エピローグ
いらっしゃいませ。本日のお話は、4400文字です。長くなってしまいましたが、これで完結です。
よろしければぜひ、読んでいってください。
僕は今、操縦者を含めて大人四人が乗れるくらいの小型船を借りて、茫洋とした海洋を迷い無く直進していた。
船首が海面を切り裂く時に出来る白波が、時折霧吹きで吹いたように顔を濡らす。
前の操縦席では、舵を取る船主が不安そうな声を上げた。
「おい兄ちゃん、本当にこっちでいいんだろうなぁ」
船主は、もう何度目かになる台詞を口にした。
僕は少し苛立を覚えながらも、「大丈夫だ」と、これまた何度目かになる返事をした。
確かに、僕が彼にやらせている事というのは、少々非常識なのだ。
海図も航海計画も何も無く、事情すら話していない状態で、洋上をただまっすぐ進ませる。それだけだ。
僕には躊躇いなど無いのだが、ここ数時間、出会う船すら無いのだから、船主のいう事は尤もで、常識的だった。
僕は息を深く吸い込んで、そして吐いた。強い潮の香りが鼻孔を満たし、自然に肩の力が抜けていく。
それから僕は、ズボンの後ポケットから小さな布を取り出した。見た目はハンカチと変わらないが、それには香水を僅かに染み込ませてあった。
その布で口と鼻を覆うと、懐かしさすら連れてくるあの香りが、僕の意識をゆっくりと引き剥がし、空に放り投げた。
そして、僕はある船室で目を開けた。小さな丸い窓から差し込む僅かな朝の光だけで、仄明るい部屋だ。
ベッドが半分を占めてしまうくらい狭い部屋を見回す。ゆっくりと名残惜しそうに。
エミーが息を吐くと、白い霞のようなものが口から吹き出た。今、彼女のいる海域は、冬を迎えていた。
彼女はあの後、エンブリッジ・ファミリーに引き取られることとなった。
エンブリッジ・ファミリーは、アランとその妻タニアの二人暮し。二人の間に子供はいなかった。
僕がその二人の名前などを知っているのは、ここへ来るのが初めてではなかったからだ。
エンブリッジ夫妻は暖かくエミーを迎えたが、彼女が心を開く事は無かった。
大人に養われる事を嫌悪していたエミーは、自分が描いた絵を売って、それを生活費として受け取るよう、夫妻に言った。
夫妻は、「そんな必要はない」と言ったが、頑ななエミーの態度についに折れたのだった。
船室を出ると、アランとタニアが廊下で待っていた。
エミーは面食らってしまったが、すぐに心を鎮め、いつも通りの落ち着きを取り戻した。
「今までお世話になりました」
彼女は、抑揚を抑えて言った。
「どうしても出ていくの?」とタニア。
「はい。行かなくちゃ」
「わかった。それじゃあ、これを」
アランはエミーに小さな冊子を手渡した。それは預金通帳だった。
それを見て、エミーはその金額に驚いた。
「これは?」
「あなたのお金よ」と、タニア。
「私、お金なんて……」
「でも、君が稼いだお金だよ」
アランは伏し目がちにそう言った。
「稼いだ?」
エミーは心当たりに気付いた。彼女がここへ来て描いた絵。
「でも、あの絵は生活費だと!」
「受け取れる訳ないでしょう。あなたは、たったの三年間だったけど、私の娘。それに、あなたが私たちのファミリーに来ることになった理由は知っていました。だから、あなたが十八になった時、多分独り立ちを選んで、ここを出るというのもわかっていました。
そうなると、あなたには船が必要になるでしょう? 家族と一緒に暮らすための大きな船が。だから、そのお金は必要な筈です」
エミーは背筋を撫でられるような感覚で、身震いをした。
ここにいる二人は、彼女が今までに出会った事のあるどんな大人とも違う。それを、今になって知ったのだ。
それまで緊張して強張っていた全身から、必要の無かった力だけが抜けていく。
彼女は俯いて小さく呟いた。
「私、今まで怖かった。この日が来るのが……」
「どうしてだい?」
アランは彼女の顔を窺うように、首を横に倒して聞いた。
エミーは顔を上げて、二人をしっかりとした視線で捉えた。
「私は今日で大人になりました。だけど、なりたくはなかった」
エミーが知る大人のほとんどが、彼女を裏切り、酷い仕打ちをしてきた。
そんな彼女は、大人を信じる事がどうしても出来なかった。
だからこそ、自分が大人になるのを、彼女は恐れていたのだ。
その恐怖心が消えた今、彼女は夫妻に頭を下げた。
「ありがとうございます……いえ、ありがとう、お父さん、お母さん」
そうやって、家族の一員として呼んでもらうことの嬉しさを、彼女は身に染みて知っていた。
「こちらこそ、ありがとう、エミー」
「ええ。ありがとう」
夫妻はそう言って、エミーに頭を上げるよう促した。
エミーは、ごく自然に笑みを浮かべていた。
「それにしても、私がここに来て描いた絵は全部で十枚くらいですよね。これだけの金額になるとは思えないんですけど」
彼女は受け取った通帳を見ながら、不思議に感じていたらしい事を口にした。
「そんな事無いわよ。一体、どれくらいだと思うの?」
エミーは、自分が生活費を稼ぐ為に、かつてジョシュアを介して売っていたくらいの値段を言った。
「それは安すぎるわ」
「そうなんですか?」
「あなたが絵を直接売っていたの?」
「いえ、人を介して」
アランは憤然として言った。
「その人は、随分安く買い叩いていたんだな。今、君の絵は、新進気鋭の絵描きとして、画壇で高く評価されているんだよ」
エミーはそれを聞いて、ただただ目を丸くするばかりだった。
僕は何だか安心して、意識を彼女から離した。
「兄ちゃん、あれか! あの船なのか!」
僕が半分の意識と合流していた時、船主が風や波、エンジンの発する音に負けないような大声で叫んでいた。
僕は慌てて自分を取り戻し、彼が指差す水平線に目を向けた。
微かに掛かる靄の向こうに、確かに船が見える。もう少し近くならないと、はっきりとした事は言えないが、僕には確信があった。
「あれだ!」
叫んで、僕は思わず立ち上がった。船が揺れ、僕は一瞬のうちにそのまま倒れて座り込んでしまった。
青の景色の中に、ぽっかりと浮かんでいる、一隻の船。その船影は徐々に大きくなり、はっきりとしてきた。
船は少しずつ減速していく。風と波の音が、それに合わせて減退した。
船主は、さっきと同じくらいの声量で、言った。
「凄いな、兄ちゃん。本当に見つけちまうとはな。どんなトリック使ったんだ?」
「トリックなんて、そんな」
僕は言葉後を濁して、その質問を回避した。
そうこうしているうちに、エンブリッジ艇の船が、はっきりと見えてきた。
甲板には二人の影があった。目を凝らしてみると、やや年配の男女のようだった。エンブリッジ夫妻だろう。
しかしそこに、エミーの姿は無かった。甲板に、視界を遮るような障害物も無い事から、彼女はまだ船内にいるらしい。
すると、気まぐれなそよ風が、男性の小さな声を連れてやって来た。
「おーい、来たみたいだぞー」
その声は、扉の向こう、船内に向けられていた。
やがて、船内へと続くであろう扉が、勢いよく放たれた。
始め、何かよくわからない塊が、狭い扉枠を無理矢理くぐって出て来た為、それが人であるという考えは、浮かんでこなかった。
しかし、塊が甲板にふらふらと出て来てしまうと、人の手足が見えて、取り敢えず、誰かが信じられないくらいの荷物を運んでいる、という想像が生じた。
僕は空気を思い切り吸い込んで肺を満たすと、腹の底から涌き上がる力の限りに叫んだ。
「エミーーーっ!」
塊だったものから、大量の荷物がドサッと落ちた。その音が聴こえるくらいの距離まで、僕の乗る船は近付いていた。
荷物で隠れていた、三年ぶりのエミーの姿。
二つの船は接合された。
僕は飛ぶような勢いで、エンブリッジ艇へ乗り移った。
人目も気にせず、僕等は三年ぶりの再会に、抱き合って喜んだ。
「い、痛い」
「あ、ごめんなさい」
エミーは、僕の体に回していた腕を慌てて解き離し、謝った。
「相変わらずの腕力だな」
「それはちょっと、女の子に言うには失礼よ?」
笑顔のまま、エミーは怒りの込められた穏やかな口調で返した。
「それにしても、背、伸びたね」
そう言われると、エミーの頭頂部は僕の肩の辺りにある。以前は確か、鼻の辺りだったような気がした。
その時、僕の背後で男の人が咳払いをして、僕達の注意を惹き付けた。
振り返ると、アランが視線を下に向けて、咳払いの続きをしていた。
タニアが口を開いた。
「あなたが、ジェイク?」
「あ、はい」
僕が答えると、タニアは目を丸くして驚いた表情を顔に浮かべた。
「本当に来たのねぇ」
「エミーを迎えにくるのが、三年前に交わした僕等の約束でした」
首を横に向け、僕はエミーに目配せをした。
彼女は一歩進み出て、頭を下げつつこう言った。
「お父さん、お母さん。お世話になりました」
アランはエミーの前までやって来ると、そのままの姿勢で答えた。
「礼を言うのはこちらの方だよ」
タニアも彼女の前に立った。
「私達には子供いなかったから、この三年間は夢みたいだったわ。ありがとう。さ、顔を上げて?」
しかし、エミーはタニアの促しに応じる事無く、頭を上げない。代わりに、涙声で訥々と言った。
「私は、悪い娘だったわ。意固地で……言う事も聞かなかった。何よりも、二人を信じてあげられなかった! ごめ、んなさい」
僕はエミーの背中に手を当てた。彼女の全身には力が込められていて、僅かに震えていた。
涙は頬を伝って雫と変わり、顎から床にこぼれ落ちた。
「いいの。そんな事はいいのよ。だから、謝らないで、ね?」
タニアの涙腺もそれに応じるように涙を作り、瞳の端から流していた。
アランは歯を食いしばり、鼻の頭を赤らめて、首を震わせて、涙を堪えていた。
やがて、エミーは顔を上げた。それから、三年間家族だった二人と、無言で抱き合った。
いや、三年の間育まれた彼らの絆を、過去のものとして扱ってはいけない。僕等だって過去の絆で繋がっていただけになってしまうから。
家族は別れてもその絆を失わない。それを証明する為に、僕とエミーは約束を交わしたのだ。
僕達は、エンブリッジ艇を後にして、僕が乗って来た船に移った。
エミーが持ち込もうとした荷物のほとんどは、エンブリッジ艇に残していく事になった。
小型艇が離れていくと同時に、船主は僕に尋ねた。
「兄ちゃん、次はどこへ行けばいいんだい?」
僕は黙り込んだ。エミーを迎えにいく事ばかりが先行して、その後を考えていなかったのだ。
すると、エミーが告げた。
「船を買える場所に行ってください」
船主は「え」と声を漏らしたが、その後短い笑い声を上げた。
「二人の新居かい?」
「ちょ!」
僕が叫ぶと、落ち着いた様子でエミーが首を横に振って返す。
「いいえ」
僕はエミーを、穴が空くような視線で見詰めた。
彼女はそれに気付かないのか、それとも意に介していないだけなのか、落ち着いたまま続けた。
「七人の新居です」
僕は安堵の溜め息を吐いた。
どうしたの? そう尋ねるように、エミーは無言でこちらを見て返した。
僕も口で何か言うのをやめて、エミーの肩に腕を回し、素早く引き寄せた。
ここまでおつきあい頂いた方に、心よりお礼申し上げます。
「暮れて惑うは幽霊船」、ここに完結しました。
ありがとうございました。
また、機械がございましたら、その時もよろしくお願いします。




