幻想的謎の謎
本格ミステリーの定義を「幻想的な謎と、高度な論理性の二つを有する(形式の)小説」とした島田荘司だったが、ひときわこだわりを見せるのが第一条件の幻想的謎である。「ユニークな幻想味」、「強烈な魅力」、「詩美性」、「神秘性」等々、あるべきものとして論中さまざまな言葉で繰り返し形容される「謎」だが、まずこれがなければ本格ミステリーは成立しえないのだという。その根拠として挙げられたのが、神話をルーツとする「超日常性、超常識性、そしてある種の幻想味をともなった」幻想小説の流れと、日記・記録的な性格をもつ現実性に根ざしたリアリズム小説の傾向の、ふたつの系譜があるという二元論的な考え方だった。そして探偵小説は、幻想小説的センスを有した「ミステリー」と、リアリズム志向によった「推理小説」に二分され、前者こそが「本格ミステリー」になりうる第一条件を満たすのであり、後者はおしなべて「応用的推理小説」でしかない、と。
そうまでして重要視される「幻想的な謎」とはいったい何なのか。たとえば島田は、同じ『本格ミステリー宣言』収録のインタヴューで、創作時に本格ものと、トラヴェルミステリーやユーモア、そして女性を主人公にした心理サスペンスものなどとに、作品の方向性を厳密に書き分けていることを明かしてから、つづけてその理由を問われ「今回は密室物をひとつとか、アリバイ崩しを一発、というふうに発想することは絶対にありません」と答えたうえで、こう語っていた。
クリエイトしたいからです。ポーのようにね。
ミステリーとは「謎」なんですね。上質で、美しい「謎」。僕が創りたいものは新しい「謎」なんです。もうひとつの「密室」なんかじゃありません。密室であったり、時刻表が出てきたりするのは、謎をクリエイトしたたまたまの「結果」なんです。この逆をやると、同じフスマを大量に造るとか、蛇の一筆描きを大量に描くとかの、あまり高級でない種類の職人芸に堕してしまう危険がある。だって自分で壁を立ててしまう行為ですからね、それは。作品が小ぢんまりするのは当然でしょう。僕はもっと自由にやりたいんです。
島田にとって本格ミステリーとは第一に、独創的で魅力的な「謎」が突出して表現されている小説なのだ。ミステリーが字義どおり謎であるためには、不可解、不可思議な現象をテーマとするならば、正しく、それはまだ誰も知らない、これまで経験したことのないような未知の事柄でなければならない。殺人現場が密室状況であるとか、容疑者に通常の列車ダイヤでは犯行におよぶことが不可能なアリバイがあるとか、そういった謎はパターン的かつ既存にすぎて、もはや謎=ミステリーとは呼べない状況にある。
言い換えればそれらは、既知の謎とでも表せるだろうか。すでにおなじみの、定番化した謎の設定は謎ではない、創作的怠慢の上にあぐらをかいた作り手と、それを約束事のごとく安易に許容し使い捨てのように消費する受け手との、共犯関係で成り立つ惰性のジャンル小説でしか。
繰り返すが、本格ミステリーであるためにはまず第一に、既知ではない、未知の謎ともいうべき「幻想的な謎」が核に必要である、というのが島田荘司の主張である。「幻想的な謎」とは、神話の系譜にある幻想小説のエッセンスと同質であるということも意味する。神話的物語を説明するのに動員された「超日常性」や「超常識性」という表現がまさに、「幻想的な謎」を彩るさまざまな形容詞の意味に通底して対応している。この必須条件が、時代が経るにつれ忘れ去られたことで、あるいは幻想小説的センスをもたないリアリズム志向の作家たちが真似ることで、ミステリーとは名ばかりの「応用的推理小説」が量産された。
ポーが『モルグ街の殺人』を書いたとき、密室は当然ながら未知の、文字どおりミステリー=謎だった。それが島田のいう、幻想小説家エドガー・アラン・ポーが最初に発想した本格ミステリーの精神であり最重要なコンセプトである。そうである以上、ミステリー=謎とは、既存のパターン的なものではなく、前代未聞ともいえるほどまったく新しいものであらねばならない、と。
この主張に無理はない。しごく筋の通った理屈ではある。「ミステリー」小説と銘打たれ一般に認知されている以上は、作品のメインテーマとして謎が前面に、ないしは全面におしだされて当然だろう。そしてそれがただのミステリーではなく、「本格」ミステリーとして強く意識され創作されるのならば、謎が謎として認識されるにはそれは原理上、未知の体験に等しいものでなければならない。ここに格別おかしな点はない。ここまでは理にかなった的確な説明だし、聞いて誰もが納得できる水準だろう。
がしかし、島田荘司の本格ミステリー論が真に独自性と特異性を発揮するのは、この先に進むもう一歩踏みこんだ議論でである。
江戸川乱歩がかつて記した有名な探偵小説の定義「主として犯罪における謎が、論理的に解明されていく小説」という論にも島田はふれている。しかしくわえて述べるのが、それはそれで卓見ながら乱歩のその理解では「推理小説」の定義でしかなく、「本格ミステリー」としてはプラスアルファを付け加える必要があるという独自の考えである。「これが先の、幻想味、詩美性、といった、“幻想小説としての要素”なのである」と再度強調してから、問題の根を掘り下げている。
「ミステリー」、「推理小説」全体に関してこの定義でよしとしてしまったことが、今日あちこちでささやかれる、ミステリーの行き詰まりの遠因となっている。また、「ミステリー」、「推理小説」、この両者の境界線も曖昧にしてしまった。たとえば密室、たとえば消える意外な犯人、たとえば夜歩く亡霊、これらの形式ばかりが一人歩きし、本来これをサポートするべき幻想小説的センスが、過去の地点に置き去りになってしまった。これでは「密室」も、「消える犯人」も、読む方にとっては必然性に乏しく、とってつけたような仕掛けに感じられてしまう。
その具体的な失敗例としてとりあげられるのが、やはり「密室」なのである。ポーが『モルグ街の殺人』を創作したとき、念頭にあったヴィジョンとは「幻想的な謎」を出現させるという発想であって、けっして「密室」という形式なのではない。その原点の特殊な感性をまったくもたないまま、時間の経過とともに忘れられてしまうのはしょうがないとはいえ著しく誤解したままでは、「密室」のような一見ミステリー的現象に感じられる演出を再現してみたところで、それはただの二番煎じ三番煎じにしかならない。
(中略)過去日本人作家に、このあたりの解釈の誤解がよく行なわれた。たとえば、明らかな“他殺”死体が密室の中に置かれており、しかも超自然現象と見せるわけでもなく、密室であることが、とりたてて犯人の保身につながっているわけでもない、といった間違いである。
これは、作者が新手の物理的密室構成法をひとつ思いついたので、ただただ行なったというにすぎない。これは、新トリックの案出が、すなわちミステリーの創造と混同された一例である。
島田荘司はここで驚くべきことを断じている。作者にも読者にもごくごく素朴に発想されているだろう、本格ミステリーはまずトリックありきというような常識的な考えを、なんと真っ向から否定しているのである。いわば、トリックはいらないと。正確には、トリックは必ずしも条件として必要ではないと、説明するのである。
それだけではない。しかもそれは「結末の意外性」や「殺人」ないし「犯罪」、はては「意外な犯人」、「名探偵」などといった、ミステリーの魅力として真っ先に誰もが脳裡に思い浮かべるおなじみの要素やワードも同等に否定されるのだ。
(中略)たとえばまず「結末の意外性」である。これなど、作品冒頭に出現する幻想的な、それとも詩美性のある謎が、大きく、かつ不可解であればあるほど、これが解明される結末においては、当然意外性が大きくなるに決まっているからだ。
また、こうもいう。
次に「殺人」や「犯罪」についていえば、これも「結末の意外性」と同様で、冒頭において強烈で、吸引力のある、しかも魅力的な謎を構成しようと思うなら、「殺人」もしくは「死体」による以上のものはこの世に乏しい、という事情が厳然とあるのである。だから過去多くの作家は、「ミステリー」というと判で押したように人を殺してきた。
しかし「殺人」や「死体」に頼らず、今まで以上に強烈で吸引力のある謎が提出できるなら、これはその方がさらに良いというのが筆者の考えである。現在、「本格ミステリー」のトリックやアイデアの枯渇が言われているのであれば、今後、これに頼らない謎がどしどし現れることこそむしろ望まれるべきである。
この文脈にそって「トリック」もまったく同様に、「冒頭に突拍子もない謎を創り出すには、まず間違いなくトリックに頼らざるを得ないのである」からしておのずと使用されるし必要とされる、という性質のものであるだけで定義上の絶対必須条件ではない、とつづく。
したがって先の「殺人」と同様、強烈で魅力的な謎がトリックなしで創れるなら、これはその方がむしろよいと筆者は考える。現在、トリックの枯渇がさかんに叫ばれるからである。
独創的な謎を演出できるならば、「殺人」も「死体」も何らかの「犯罪」すら必ずしも必要としないし、「結末の意外性」をわざわざ用意する必要もない、それはおのずと結果として導かれるものなのだから。島田はこう断言してはばからないのである。「トリック」もまた必要ないとまで。
しかし、と「トリック」に関してはもう少し複雑で慎重な註釈が入る。独創的で魅力的な謎の創造こそが本格ミステリーにおいて最大かつ最重要のテーマであり目的であるのだとしたら、トリックなしでそれが可能というならそれに越したことはない、どんなジャンルにおいてもまったく新しいアイディアの案出は難しいといわれて久しい昨今、斬新なトリックを一から生み出すことがもはや不可能に近い現状ではなおのこと──だがおそらく「それは、筆者の想像が及ぶ限りは到底無理なのである」。
(中略)神秘的な謎の創造が第一で、トリックは二次なのであるから、すでに存在するいくつかの知られるトリックを組み合わせ、これによって、今までにない新しい「謎」が創れるなら、この作家の仕事は成功であり、創造であるということである。
つまり先人の創案になるトリックが、後人によって“知りながら再実行”される場合においては、このような、新たな謎の演出に必要不可欠な場合においてのみ、正当である。すなわち、新たなミステリーが作中に現われたか否かを、研究者は新作品に観るべきである。あるトリックは、これを創案したただ一人の作家のみ使用可能なものとする考え方は、ミステリーの発展をはばむであろう。
ミステリー/推理小説を創作する場合、通例として自然に発想されるのは、まずトリックを考えるというところからではないだろうか。これは一度でも書いたことのある、あるいは書こうとしたことのある人間ならば誰でも実感、実体験としてすぐに理解できるはずだ。トリックから話をつくる──純然たる読者の立場であっても、それは容易に想像はつく。
であるにもかかわらず、島田荘司の主張するところはその真逆である。本来ミステリー作家が創作において傾注すべき力点は、新しいトリックの創出などではなくあくまでも、新しいミステリー=謎の創造である。だからこそトリックは二の次三の次、いちばん最初の発想としては、トリックを考えてから作品を組み立てるという方法論に頼らず、どんな不可思議な現象が起きたらおもしろいかと、構想するところからスタートするのが本来的であり望ましい。そのためにミステリー現象を説明するトリックが、たとえ二番煎じ三番煎じになっても、既存のトリックをリアレンジしたものでも、いっこうにかまわないとまでいうのだ。
幻想的で独創的な謎こそが、本格ミステリー小説の要であり、いま、最も求められている。島田の論において第一義に中核を占めるのは、徹頭徹尾この主張にほかならない。そしてその幻想的謎を有する本格ミステリーを本格たらしめんとする第二の重大要素こそが、「高度な論理性」なのだ。