流香と詩音 その3
「決めた」
帰りの電車が鉄橋を越えるころ、窓の外を眺めていた流香が突然声を上げた。
「ん?」
「専門学校行くわ」
「さっきの?」
「うん。多分。でもどこでもいい。何か無心で手を動かしていられる仕事がしたくなった」
「イセっちは器用なところあるもんね」
「ルカだってば!」
「あっ、ゴメン。ルカ…… ちゃん」
「ん?」
「……」
「シオン!」
「はい」
「じゃなくて」
「あっ、ルカ……っ」
しどろもどろになる詩音を見て流香が面白そうに笑った。
「よし、今日ママに話す」
「…… 」
「もうさ、私も十八になるんだしさ。選挙権もあってお酒も飲めるんだから、自立だよ自立」
「お酒?」
「うん。成人でしょ?」
「成人だけど、お酒はダメなんだよ」
「そうなの? なんで?」
「なんでって、そういう決まりだから」
「つまんねー決まりだなぁ。中途半端だよ、中途半端!」
「飲むの?」
「飲むよ」
「捕まっちゃうよ」
「捕まえてみやがれ」
このまま調子づかせると本当に飲みかねない気がした詩音は話題を変えることにした。
「おばさん、わかってくれるといいね」
「冷静に考えればさ、その方がいいって、なぜ気がつかないかね? あの人は」
詩音は自分の母親をあの人と呼ぶ流香が羨ましかった。自分は母親はおかあさんで、祖父はおじいちゃまだ。いつまでたってもひとりで歩きだせそうにない自分は流香の遥か後ろを歩くしかない。
「ママってさ、まだ四十一なんだよね。松たか子と同じ年。おばさんって歳でもないと思うんだよね」
「若っ!」
「シオンママはいくつ?」
「四十八?」
「あ~、パパと同じかぁ」
「そうなんだ……」
「四十一の人生って終わったって感じでもないでしょ? だってまだ半世紀近くは生きるんだよ、あの人も」
「半世紀って考えると…… 長いね」
「長すぎだよね。私はあと数年でもいい感じなんだけど」
詩音はそんな言葉をサラリと溢す流香が怖かった。中学時代、アイドルの話で盛り上がった彼女が二年間でまるで知らない世界に行ってしまったことが悲しくもあった。
「おばさん…… わかってくれるといいね」
そう願うしかなかった。桃たちから話を聞いたとき、流香はおばさんが誰かを好きになったことに反抗して自暴自棄になっていると思っていた。そして、その相手がひょっとすると自分の祖父なのではないかと疑い、自分たちの澄んだ世界に入り込んでくる異物が流香母娘じゃないかと、詩音は少しだけ警戒心を持ったのだ。だから、祖父の反応を確かめようとしたのだが、それらすべては自分の身勝手から始まった妄想でしかないことに気付き、詩音は身の置き所がないほど自分を恥ずかしく思った。少なくとも、流香自身には何ら関係のない話だったのだから。
「私が大学卒業するまでは、なんてこと、どうして考えついちゃったのかね」
窓の外を眺めながら、流香は寂しそうな顔をした。
「とっととそれぞれの生活を始めればいいのにさ。自分の成長を目印にして生きられたんじゃたまんないって」
詩音には実感がなさ過ぎて流香の心の重荷が理解できなかった。しかし、流香以外にも両親のことで嫌な思いをしている友達は何人もいたし、大抵は平気そうに見えたから、その心の内側を考えることがなかっただけで、それぞれにそれぞれの思いを抱えているんだろうということだけ、少しわかった気がした。
「…… わかってくれるといいね」
流香の気持ちが伝わればいいと思った。流香が導き出した答えが誰にとって正しいのかそれは判断できなかったが、流香の折り畳んだ翼が、空に向けて自由に羽ばたけばいいのにと、そんなイメージが詩音の脳裏に浮かんだ。
「日曜日だし、ママもお店がお休みだから今日のうちに話しちゃおうっと」
流香がひとりごとのように決意表明した。
「わかってもらえるといいね」
「シオン、さっきからそればっか」
「だって……」
詩音の目から涙が零れた。流香はその涙が自分のために流されたのだと気づき、詩音にいつもの綺麗な笑顔を見せた。
「ルームシェア、考えてね」
「うん」
詩音は大きく頷いた。
電車は進行方向左手から秋の夕陽を受けていた。車内の人それぞれに長い影が延びている。装いは人にそれぞれだが、出来上がる影は同じ色合いでしかない。ある本に、幸福は一様で不幸は人にそれぞれだとあった。だが、この車内を見渡す限り、不幸の影も一様でしかない。今、流香が抱えている問題は、いずれ自分の身にも起こりうる一様のことだと詩音は自らを納得させようとしていた。
「おばさん、きっとわかってくれるよ」
詩音が発した言葉に、流香は綺麗な笑顔で応えた。
「詩音にあの場所で出会えたのは神様のおかげかな?」
「神様? うん、きっとそうだよ」
「パパがね、ルカって名付けた理由を教えてくれた時、神様の話してた。あの話、好きなんだよね。知ってる? エヴァンジェリストのルカって?」
「アニメ?」
流香がプッと吹き出したので話はそれきりになった。だが、窓の外の流れる景色を眺めていたその時の横顔は、流香史上でも最高に綺麗だと、詩音は心からそう思った。
※本作品は未成年の飲酒を推奨するものではありません。




