流香と慎哉の家族
明らかに大きすぎる赤いグローブを左手に、ひとりの少年が野球用品専門店から飛び出してきた。満面の笑みだ。やや遅れてミニスカートの若い女性。その後を追って髭面の中年男も駅方向に向かって歩き出した。
堅と一花と慎哉。念願の誕生日プレゼントを買って貰った子供と買ってやったその両親。この辺りの野球少年なら知らぬ者のないこの専門店から出てきた三人は、傍目にはごく普通の親子にしか見えなかった。
「こっちだよ」
百貨店手前の歩道を渡ったところで、慎哉が先を歩くふたりを呼び止めた。
「なんで? 真っ直ぐ行って左でいいじゃん」
どうやら繁華街を目指すらしい。
「角は先に曲がりたいタイプなの」
慎哉は妙なところに拘りがある。
「そっちだとデパートの裏になるじゃん」
「いいからこっち」
それだけ言うと、慎哉はふたりを待たず勝手に角を左に曲がった。そのあとを堅が走って追いかけるものだから、一花も渋々ふたりに従うしかない。
十数メートル進んで今度は右折。そこで堅が慎哉に追いつき左に並んだ。買ってもらったばかりの真新しいグローブをポンポン叩いてご満悦だ。そんな堅の頭を慎哉は嬉しそうに引き寄せて歩いた。
「あっ……」
突然、堅が小さく呻いてその場に立ち止まる。
「ん? どうした?」
急に左手からスルリと抜け出た息子を訝しみ慎哉が後ろを振り返る。そこに一花が追いつき、何を立ち止まってるんだ?というふうな顔をする。堅は一花の背中に隠れてしまった。
「何? 大きな犬でもいた?」
一花も理由がわからず息子の顔を覗き込む。だが、堅は顔を伏せたまま動こうともしない。
「ほらぁ〜、変なところで曲がるから」
「ほら、って…… 別に何もないよ。どうした? ケン」
ふたりの呼び声に応えず、堅は一花のスカートをギュッと握りしめた。
慎哉も一花も周囲を確認してみるが、変わったことは何もない。百貨店の従業員専用口からふたり連れが出てきたほかは小さな花屋がひっそりあるだけだ。
その花屋の店番がニコニコしながらこっちを見ている。ちょうど堅と同じ年頃だったから、慎哉は息子がその視線に照れたな、と思った。
「ケン! お前から、こんにちは、って言ってごらん」
慎哉は息子の背中を押すのだが、堅は頑なに、むしろ怖気づいた様子で一歩たりとも動かない。それをじれったく思ったのか、一花がしびれを切らし、行くよ! と乱暴に息子の手を引いた。
このまま行ってしまうのは可哀想だと思った慎哉は、ごめんなと店番に声をかける。だが、店番はただニコニコ微笑むばかり。その様子に、変わった子だなぁと思いつつ、慎哉もふたりの後を追って先を急いだ。
東口のバス停にいた流香は、百貨店の裏路地から出てきた堅と一花、そしてすこし遅れて姿を現した父親を偶然見つけた。流香にとって家族ではない三人。だけど、まるで他人とも言い切れない。その姿を遠くから眺めるのは妙な気分だった。胸に痛みを感じるわけではない。ただ、声をかけるでも、走り寄るわけでもない関係の淡さに、ふとした寂しさだけを感じた。
もし、走り寄ったらどうなるのだろう? どこに行ってたの? どこへ行くの? そう笑いかけたら、三人はどんな顔をするのだろう? 笑顔で振り返ってくれるだろうか? それとも怪訝な顔で、会わなきゃ良かったという顔をされるだけだろうか? そんなことを考えていたからか、流香の表情は硬く、他人を受け付けない印象を与えた。
それに気づいた詩音が心配そうに声をかける。
「どうかした?」
「ううん。パパとケンがいただけ」
「ケン?」
「弟。血はつながってないけど」
感情の昂ぶりを感じさせない流香に、詩音は言葉を飲み込んだ。
「パパがね、一緒に暮らしている女の人の子供」
流香の突然の告白に詩音は面食らった。頭の中で理解しようとするが、何かがブレーキをかける。そんな詩音をよそに、流香は淡々と言う。
「私、不幸なのかなぁ…… ね、どう思う?」
詩音は流香の綺麗な横顔を唖然と眺めた。母親と父親、それぞれが別々の生活を始めている、そのリアリティーを理解しようとしてみる。だがどうしても実感が伴わない。ただ、この美しい横顔の裏にもし絶望が潜んでいるなら、それはどれほどだろう、そう想像する。他人が見れば、絵に描いたような不幸に違いない。
たが、彼女の横顔はどこまでも美しい。とても絶望しているようには見えない。その奥にどんな不幸が隠されているとしても、こんな美しい横顔はどこにもない。そんな矛盾した感情が詩音を襲う。詩音の想像を遥かに超える場所に流香がいるとするなら、彼女が大人の雰囲気を纏うのは当たり前だと、詩音は自分と比べて、ただそう思った。
「やっぱりママにちゃんと話そう…… うん、そうしよう」
流香が自らに言い聞かせるように頷いた。詩音も我知らず一緒に頷いた。
バスの中で、ふたりはひと言も交わすことなく流れる景色を眺め続けた。秋の夕暮れが迫っている。視界を遮る大規模マンション群を越えると、茜の深いグラデーションの中に富士のシルエットがくっきり浮かび上がった。秋のこの時間は特別に美しい。だが完璧すぎて冷たくも感じられた。
最寄りのバス停で降り、分かれ道の手前で向うからやって来る桃と杏に気がついた。その姿を確認すると、流香は少し表情を強張らせて詩音に別れを告げ左に折れた。詩音は自宅方向にそのまま進むしかなく、少し歩いたところでふたりに呼び止められた。
「ルカと出かけてたんだ?」
「…… うん」
「あれ? シオンちゃんも髪型変えた? この前と微妙に変わってね?」
「ホントだ。なんか大人っぽくなってる。みんな色気づいちゃってイヤだなぁ」
桃がパツンパツンのショートヘアを撫で上げながら苦笑いしている。すると何を思ったか杏が流香の方に走り出す。そして彼女の左手を掴むと、ぐいと引っ張った。だが、流香はそれに応えず、杏の手を振り払ってマンションのエントランスに消えて行った。
杏が苦い顔で戻ってくる。
「ホント、最近のルカは扱いにくいよ。わざと嫌われ者になろうとしてるとしか思えない」
「いいよ、ほっときなよ。誰にでも話したくない時期ってあるもんだよ。ん? そうじゃねーな、シオンとは喋ってるわけだし?」
そういってふたりが詩音の顔を睨め上げたから、詩音も何も話さないわけにはいかなくなる。仕方なく、ヘアカットモデルに誘われたことを簡単に話した。
「先輩に頼まれた、って誰に?」
「一ノ瀬さん。ふたつ上の。バスケット部だった人」
「う~ん、知らないや。アンズ知ってる?」
「知らない。だってバスケって体育館の裏手で練習してたよね? あっち行かないもん。バレー部の方が近くでしょ?」
「バレー部はマジ部だから、よその練習とか見てらんねーよ」
「鬼の三田が顧問だったもんね。あいつ、体罰とかしてたんじゃない?」
「バカヤローってボールをぶつけられるのは日常茶飯事。あれ、パワハラかなぁ?」
「それで推薦貰ったんだから、あんたは何も言う権利ありません」
話はいつの間にか変な方向に逸れる。桃と杏のやり取りは楽しいのだが、このまま一緒にいると、いつ何時話が流香のことに及ぶかもわからず、詩音はもう遅いからと断って家路を急ぐことにした。桃も杏も、近くのコンビニでだべろうよと一度は誘ったが、深追いまではせず詩音を解放した。
「なんかあるな。ルカ」
詩音の後ろ姿を眺めながら桃が呟いた。
「シオンちゃんも知ってる感じだね」
「うん。まぁ、言いたくないのを無理に聞いたところで嫌な気分になるだけだし、放っておくしかないよ」
桃は関心をなくしたように歩き始めた。
「そう? 私は一晩中でも問い質したい気分だけど」
杏はその場から離れようとしない。
「あんたは洋品店の店先で、暇なおばちゃん相手にそうすりゃいいんだよ」
「あ~、なんかそれ冗談に聞こえない。そんな一生しか待ってないのかよ、オイラには」
杏があまりにしょぼくれた声を出したので、桃は彼女の肩を抱き、大丈夫大丈夫、コンビニでスイーツでも食べる? と宥めるしかなかった。




