくる。守衛のような身なりの男性が転げるように道を譲り、それまでは固く閉じられていたはずの正門の巨大な鉄扉が、その場に像を残しながら開け放たれた。人は奔流となり、正門前にあったカメラは揉みくちゃにされた。でたらめに回転する世界の内から、怒号やタイヤの軋む音が断続的に聞こえてきた。世界は奇跡的に平衡を回復する。踏ん張ったカメラが、ようやく屋上の様子を捉えてくれた。すると、いつの間にか人影は4人に増えていて、中の一番小さなそれに、ぽかんと混乱を見守っていた碧は正気を呼び戻された。画面にかじりつくのと、ファードが鞍に跨ったらしいのが同時だった。やっぱりついてったんだね、と小さく語りかけた少女と、短く言葉を交わしたようだった。彼と相棒の飛行妖精は、跳躍するように青空へ舞い上がった。そのまま真っ直ぐに、フェンサリサ目指して飛んでいった。
碧は余韻のようなものに浸っていたから、それに思い至ったのは余程経ってからだった。そぉっと振り返る。藍はこちらに背を向け、かけてあげた綿毛布もどこかへ押しやり、ゆったりとした野暮な部屋着に包まれていてもなお羨みたい、ウエストからヒップにかけての艶やかな曲線をあどけなく晒し、まだ安らかな寝息を立てていた。
「私は起こしたよ?」背中に向かって、碧は言い訳した。「でも絶対、後で文句言われるんだよね」
胸躍るシーンを見たばかりだというのに、碧は少し憂鬱だった。