道行く人に優しくしなさい
作者: NAO
掲載日:2026/08/06
幼い頃から「道行く人にやさしくしなさい」と、母は口癖のように言っていた。
だから私は、道端で立ち尽くす人を見ると、足を止めてしまう。
そんな嫌な習慣のせいで、今日も当たり前のように声をかけてしまった。
「どうしましたか?」
赤と青のトリコロールが回らなくなって久しい理容店の前、その店は、古い路地にあった――シャッターは、何年もおりている。都会の駅裏の狭い路地裏の店、辺りはすでに暗闇に包まれている。
本当はいつも通らない道だった。
今日はどうしても悲しいことがあった。
一刻も早く帰りたくて、人通りの少ない路地裏を選んだ。
声をかけたその人は、黒い長い髪にロングコート。
前髪は目にかかっており、瞳は見えそうで見えない。
なんとなく、立ち止まって困っていそうな雰囲気の女性に声をかけた。
「――て」
何を言っているんだろうか、女性は俯いたままで聞き取れない。
体調が悪そうに徐々にその場へ座り込んでしまう。
「……救急車呼びますか?」
私は困り果て、うずくまる女性に声をかけた。
彼女に近づくとなんだか、腐ったような異様な匂いを感じて気持ち悪い。
黒い髪にロングコートの女性は、ただ震えるだけで返事をしない。
私は反応がないことに、途方に暮れていた。なんで、この道を通って、人に声をかけてしまったんだろう。
声をかけてしまった以上、具合の悪そうな女性を放置し、立ち去るわけにもいかない。
――そもそも、悲しいことがあって、この道を通ったんだから、他人にかまっている暇はないのに。
私は、もう一度、道にうずくまる黒髪女性の顔をじっと覗き込んだ。
「――い」
震える声で何かを一生懸命言っている。もう、素通りしていいのだろうか。もしかしたら、この女性も関わられるのが嫌なだけかもしれない。だから、震えて何も話さないのか。でも、覗き込んだ顔には、どこか見覚えがあった。
「どこかで、お会いしたことがありませんか」
「――い、――い」
よくよく観察してみると何かに必死だ。
私は、その言葉が妙に気になり、立ったまま女性の肩に手を置き、女性の顔を覗き込んだ。
「ひ」
恐怖に顔をあげた女性に、見覚えがあった。でも、理由が思い出せない。湧き上がってくる気持ち悪さ、憎しみ、何とも言えない感情が、胸の底から湧き上がってくる。この女性と会うのは、初対面のはずだ――初対面?
「さい」
女性は私をしっかりと見ていた。
言葉は聞き取れなかったが、口の動きを見ると謝罪の言葉を繰り返している。――ああ、こいつは、会社の同僚だった女だ、そのことを私は思い出した。でも、理由、理由が思い出せない。
き、きらい、こ、この女がきらい。でも、なぜ。いやだ、帰らないと。
赤と青のトリコロールが回らなくなって久しい理容店の前、ここを通り過ぎると私のアパートは、すぐそこだ。早く帰って、この赤く汚れた体を洗い流さないと――職場で、また、馬鹿にされてしまう。私は、とにかくその場を離れようと思い、家に向かって走り出した。
そうして、私はまた、立ち止まっていた。
赤と青のトリコロールが回らなくなって久しい理容店の前、その店は、古い路地にあった――シャッターは、何年もおりている。都会の駅裏の狭い路地裏の店、辺りはすでに暗闇に包まれていた。
幼い頃から「道行く人にやさしくしなさい」と、母は口癖のように言っていた。
だから、困っている人を今日も待っていた。
完




