表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
後宮の爪紅師は、妃たちの嘘を剥がす 〜異世界転生ネイリスト、呪いの指先から宮廷陰謀を暴きます〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/41

第七話 爪紅帳は、誰のために残されたのか

 怜月殿下の執務室は、後宮の中にあるのに後宮らしくなかった。


 香が薄い。


 花も少ない。


 朱や金の飾りも控えめで、壁際には書架と文箱、簡素な机があるだけだった。窓辺に置かれた青磁の水差しだけが、かろうじて宮廷らしい品の良さを保っている。


 けれど、空気は硬い。


 白蓮宮の寝殿とも、紅玉宮の香油庫とも違う緊張があった。


 ここは女たちが微笑む場所ではない。


 誰かの嘘を紙の上で殺す場所だ。


「座れ」


 怜月殿下が言った。


 私は爪紅帳を抱えたまま、部屋の中央で固まった。


「私もですか」


「立ったまま読めるなら立っていろ」


「座ります」


 即答すると、小鈴が隣で小さく笑った。


 小鈴、梨春、杏児。


 三人ともこの部屋に連れてこられていた。


 杏児はまだ顔色が悪い。梨春はずっと自分の右手を袖で隠している。小鈴は怖がりながらも、部屋の配置を目で追っていた。逃げ道を探しているのかもしれない。


 私も探したい。


 だが、怜月殿下の執務室は逃げ道が少ない。


 入口は一つ。


 窓の外には庭があるが、そこには衛兵が立っている。


 完全に詰んでいる。


「凛花」


「はい」


「今、逃げ道を探したな」


「探しました」


「正直だな」


「嘘をついても、たぶん殿下には意味がないので」


 怜月殿下は何も言わず、机の前に座った。


 私たちは向かい側の低い卓へ通された。


 爪紅帳を広げると、古い紙の匂いがした。


 墨。


 油。


 乾いた香。


 そして、ほんの少しだけ爪紅に使う顔料の匂い。


 長くしまわれていたものの匂いだ。


 でも、死んだ記録の匂いではない。


 何かがまだ生きている。


 そう感じた。


「読め」


 怜月殿下が言った。


「最初からですか」


「違和感のあるところからでいい」


「それが分かるなら苦労しません」


「お前は爪を見るのだろう」


「帳面に爪はありません」


「では、帳面の爪を見ろ」


 私は思わず怜月殿下を見た。


「今の、少し無茶を言っている自覚はありますか」


「ある」


「あるんですね」


「だから、お前に言っている」


 褒められているのか、無理難題を押しつけられているのか。


 たぶん両方だ。


 私は息を吐いて、爪紅帳に目を落とした。


 古い記録は、丁寧だった。


 妃の名。


 日付。


 爪紅の色。


 贈り主。


 塗った爪紅師。


 どの指にどの飾りを置いたか。


 宴や儀式の名称。


 それだけなら、ただの化粧記録だ。


 けれど、後宮では違う。


 桃花色は寵愛。


 金は皇帝の祝福。


 青は沈黙。


 黒は罪。


 右薬指は寵愛。


 右中指は誓約。


 左小指は秘密。


 色と指と日付が重なれば、それは言葉になる。


 つまり、この帳は爪紅の記録であると同時に、後宮の会話の記録でもある。


 声に出せなかった女たちの、爪先の会話。


「……十年前の黒爪の妃のお名前は、記録上では薄くなっています」


 私は言った。


 怜月殿下が黙っている。


 その横顔は動かない。


 けれど、小鈴がちらりと私を見た。


 言っていいのか、と目が聞いている。


 私は続けた。


「墨が薄いというより、あとから消そうとした跡があります。でも、完全には消えていません」


「名は読めるか」


 怜月殿下の声が少し低くなった。


「……華姚妃」


 その名前を口にした瞬間、部屋の空気が少し冷えた。


 怜月殿下は目を伏せない。


 だが、机の上に置かれた右手の指が、わずかに動いた。


 傷のある親指。


 彼の母。


 十年前、黒爪にされた妃。


「続けろ」


「はい」


 私は頁を指でなぞった。


「華姚妃様の黒爪記録は、三日前から始まっています。最初は桃花色。次に薄金。最後に黒変」


「三日?」


 小鈴が呟いた。


「清貴妃様は一日で黒くなったよね」


「うん。そこが違う」


 私は頷いた。


「十年前の記録では、三日かけて少しずつ黒くなっています。今回は短時間で黒く見せた。つまり、完全な再現ではありません」


 怜月殿下が言う。


「なぜ違いが出た」


「十年前の方法を完全には知らないからだと思います」


 部屋の隅で、梨春が小さく息を吸った。


 私は彼女を見る。


「梨春さん、何か?」


「いえ……ただ、もし完全に知らないのなら、どうして殿下の爪の傷の印を知っていたのでしょうか」


 怜月殿下の視線が梨春へ向く。


 梨春は青ざめた。


「申し訳ございません、余計なことを」


「いや」


 怜月殿下は短く言った。


「今の問いは正しい」


 梨春は目を瞬いた。


 叱られると思っていたのだろう。


 怜月殿下は怖いが、正しい問いには答える人らしい。


「凛花」


「はい。私もそこが気になります」


「言え」


「犯人は、十年前の黒爪の細工そのものは詳しく知らない。でも、殿下の爪の傷は知っていた。つまり、事件の核心にいた人間ではなく、“火事の時に殿下を見た人間”の可能性があります」


 怜月殿下は黙った。


 小鈴が少し身を乗り出す。


「それって、火事の時に殿下を助けた人とか?」


「あり得る」


 私は頷く。


「もしくは、殿下が帳を持ち出すところを見ていた人」


 杏児が震える声で言った。


「十年前の火事で、手に火傷を負った女がいるのですよね」


「梨春さんが見た盆を運んだ人ですね」


「その人が、昔も火事の場にいた……?」


 杏児の言葉に、部屋が静かになった。


 私たちは皆、同じことを考えていた。


 火傷の女。


 十年前の火事。


 今日、清貴妃の菓子を運んだ者。


 その人物は、過去と現在を繋いでいる。


 怜月殿下が低く命じた。


「十年前の火事で負傷した女官を調べる」


「記録が残っているのですか」


 私が問うと、怜月殿下は少しだけ目を細めた。


「表向きの記録なら残っているだろう。役に立つかは別だ」


「また記録が嘘をつくのですね」


「記録は嘘をつかない」


「え?」


「嘘を書くのは人だ」


 その言い方が、少しだけ私の言葉に似ていた。


 爪は嘘をつかない。


 嘘をつくのは人。


 怜月殿下も、きっと同じようなものを見てきたのだろう。


 爪ではなく、文書で。


 紙の上に残された嘘を。


 私は爪紅帳へ視線を戻した。


「もう一つ、気になるところがあります」


「言え」


「華姚妃様の記録だけ、爪紅師の名前がありません」


 小鈴が覗き込む。


「ほんとだ。他の妃様のところは書いてあるのに」


「はい。爪紅師の名だけ削られています」


「削られている?」


 怜月殿下が立ち上がり、私の横に来た。


 近い。


 少し緊張する。


 私は頁の端を指さした。


「ここです。墨で塗り潰したのではなく、紙の表面を少し削っています。その上から薄く墨を乗せて、空白に見せている」


 怜月殿下は頁を覗き込んだ。


 黒衣の袖が私の手元に触れそうになる。


 私は少し横へずれた。


「なぜ下がる」


「近いので」


「帳が見えない」


「殿下は圧が強いです」


「圧?」


「存在感です」


 小鈴が後ろで肩を震わせている。


 怜月殿下は私を見下ろし、少しだけ眉を寄せた。


「お前は本当に、緊張感があるのかないのか分からないな」


「あります。だから変なことを言って誤魔化しています」


「誤魔化せていない」


「知っています」


 梨春が、涙の跡を残した顔で少し笑った。


 杏児も、ほんの少し肩の力を抜いた。


 それを見て、私はよかったと思った。


 怖い場では、怖い話だけを続けると人は折れる。


 前世のサロンでもそうだった。


 重い相談をされた時、ずっと深刻な顔をしていると、相手は余計に苦しくなる。少しだけくだらない会話を挟むと、息ができる。


 後宮でも、たぶん同じだ。


 怜月殿下は、また帳へ視線を落とした。


「爪紅師の名を消した理由は」


「その人を隠したかった。あるいは、その人が誰かに繋がるから」


「爪紅師が事件の実行役か」


「可能性はあります。でも……」


「でも?」


「華姚妃様は、その爪紅帳を殿下に隠すよう言ったのですよね」


「ああ」


「なら、この帳は華姚妃様自身が何かを残そうとしていたものです。爪紅師の名前を消したのが華姚妃様なら、その人を庇ったことになる。逆に、別の誰かが消したなら、爪紅師が犯人側にとって都合の悪い証人だったことになる」


「どちらだと思う」


 私は考えた。


 頁の削り方を見る。


 丁寧だ。


 乱暴ではない。


 消した人間は急いでいない。


 けれど、紙を削る時に少しだけ力が入りすぎている。紙の繊維が一部深くえぐれている。


 迷いながら消した跡。


 私は、翠蘭の噛んだ爪を思い出した。


 迷いながら罪を犯す人間の手。


「華姚妃様ご自身か、かなり近しい方かもしれません」


「なぜ」


「消し方が、怒りよりも迷いに近いです。犯人が証拠隠滅のために消したなら、もっと確実に頁ごと破ると思います。でもこれは、消したいけれど、完全に消したくなかったように見えます」


 怜月殿下は黙った。


 その沈黙が少し長かった。


 私は言いすぎたかもしれないと思った。


 怜月殿下の母のことだ。


 他人が勝手に感情を読むべきではなかった。


「すみません」


「謝るなと言った」


「つい」


「……母は」


 怜月殿下の声が少しだけ低くなる。


「誰かを庇う人だった」


 私は口を閉じた。


 彼は続けた。


「後宮に向いていなかった。笑うのが下手で、媚びるのも下手で、敵を作るのも下手だった。だが、人を切り捨てるのはもっと下手だった」


 清貴妃の言葉を思い出す。


 後宮では、優しい女から壊れる。


 華姚妃も、そうだったのかもしれない。


「では、爪紅師を庇った可能性があるのですね」


「ある」


「その爪紅師を探すべきです」


「生きていればな」


 その一言が重かった。


 十年。


 後宮では長すぎる時間だ。


 証人は消される。


 記録は焼かれる。


 噂は形を変える。


 それでも、爪紅帳だけが残った。


「怜月殿下」


「何だ」


「華姚妃様は、なぜ爪紅帳を殿下に隠すよう言ったのでしょう」


「事件の記録だったからだろう」


「それだけでしょうか」


 怜月殿下の目がこちらを向く。


「どういう意味だ」


「もし私が、誰かに何かを残すなら、ただの記録ではなく、読み方も残します」


「読み方?」


「爪紅帳は、爪紅師や後宮の女性なら意味が分かります。でも、当時の殿下は子供だった。爪の色や指の意味を知らなければ、この帳を見てもただの化粧記録にしか見えません」


 小鈴が「あ」と声を漏らした。


「つまり、華姚妃様は殿下じゃなくて、将来これを読める誰かに向けて残した?」


「かもしれない」


 私は頷いた。


「殿下は帳を持ち出す役目だった。読む役目は、別にいる」


 怜月殿下の表情がわずかに変わった。


 初めて、心底不意を突かれたように見えた。


「母は、私に読ませるためではなく、誰かに渡すために残した……?」


「その可能性があります」


「誰に」


「爪紅師です」


 私は帳の削られた部分を見る。


「消された爪紅師の名。その人に、あるいはその人と同じ技術を持つ誰かに」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 小鈴がぽつりと言う。


「それ、凛花じゃない?」


「違う」


 私は即答した。


「十年前、私はいません」


「でも今読んでるじゃない」


「それは成り行きで」


「後宮で成り行きって、だいたい運命みたいな顔して襲ってくるわよ」


「嫌なこと言わないで」


 小鈴は真顔で言った。


「だって、凛花がいなかったら、この帳の削り跡とか黒爪の細工とか、誰も気づかなかったんでしょう?」


 私は黙った。


 否定できない。


 怜月殿下が私を見る。


「母が待っていたのは、お前のような者だったのかもしれない」


「重すぎます」


「事実だ」


「事実かどうか分かりません」


「では、仮の事実だ」


「それはほぼ殿下の都合です」


「都合が悪いか」


「悪いです」


「だが、逃げないのだろう」


 私は答えに詰まった。


 逃げたい。


 本当に逃げたい。


 でも、逃げたらどうなるかも分かっている。


 梨春も、杏児も、翠蘭も、清貴妃も、南妃も。


 そして怜月殿下も。


 十年前から割れた爪を隠してきた人を、このまま放っておけるほど、私は器用ではなかった。


「逃げ道が見つかるまでは」


 私は言った。


「読みます」


 怜月殿下は一瞬黙り、それから小さく言った。


「それでいい」


 優しい声ではない。


 でも、少しだけ柔らかかった。


     *


 爪紅帳を読み進めるうちに、三つのことが分かった。


 一つ。


 華姚妃の黒爪が始まる前日、彼女の爪色は桃花色ではなく、青灰色だった。


 凛花の記憶では、青灰は「沈黙の拒絶」を意味する。


 つまり華姚妃は、何かを拒んでいた。


 二つ。


 黒変の三日前から、同じ爪紅師が記録から消えている。


 それ以前の数頁にも、同じ筆跡の癖が残っていた。


 三つ。


 黒爪事件の前後だけ、食事や香油ではなく「爪磨き粉」の記録が妙に多い。


「爪磨き粉?」


 小鈴が首を傾げる。


「爪を艶出しするための粉」


「今回の白い粉みたいなもの?」


「似てる。でも、十年前のものは別の種類かも」


 私は頁をめくる。


「華姚妃様は、事件前に何度も爪磨き粉を使っています。けれど、爪紅の記録は少ない。普通、爪磨き粉だけを何度も使うのは不自然です」


「爪紅を落としていた?」


 梨春が言った。


 私は頷いた。


「あるいは、何かを爪から落とそうとしていた」


 杏児が小さく言う。


「毒、でしょうか」


「かもしれない。でも、落ちなかった。だから黒くなった」


 怜月殿下が問う。


「今回の清貴妃と同じ細工か」


「似ていますが、今回のものは早く反応しすぎます。十年前はもっとゆっくり、爪そのものに染み込むように黒くなったのかもしれません」


「それは、命に関わるのか」


「爪だけなら分かりません。でも、もし爪に出るほど身体にも何かが入っていたなら」


 言葉を切った。


 その先は言いたくなかった。


 華姚妃は皇子を宿していた。


 もし爪の黒変が、身体の中の異変と同時に起きていたのなら。


 それは、ただの化粧細工ではない。


 毒かもしれない。


 いや、毒ではなくとも、妊娠中の妃には致命的な何か。


 怜月殿下は、私が言わなかった続きを理解したようだった。


「医官を呼ぶ」


「十年前の記録が残っている医官ですか」


「今も後宮にいる者が一人いる」


 南妃が言っていた。


 十年前の関係者は、今もそれなりの場所にいる。


「その方は、信用できるのですか」


 私が問うと、怜月殿下は即答しなかった。


 それが答えだった。


「信用できないが、呼ぶ必要がある」


「怖いですね」


「後宮で信用できる者だけ集めていたら、部屋が空になる」


「小鈴は信用できます」


 小鈴がびくっとした。


「急に何?」


「あと梨春さんと杏児さんも、少なくとも今は嘘をつく余裕がなさそうです」


 梨春が困ったように言う。


「それは信用なのでしょうか」


「立派な判断材料です」


 杏児が少しだけ笑った。


「凛花様は、不思議な方ですね」


「様はいりません。私も下級です」


「でも、殿下の前で普通に話していらっしゃいます」


「普通ではありません。内心では震えています」


 小鈴が頷いた。


「そうよ。凛花は昔から変だけど、今日は特に変」


「昔から?」


 私は思わず聞き返した。


 しまった。


 小鈴が眉をひそめる。


「何よ、自覚なかったの?」


「……あったことにする」


「何それ」


 危ない。


 私はまだ、凛花としての過去を完全に掴めていない。


 前世の真白の感覚が強すぎて、時々こうして齟齬が出る。


 怜月殿下がこちらを見ていた。


 見られている。


 何か気づかれたかもしれない。


「凛花」


「はい」


「お前の爪紅師としての師は誰だ」


 来た。


 私は一瞬、息を止めた。


 凛花の記憶を探る。


 師。


 下級爪紅師として彼女に基礎を教えた人。


 名前は――


「明珠様です」


 自然に口から出た。


 凛花の記憶が追いつく。


 明珠。


 かつて後宮の爪紅師だった女性。


 今は老いて、下級女官の奥で半ば引退している。


 厳しい人。


 口が悪い。


 でも、凛花に道具の扱いを教えた人。


 怜月殿下の目が細くなった。


「明珠?」


「ご存じなのですか」


「十年前、華姚妃の宮に出入りしていた爪紅師の一人に、その名がある」


 部屋の空気が止まった。


 小鈴が目を丸くする。


「凛花の師匠が?」


 私は爪紅帳を見た。


 削られた名前。


 完全には読めない空白。


 もしそこにあった名前が、明珠だったなら。


 私の師は、十年前の黒爪事件を知っている。


 そして、今も後宮にいる。


「殿下」


 私は言った。


「明珠様に会わせてください」


「こちらが聞く前に言うか」


「聞かれると思いました」


「断る理由は」


「ありません」


「なら行く」


「今からですか」


「今からだ」


 私は思わず額を押さえた。


「殿下」


「何だ」


「今日一日が長すぎます」


「まだ終わっていない」


「励ましが下手です」


「励ましていない」


 小鈴が今度は声を殺しきれずに笑った。


 梨春も杏児も、少しだけ笑った。


 怜月殿下は、ほんの一瞬だけ不思議そうな顔をした。


 自分の言葉で人が笑うと思っていなかったのかもしれない。


 その顔が少しおかしくて、私もほんの少し笑った。


 けれど、爪紅帳を閉じた瞬間、笑いは消えた。


 明珠。


 凛花の師。


 十年前の爪紅師。


 消された名前。


 そして火傷の女。


 ようやく、点が線になり始めている。


 けれど、線が繋がった先に何があるのかは、まだ分からない。


 私は道具箱を持ち、爪紅帳を抱えた。


 怜月殿下が扉へ向かう。


 その背中を見ながら、私はふと思った。


 華姚妃は、なぜ爪紅帳を残したのか。


 怜月殿下を守るためか。


 自分を殺した者を暴くためか。


 それとも――


 爪紅師にしか分からない形で、誰かを庇うためか。


 扉が開く。


 外の回廊には、夕暮れの赤い光が差していた。


 その赤が、ほんの一瞬だけ爪紅の色に見えた。


 美しくて、怖い色。


 私は小さく息を吸った。


 爪は、嘘をつかない。


 けれど、爪紅師は時々、嘘を塗る。


 美しく見せるためではない。


 誰かを守るために。


 もし明珠がそうだったなら。


 私は、彼女の爪から何を読むことになるのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ