美智子と流香 その3
『今いい?』
LINEで話しかけると、諸岡からはすぐに返信があった。
『うんいいよ』
このわずか五文字を見ただけで、美智子の心はすぐに鎮まる。
いつもの日曜日ならスマホは鏡台に置き去りにする。きちんと身支度をして台所に立つ。だが、今日は違った。目覚めた時、流香の姿は既になく、一度は起き上がったものの、美智子はまたベッドに舞い戻っていた。
『どこにもでかけないの?』
『うん』
『ひとり?』
『ひとりだよ』
『私もひとり』
『そうですか』
『お邪魔?』
『ううん。なんとなく、みっちゃんのこと考えてた』
いつもなら、昼間は流香の部活の応援に出かけるか、そうでなければ流香のための買い物に時間を費やす。だが、どこへ行くとも、何時帰るとも告げず出ていった娘のことを今は考えたくない。
『私もふみちゃんのこと考えてた』
この数日間、いや、冷静に思い返すともう数カ月も前から流香は自分によそよそしい。その変化は受験勉強に本腰を入れる時期と重なったから、特段気にもしなかった。一般受験だしプレッシャーもあるだろう、そう思い込んでいた。子供のころから計画的で真面目な流香が急に変化するなど、そのくらいの理由しか思い当たらなかったのだ。
だから、ぷいと出て行った娘のことを理解できず、ふと、諸岡にLINEで話しかけていた。諸岡でなくてもよかったかもしれない。でも、心を開けるのは、ホントはもう諸岡しかいない。
『うそつけ』
『うそじゃないよ』
『じゃあ証拠』
流香とのことはなんとかなる、そんな気がしてくる。諸岡がいればなんとかなる、根拠のない安心感が液晶に流れる文字によってもたらされる。
『じゃあ今度会った時に』
『(笑)冗談だよ』
それからずっと、かれこれ八時間近くLINEしている。合間にご飯を食べたり、片手間にモップで掃除したりしながらも、神経はずっとスマホに集中し続けている。それだけで気分が紛れる。ずっとこんな時間が続けばいいと思った。
そこに玄関を開ける音がして流香が帰ってきた。
「ただいま」
珍しく流香が先に声をかけた。
「おかえり。どこへ行ってたの?」
スマホを片手に、美智子が応える。
「池袋。友達のヘアカットに付き合ってた」
「受験生なのに余裕ね」
余計なひと言だとは思ったが、口をついて勝手に出てしまった。
「前から頼まれていたし、ちょうど先輩がヘアモデル探してたから」
「そう。そう言えば、あなたいつの間にそんな髪型にしたの?」
「今さら?」
「だって、そういうの、聞く感じでもなかったでしょ?」
「もうずっと前だよ。何週間も前」
「そう。何週間も話す機会がなかったってことだ」
その時、美智子のスマホがチャリンと鳴った。チラッと内容を確認したが、それに応じぬままスマホをテーブルの上に置く。流香はその動きを目で追ったが、何も言わず美智子の向かいに腰掛けた。
「ママ」
「なに?」
「ちゃんと話したいことがある。ご飯食べながらいい?」
「何も作ってないけど」
「いいよ、私が作るから」
「どうした風の吹き回し? お小遣いならパパに言いなさいよ」
「そんなんじゃないから」
流香は母親との微妙なすれ違いに苛立ちを覚えた。しかし、ここで部屋に籠ったところで何も解決しない。一日一日無駄が積み上がるだけだ。流香は母親との会話を打ち切り台所に立った。
オムライスと野菜スープ。それは彼女が母親とふたり暮らしになって最初に作った夕飯のメニューと同じだった。
流香が出来上がったオムライスに多めのケチャップをかける。それを見ていた美智子が皮肉な笑みを浮かべて口を開いた。
「あなた、オムライスに『おめでとう』って書いてパパに写メ送ったことあったでしょ?」
離れて暮らす慎哉に誕生日プレゼントで贈った写メのことを言っているらしい。
「古い話、よく覚えてんなぁ」
「知らないと思ってた?」
「別に悪いことしてる訳じゃないし」
「今でもパパにメールしてる?」
「うん。イヤだ?」
「いや、いいわよ。あなたの父親には変わりないんだから」
でも私の夫ではないわ、その言葉は飲み込み、美智子はオムライスを一口食べた。
「手際よくなったね。ご飯がべちゃべちゃしてない」
そう言って、美智子が今度はホントの笑顔を見せた。それを見て、流香も無理をせずに頬が緩む。
「ホントは揚げ物食べたいんだけど」
「後片付けが大変だから。食べたきゃ今度お店にくれば?」
「桔梗に? 酔っぱらいの居酒屋に?」
「そうでもないよ。うちのお客さんは紳士が多いからね」
「ふ~ん」
そのうちのひとりが好きなんだね、喉元に出かかった言葉を、今度は流香が飲み込んだ。
会話は弾まない。ふたりとも会話の糸口を見つけようとするが、そうするとかえって不自然なほど何も言えなくなる。オムライスがあとふた口ほどになったところで、美智子がようやく口を開いた。
「話って何?」
「うん…… 食べ終わってから話す。コーヒー飲むでしょ?」
「うん。アイスもあるよ。抹茶アイス」
「珍しい。どうしたの?」
「だって、今は抹茶アイスでしょ」
美智子が悪戯っぽく笑った。きっとテニスの有名プレイヤーがインタビューに応えたのを覚えていたのだろう。こういう時の母親を流香は嫌いじゃない。
コーヒーと抹茶アイスを流香が準備し始めた。美智子は時折スマホをチェックしている。
ドリップを待つあいだ、言葉を選びながらもはっきりした口調で、流香が母親に話しかけた。
「ママ。私、ひとり暮らししようと思う」
想定していたわけではないが、この前もそんなことを口走っていたから、美智子は意外にも落ち着いてその言葉を受け止めた。というより、流香には我が子ながら距離を感じ始めていたから、娘の独り立ちというより、もう少し突き放して見てもいい気がしていた。ただ、何事も自分のペースで進めようとする姿に、美智子は流香の中の慎哉的なところを見出し、諸手を挙げて同意できない何かも同時に感じていた。
「いいわよ。どうせそのつもりなんでしょ?」
「うん」
「まぁ、大学生になれば仕方ないか」
「大学には行かない」
その言葉に、美智子が一瞬スマホから目を上げる。
「なぜ?」
「興味がない。興味がないと言うより、行っても無駄だと思った」
「どうするつもり?」
スマホをテーブルに置いて身を乗り出す。
「専門学校に行って美容師になる」
「へぇ~。それで?」
「それで? それだけ」
「そう」
美智子も、娘の話をできるだけ冷静に聞こうとはした。だが、どこかしら胸の奥底に収まりのつかないものが沸き起こる。
「そういうことだから。部屋が決まり次第、出ていくからね」
それまで感情を抑えながら流香の話を聞いていた美智子だったが、娘の言い放った最後のひと言に感情がささくれだった。
「どういうことよ! 部屋が決まり次第ってどういうことよっ!」
両手でテーブルを叩きつけた。運悪くドリップ途中のカップに手が触れてしまいコーヒーが零れる。さらに運悪く、それがスマホを濡らしてしまった。
流香は一瞬ビクっと身体を反らしたが、反射的にスマホを素早く持ち上げる。ティッシュで汚れを拭き取ろうとすると、偶然にもLINEの着信画面がポップアップする。それに気づいた美智子が流香の手からスマホを乱暴に取り上げた。
「今、いいって言ったくせに」
流香が美智子のスマホから目を離さず応える。
「今すぐだなんて許した覚えなんてない! こんな時期にひとり暮らしなんて、受験生の誰がそんなこと考えるの!」
美智子は流香の目を見て語気を強める。
「受験生とか大学生とか、そういうこと関係ないから。とにかく私はここを出る。ママはもう思い通りにしなさいよ」
母親の視線から目を逸らし、流香が落ち着いて反応する。
「パパの差し金? あんたたち、なんでいつもいつも勝手に……」
化粧っ気がなく、ほつれた髪もそのままにキッっと流香を睨む美智子。そんな母親を流香は哀れに感じた。美人に違いない母親の素顔に、こんなに歪んだ顔が一瞬でも存在することに、流香はやるせなさだけを感じてしまうのだった。




