第七話 爪紅帳は、誰のために残されたのか
怜月殿下の執務室は、後宮の中にあるのに後宮らしくなかった。
香が薄い。
花も少ない。
朱や金の飾りも控えめで、壁際には書架と文箱、簡素な机があるだけだった。窓辺に置かれた青磁の水差しだけが、かろうじて宮廷らしい品の良さを保っている。
けれど、空気は硬い。
白蓮宮の寝殿とも、紅玉宮の香油庫とも違う緊張があった。
ここは女たちが微笑む場所ではない。
誰かの嘘を紙の上で殺す場所だ。
「座れ」
怜月殿下が言った。
私は爪紅帳を抱えたまま、部屋の中央で固まった。
「私もですか」
「立ったまま読めるなら立っていろ」
「座ります」
即答すると、小鈴が隣で小さく笑った。
小鈴、梨春、杏児。
三人ともこの部屋に連れてこられていた。
杏児はまだ顔色が悪い。梨春はずっと自分の右手を袖で隠している。小鈴は怖がりながらも、部屋の配置を目で追っていた。逃げ道を探しているのかもしれない。
私も探したい。
だが、怜月殿下の執務室は逃げ道が少ない。
入口は一つ。
窓の外には庭があるが、そこには衛兵が立っている。
完全に詰んでいる。
「凛花」
「はい」
「今、逃げ道を探したな」
「探しました」
「正直だな」
「嘘をついても、たぶん殿下には意味がないので」
怜月殿下は何も言わず、机の前に座った。
私たちは向かい側の低い卓へ通された。
爪紅帳を広げると、古い紙の匂いがした。
墨。
油。
乾いた香。
そして、ほんの少しだけ爪紅に使う顔料の匂い。
長くしまわれていたものの匂いだ。
でも、死んだ記録の匂いではない。
何かがまだ生きている。
そう感じた。
「読め」
怜月殿下が言った。
「最初からですか」
「違和感のあるところからでいい」
「それが分かるなら苦労しません」
「お前は爪を見るのだろう」
「帳面に爪はありません」
「では、帳面の爪を見ろ」
私は思わず怜月殿下を見た。
「今の、少し無茶を言っている自覚はありますか」
「ある」
「あるんですね」
「だから、お前に言っている」
褒められているのか、無理難題を押しつけられているのか。
たぶん両方だ。
私は息を吐いて、爪紅帳に目を落とした。
古い記録は、丁寧だった。
妃の名。
日付。
爪紅の色。
贈り主。
塗った爪紅師。
どの指にどの飾りを置いたか。
宴や儀式の名称。
それだけなら、ただの化粧記録だ。
けれど、後宮では違う。
桃花色は寵愛。
金は皇帝の祝福。
青は沈黙。
黒は罪。
右薬指は寵愛。
右中指は誓約。
左小指は秘密。
色と指と日付が重なれば、それは言葉になる。
つまり、この帳は爪紅の記録であると同時に、後宮の会話の記録でもある。
声に出せなかった女たちの、爪先の会話。
「……十年前の黒爪の妃のお名前は、記録上では薄くなっています」
私は言った。
怜月殿下が黙っている。
その横顔は動かない。
けれど、小鈴がちらりと私を見た。
言っていいのか、と目が聞いている。
私は続けた。
「墨が薄いというより、あとから消そうとした跡があります。でも、完全には消えていません」
「名は読めるか」
怜月殿下の声が少し低くなった。
「……華姚妃」
その名前を口にした瞬間、部屋の空気が少し冷えた。
怜月殿下は目を伏せない。
だが、机の上に置かれた右手の指が、わずかに動いた。
傷のある親指。
彼の母。
十年前、黒爪にされた妃。
「続けろ」
「はい」
私は頁を指でなぞった。
「華姚妃様の黒爪記録は、三日前から始まっています。最初は桃花色。次に薄金。最後に黒変」
「三日?」
小鈴が呟いた。
「清貴妃様は一日で黒くなったよね」
「うん。そこが違う」
私は頷いた。
「十年前の記録では、三日かけて少しずつ黒くなっています。今回は短時間で黒く見せた。つまり、完全な再現ではありません」
怜月殿下が言う。
「なぜ違いが出た」
「十年前の方法を完全には知らないからだと思います」
部屋の隅で、梨春が小さく息を吸った。
私は彼女を見る。
「梨春さん、何か?」
「いえ……ただ、もし完全に知らないのなら、どうして殿下の爪の傷の印を知っていたのでしょうか」
怜月殿下の視線が梨春へ向く。
梨春は青ざめた。
「申し訳ございません、余計なことを」
「いや」
怜月殿下は短く言った。
「今の問いは正しい」
梨春は目を瞬いた。
叱られると思っていたのだろう。
怜月殿下は怖いが、正しい問いには答える人らしい。
「凛花」
「はい。私もそこが気になります」
「言え」
「犯人は、十年前の黒爪の細工そのものは詳しく知らない。でも、殿下の爪の傷は知っていた。つまり、事件の核心にいた人間ではなく、“火事の時に殿下を見た人間”の可能性があります」
怜月殿下は黙った。
小鈴が少し身を乗り出す。
「それって、火事の時に殿下を助けた人とか?」
「あり得る」
私は頷く。
「もしくは、殿下が帳を持ち出すところを見ていた人」
杏児が震える声で言った。
「十年前の火事で、手に火傷を負った女がいるのですよね」
「梨春さんが見た盆を運んだ人ですね」
「その人が、昔も火事の場にいた……?」
杏児の言葉に、部屋が静かになった。
私たちは皆、同じことを考えていた。
火傷の女。
十年前の火事。
今日、清貴妃の菓子を運んだ者。
その人物は、過去と現在を繋いでいる。
怜月殿下が低く命じた。
「十年前の火事で負傷した女官を調べる」
「記録が残っているのですか」
私が問うと、怜月殿下は少しだけ目を細めた。
「表向きの記録なら残っているだろう。役に立つかは別だ」
「また記録が嘘をつくのですね」
「記録は嘘をつかない」
「え?」
「嘘を書くのは人だ」
その言い方が、少しだけ私の言葉に似ていた。
爪は嘘をつかない。
嘘をつくのは人。
怜月殿下も、きっと同じようなものを見てきたのだろう。
爪ではなく、文書で。
紙の上に残された嘘を。
私は爪紅帳へ視線を戻した。
「もう一つ、気になるところがあります」
「言え」
「華姚妃様の記録だけ、爪紅師の名前がありません」
小鈴が覗き込む。
「ほんとだ。他の妃様のところは書いてあるのに」
「はい。爪紅師の名だけ削られています」
「削られている?」
怜月殿下が立ち上がり、私の横に来た。
近い。
少し緊張する。
私は頁の端を指さした。
「ここです。墨で塗り潰したのではなく、紙の表面を少し削っています。その上から薄く墨を乗せて、空白に見せている」
怜月殿下は頁を覗き込んだ。
黒衣の袖が私の手元に触れそうになる。
私は少し横へずれた。
「なぜ下がる」
「近いので」
「帳が見えない」
「殿下は圧が強いです」
「圧?」
「存在感です」
小鈴が後ろで肩を震わせている。
怜月殿下は私を見下ろし、少しだけ眉を寄せた。
「お前は本当に、緊張感があるのかないのか分からないな」
「あります。だから変なことを言って誤魔化しています」
「誤魔化せていない」
「知っています」
梨春が、涙の跡を残した顔で少し笑った。
杏児も、ほんの少し肩の力を抜いた。
それを見て、私はよかったと思った。
怖い場では、怖い話だけを続けると人は折れる。
前世のサロンでもそうだった。
重い相談をされた時、ずっと深刻な顔をしていると、相手は余計に苦しくなる。少しだけくだらない会話を挟むと、息ができる。
後宮でも、たぶん同じだ。
怜月殿下は、また帳へ視線を落とした。
「爪紅師の名を消した理由は」
「その人を隠したかった。あるいは、その人が誰かに繋がるから」
「爪紅師が事件の実行役か」
「可能性はあります。でも……」
「でも?」
「華姚妃様は、その爪紅帳を殿下に隠すよう言ったのですよね」
「ああ」
「なら、この帳は華姚妃様自身が何かを残そうとしていたものです。爪紅師の名前を消したのが華姚妃様なら、その人を庇ったことになる。逆に、別の誰かが消したなら、爪紅師が犯人側にとって都合の悪い証人だったことになる」
「どちらだと思う」
私は考えた。
頁の削り方を見る。
丁寧だ。
乱暴ではない。
消した人間は急いでいない。
けれど、紙を削る時に少しだけ力が入りすぎている。紙の繊維が一部深くえぐれている。
迷いながら消した跡。
私は、翠蘭の噛んだ爪を思い出した。
迷いながら罪を犯す人間の手。
「華姚妃様ご自身か、かなり近しい方かもしれません」
「なぜ」
「消し方が、怒りよりも迷いに近いです。犯人が証拠隠滅のために消したなら、もっと確実に頁ごと破ると思います。でもこれは、消したいけれど、完全に消したくなかったように見えます」
怜月殿下は黙った。
その沈黙が少し長かった。
私は言いすぎたかもしれないと思った。
怜月殿下の母のことだ。
他人が勝手に感情を読むべきではなかった。
「すみません」
「謝るなと言った」
「つい」
「……母は」
怜月殿下の声が少しだけ低くなる。
「誰かを庇う人だった」
私は口を閉じた。
彼は続けた。
「後宮に向いていなかった。笑うのが下手で、媚びるのも下手で、敵を作るのも下手だった。だが、人を切り捨てるのはもっと下手だった」
清貴妃の言葉を思い出す。
後宮では、優しい女から壊れる。
華姚妃も、そうだったのかもしれない。
「では、爪紅師を庇った可能性があるのですね」
「ある」
「その爪紅師を探すべきです」
「生きていればな」
その一言が重かった。
十年。
後宮では長すぎる時間だ。
証人は消される。
記録は焼かれる。
噂は形を変える。
それでも、爪紅帳だけが残った。
「怜月殿下」
「何だ」
「華姚妃様は、なぜ爪紅帳を殿下に隠すよう言ったのでしょう」
「事件の記録だったからだろう」
「それだけでしょうか」
怜月殿下の目がこちらを向く。
「どういう意味だ」
「もし私が、誰かに何かを残すなら、ただの記録ではなく、読み方も残します」
「読み方?」
「爪紅帳は、爪紅師や後宮の女性なら意味が分かります。でも、当時の殿下は子供だった。爪の色や指の意味を知らなければ、この帳を見てもただの化粧記録にしか見えません」
小鈴が「あ」と声を漏らした。
「つまり、華姚妃様は殿下じゃなくて、将来これを読める誰かに向けて残した?」
「かもしれない」
私は頷いた。
「殿下は帳を持ち出す役目だった。読む役目は、別にいる」
怜月殿下の表情がわずかに変わった。
初めて、心底不意を突かれたように見えた。
「母は、私に読ませるためではなく、誰かに渡すために残した……?」
「その可能性があります」
「誰に」
「爪紅師です」
私は帳の削られた部分を見る。
「消された爪紅師の名。その人に、あるいはその人と同じ技術を持つ誰かに」
沈黙。
長い沈黙だった。
小鈴がぽつりと言う。
「それ、凛花じゃない?」
「違う」
私は即答した。
「十年前、私はいません」
「でも今読んでるじゃない」
「それは成り行きで」
「後宮で成り行きって、だいたい運命みたいな顔して襲ってくるわよ」
「嫌なこと言わないで」
小鈴は真顔で言った。
「だって、凛花がいなかったら、この帳の削り跡とか黒爪の細工とか、誰も気づかなかったんでしょう?」
私は黙った。
否定できない。
怜月殿下が私を見る。
「母が待っていたのは、お前のような者だったのかもしれない」
「重すぎます」
「事実だ」
「事実かどうか分かりません」
「では、仮の事実だ」
「それはほぼ殿下の都合です」
「都合が悪いか」
「悪いです」
「だが、逃げないのだろう」
私は答えに詰まった。
逃げたい。
本当に逃げたい。
でも、逃げたらどうなるかも分かっている。
梨春も、杏児も、翠蘭も、清貴妃も、南妃も。
そして怜月殿下も。
十年前から割れた爪を隠してきた人を、このまま放っておけるほど、私は器用ではなかった。
「逃げ道が見つかるまでは」
私は言った。
「読みます」
怜月殿下は一瞬黙り、それから小さく言った。
「それでいい」
優しい声ではない。
でも、少しだけ柔らかかった。
*
爪紅帳を読み進めるうちに、三つのことが分かった。
一つ。
華姚妃の黒爪が始まる前日、彼女の爪色は桃花色ではなく、青灰色だった。
凛花の記憶では、青灰は「沈黙の拒絶」を意味する。
つまり華姚妃は、何かを拒んでいた。
二つ。
黒変の三日前から、同じ爪紅師が記録から消えている。
それ以前の数頁にも、同じ筆跡の癖が残っていた。
三つ。
黒爪事件の前後だけ、食事や香油ではなく「爪磨き粉」の記録が妙に多い。
「爪磨き粉?」
小鈴が首を傾げる。
「爪を艶出しするための粉」
「今回の白い粉みたいなもの?」
「似てる。でも、十年前のものは別の種類かも」
私は頁をめくる。
「華姚妃様は、事件前に何度も爪磨き粉を使っています。けれど、爪紅の記録は少ない。普通、爪磨き粉だけを何度も使うのは不自然です」
「爪紅を落としていた?」
梨春が言った。
私は頷いた。
「あるいは、何かを爪から落とそうとしていた」
杏児が小さく言う。
「毒、でしょうか」
「かもしれない。でも、落ちなかった。だから黒くなった」
怜月殿下が問う。
「今回の清貴妃と同じ細工か」
「似ていますが、今回のものは早く反応しすぎます。十年前はもっとゆっくり、爪そのものに染み込むように黒くなったのかもしれません」
「それは、命に関わるのか」
「爪だけなら分かりません。でも、もし爪に出るほど身体にも何かが入っていたなら」
言葉を切った。
その先は言いたくなかった。
華姚妃は皇子を宿していた。
もし爪の黒変が、身体の中の異変と同時に起きていたのなら。
それは、ただの化粧細工ではない。
毒かもしれない。
いや、毒ではなくとも、妊娠中の妃には致命的な何か。
怜月殿下は、私が言わなかった続きを理解したようだった。
「医官を呼ぶ」
「十年前の記録が残っている医官ですか」
「今も後宮にいる者が一人いる」
南妃が言っていた。
十年前の関係者は、今もそれなりの場所にいる。
「その方は、信用できるのですか」
私が問うと、怜月殿下は即答しなかった。
それが答えだった。
「信用できないが、呼ぶ必要がある」
「怖いですね」
「後宮で信用できる者だけ集めていたら、部屋が空になる」
「小鈴は信用できます」
小鈴がびくっとした。
「急に何?」
「あと梨春さんと杏児さんも、少なくとも今は嘘をつく余裕がなさそうです」
梨春が困ったように言う。
「それは信用なのでしょうか」
「立派な判断材料です」
杏児が少しだけ笑った。
「凛花様は、不思議な方ですね」
「様はいりません。私も下級です」
「でも、殿下の前で普通に話していらっしゃいます」
「普通ではありません。内心では震えています」
小鈴が頷いた。
「そうよ。凛花は昔から変だけど、今日は特に変」
「昔から?」
私は思わず聞き返した。
しまった。
小鈴が眉をひそめる。
「何よ、自覚なかったの?」
「……あったことにする」
「何それ」
危ない。
私はまだ、凛花としての過去を完全に掴めていない。
前世の真白の感覚が強すぎて、時々こうして齟齬が出る。
怜月殿下がこちらを見ていた。
見られている。
何か気づかれたかもしれない。
「凛花」
「はい」
「お前の爪紅師としての師は誰だ」
来た。
私は一瞬、息を止めた。
凛花の記憶を探る。
師。
下級爪紅師として彼女に基礎を教えた人。
名前は――
「明珠様です」
自然に口から出た。
凛花の記憶が追いつく。
明珠。
かつて後宮の爪紅師だった女性。
今は老いて、下級女官の奥で半ば引退している。
厳しい人。
口が悪い。
でも、凛花に道具の扱いを教えた人。
怜月殿下の目が細くなった。
「明珠?」
「ご存じなのですか」
「十年前、華姚妃の宮に出入りしていた爪紅師の一人に、その名がある」
部屋の空気が止まった。
小鈴が目を丸くする。
「凛花の師匠が?」
私は爪紅帳を見た。
削られた名前。
完全には読めない空白。
もしそこにあった名前が、明珠だったなら。
私の師は、十年前の黒爪事件を知っている。
そして、今も後宮にいる。
「殿下」
私は言った。
「明珠様に会わせてください」
「こちらが聞く前に言うか」
「聞かれると思いました」
「断る理由は」
「ありません」
「なら行く」
「今からですか」
「今からだ」
私は思わず額を押さえた。
「殿下」
「何だ」
「今日一日が長すぎます」
「まだ終わっていない」
「励ましが下手です」
「励ましていない」
小鈴が今度は声を殺しきれずに笑った。
梨春も杏児も、少しだけ笑った。
怜月殿下は、ほんの一瞬だけ不思議そうな顔をした。
自分の言葉で人が笑うと思っていなかったのかもしれない。
その顔が少しおかしくて、私もほんの少し笑った。
けれど、爪紅帳を閉じた瞬間、笑いは消えた。
明珠。
凛花の師。
十年前の爪紅師。
消された名前。
そして火傷の女。
ようやく、点が線になり始めている。
けれど、線が繋がった先に何があるのかは、まだ分からない。
私は道具箱を持ち、爪紅帳を抱えた。
怜月殿下が扉へ向かう。
その背中を見ながら、私はふと思った。
華姚妃は、なぜ爪紅帳を残したのか。
怜月殿下を守るためか。
自分を殺した者を暴くためか。
それとも――
爪紅師にしか分からない形で、誰かを庇うためか。
扉が開く。
外の回廊には、夕暮れの赤い光が差していた。
その赤が、ほんの一瞬だけ爪紅の色に見えた。
美しくて、怖い色。
私は小さく息を吸った。
爪は、嘘をつかない。
けれど、爪紅師は時々、嘘を塗る。
美しく見せるためではない。
誰かを守るために。
もし明珠がそうだったなら。
私は、彼女の爪から何を読むことになるのだろう。




