5.アトリ
次に、――アトリ。
君のことを話しておかなくてはいけない。
一言でいうなら、君はあまりにも自由な奴だった。
脳を除いたその身体のほとんどが冷たい金属に置き換えられていたけれど、君の奔放な発想は、そんな窮屈な器には到底収まりきるものではなかった。
***
「ねえ、犬飼おうよ犬!」
「……は? ……イヌ?」
ある日突然、アトリは脈絡もなくそう言った。
「犬、知らないの? ほらこれ!」
そう言ってアトリが展開させたのは、粗い解像度の3Dホログラムだった。白くて、もこもこした四つ足の生き物が、楽しげに足元を跳ね回る。そんな短い映像が10秒ほど再生され、ぷつりと消えた。
「……知ってるけどさ。ここじゃ無理だよ。そもそも、まだ生きてる犬なんて存在するの?」
生き物の気配がすっかり途絶えてしまったこの世界で、僕の疑問は当然のものだった。けれど、アトリは不敵に、そして誇らしげに胸を張ってみせた。
「そんなの分かってるってば!だからさ、創ればいいじゃん。このつまんない端末の設定をごにょごにょっていじって、この中で飼おうよ!」
そう言って差し出されたのは、黒い耐衝撃カバーに覆われた味気ないタブレット。本来は僕たちのバイタルを監視し、健康状態を厳格に管理するためだけに存在する、冷徹なAI搭載の端末だった。
「ごにょごにょって……」
苦笑いしながら、僕はその無骨な端末を受け取った。 口では呆れつつも、僕の指先はすでに、このお堅いセキュリティのどこにバックドアを作るか、頭の中でコードを組み立て始めている。
――そのわずかな沈黙を、「出来る」というサインと受け取ったのだろう。アトリはぱっと顔を輝かせると、部屋の奥に向かって大声を張り上げた。
「ねえ!みんなどんな犬がいい!?犬って、種類によって見た目が全然違うみたいでさ!」
アトリの呼びかけに、子供たちが「なになに?」とわらわらと群がってくる。その場は一瞬で即席の「犬の品評会」へと変わった。各自が古いデータベースから画像を引っ張り出し、声を弾ませる。
「オレ、このかっけーのがいい!シェパードってやつ!」
「ダメ、却下」
エミリオの熱いプレゼンは、ミラーナによって秒で却下された。
「なんでだよ!」
「かわいくないもん。ねえ、あたし、プードルがいい。見てよこれ、モコモコしてて超かわいい!」
外野がやんやと盛り上がっている間に、僕はハッキングの理論構築を完了させていた。電脳の深層へピンポイントに潜行できる僕の技術と、ネットワーク全体へ広く干渉できるレイの索敵能力。この二つを掛け合わせれば、健康管理AIの監視の目を盗んで、未知のオブジェクトを割り込ませることなんて造作もない。
僕とレイが静かにシステムを書き換えている間に、現実世界のパワーバランスはミラーナに傾いたようだった。
起動した画面の隅で、モコモコとした可愛らしい犬のグラフィックが不器用に尻尾を振る。そいつは「ポッチくん」と命名された。
退屈だった健康管理AIはポッチくんの健康管理ゲームへと早変わりした。
だが、――数日後、ポッチくんは、ヘッセン中尉に発見される。僕たちは大目玉を喰らった挙句、端末を没収されたのは言うまでもない。
アトリを起点としたこうした悪巧みのような余興は、その後もたびたび開催された。閉ざされた籠の中にいる僕たちに翼を思い出させてくれる、世界で唯一の存在。――それが、アトリ・フィンチという少年だった。
僕たちが、そんな君にどれだけ救われていたか。きっと君は知らないんだろうけどね。
……
…
午後の光が斜めに差し込み、コンクリートの床に長い影を落としていた。 スロープの起点に佇むのは、限界までカスタムされた一台のレイの車いす。
背面には薄いファンのようなハブモーター、ホイールはベアリングを増し締めされ、補助ローラーが左右に二つ。フレームには色付きの絶縁テープで目印が貼られ、ブレーキレバーには子どもたちの手作りのトグルスイッチが不格好に突き出ている。
――アトリが「もっと速くなれるよ!」と目を輝かせながら、ジャンクパーツをかき集め、みんなで組み立てたものだった。
「レイ、準備できた?」
最終的な調整を終え、僕は彼女に訊ねた。
「できた。……いつでも行ける」
レイは笑った。膝の上に置かれた小さな手が、微かに震えている。それは恐怖による緊張ではない。純然たる期待の震えだ。
「安全テザー、よし」
「サージストッパー、よし」
「ギア比――三段目、固定!」
子どもたちが口々にインジケーターを確認し、最後に互いの目を合わせる。
「いくよ――3、2、1!」
スロープへと押し出された瞬間、静かだった風切り音が、一転して高い金属音へと跳ね上がった。小さなファンが猛烈に回転し、ホイールが悲鳴のような音を上げる。
車いすが弾丸のように走った。
レイの髪が後ろへ流れ、頬が引き上がる。
その目は爛々と輝き、笑っていた。
「速っ……!」
エミリオが半歩遅れて走り出すが、とても追いつける速度ではない。
レイはスロープを一直線に駆け降り、狭い踊り場を計算し尽くされたギリギリの角度で回り込んだ。追加した補助ローラーが「キン!」と甲高く鳴り、摩擦熱で床のペンキを薄く削り取る。
そのまま次の直線に入る――
「ストップストップストップ!レバー引いて!レバー!」
「分かってる!」
蛇腹シャッターの直前、レイは手作りのレバーを思い切り引き絞った。改造したブレーキがうなる。床に二本の黒いタイヤ痕が短く刻まれ、車いすは美しい放物線を描いてピタリと停止した。
世界が一瞬遅れて追いつく。
レイは、胸いっぱいに溜めていた息を弾けさせるように笑った。
「……すっごい。ねえ、もう一回。もう一回やりたい!」
子どもたちは一斉に駆け寄る。
「タイムは?」
「ログ取れた?」
「最高速いくつ?」
「すごいよレイ!」
「もっといけるかも!」
「――何をしている」
低い声が、鋭く落ちた。
廊下の向こう側に、ヘッセンが立っていた。隙のない無駄のない立ち姿。しかし、その双眸だけには深い疲労の色が滲んでいる。
子どもたちが一斉に固まった。足元で、転がった工具がひとつ、床に小さく乾いた音を立てた。
ヘッセンは限界まで改造された車いすを一度だけ見、レイを見、そして子どもたちを見据えた。深く息を吸い、吐き出す――どこか深い諦念のような疲労が混ざっている。
「……お前たちは有り余る能力を持ちながら、何故、出力先をこんな低俗な余興に落とす……」
沈黙。
次いで、子どもたちの間で小さな、緊張感のないざわめきが起こる。
「てーぞくってなに?」
「さあ、知らない」
「褒められたのかな」
「いや、絶対ちがう」
ヘッセンは目を閉じ、静かにこめかみを押さえた。抑えきれない独り言が、わずかに唇から漏れる。
「これでは戦場に出る前に……死ぬ」
「ヘッセン中尉、わたしが――」
レイが口を開こうとした瞬間、アトリがそれを遮るように勢いよく前へ出た。
「中尉、すみません!どれくらい速くなるか、どうしても知りたくて……!僕がやろうって言い出しました!」
「速度値を気にする前に、危険値を考えろ――この馬鹿者が!」
ヘッセンの怒声が鋭く響き渡り、廊下の空気がピキリと震えた。子どもたちが一斉に肩をすくめる。
「全員の連帯責任だ。五分以内で原状復帰。レイは開発局へ直行し、全身検査を受けろ。先ほどのログは私へ提出、私的保存は一切禁止とする。以上」
「えー……」
小さな落胆の声がいくつか漏れた。
特に“私的保存禁止”という項目に対して。
「わ か っ た な」
「「はいッ!!」」
今度は綺麗に揃った返事だった。
彼らは蜘蛛の子を散らすように散らばり、手際よく作業へ移る。テープを剥がし、工具をまとめ、即座にログを削除し、床の黒い擦過痕を拭っていく。
レイはブレーキを外して車いすを自走させた。その指先には、まだ微細な震えが残っている。それは恐怖ではなく、紛れもない嬉しさの余韻だった。
ヘッセンは、レイの進路にさりげなく歩調を合わせた。ぶつからない一定の距離を保ちながら、黙って付き添う。
「レイ」
彼女は振り返らず、「はい」と短く応じた。
「先ほどの走行評価は」
軍人としての冷たい問いかけ。そのとき、午後の傾いた光が横から差し込み、振り返ったレイの横顔をまっすぐに照らし出した。
「……すごく、楽しかったです!」
その無垢な明るさが光に反射し、陰鬱だった廊下の空気の色まで一瞬で変えてしまったようだった。
アトリの“悪巧み”は、いつもこうして、この場所に決定的な光を残していく。
作業を終えて遠ざかっていく子どもたちの足音。どうしても隠しきれない、実験成功の余韻をはらんだ密やかな笑い声。
ヘッセンは小さく、ひとつだけ息をつき、その声に背を向けて歩き出した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
個人的にはヘッセンの振り回されっぷりが好きなんです。
次回はヘッセン視点の話です。




