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後宮の爪紅師は、妃たちの嘘を剥がす 〜異世界転生ネイリスト、呪いの指先から宮廷陰謀を暴きます〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第六話 割れた爪の皇弟

「なら、見落とすな」


 怜月殿下の声は、静かだった。


 けれど、その静けさがかえって重かった。


 寝殿にいる誰もが、言葉を失っていた。


 清貴妃は寝台の上で目を閉じ、南妃は扇を握ったまま動かない。梨春は泣くことも忘れたように膝をつき、小鈴は私の袖を掴んだまま固まっている。


 十年前の黒爪の妃。


 皇子を宿していたはずの妃。


 そして、その人が怜月殿下の母。


 私は、ようやく理解した。


 怜月殿下がなぜ、後宮監察などという面倒で恨まれやすい役目を引き受けているのか。


 なぜ、女たちの涙にも、噂にも、呪いにも冷たく見えるのか。


 この人は、信じていないのだ。


 後宮の言葉を。


 後宮の記録を。


 後宮が口を揃えて「病だった」と言った過去を。


「……申し訳ありません」


 私は頭を下げた。


 言ったあとで、それが何に対する謝罪なのか分からなくなった。


 手の傷を見たことか。


 知らない傷に触れたことか。


 それとも、軽々しく「見落とさない」と言ってしまったことか。


 怜月殿下は、少しも表情を変えなかった。


「謝るな」


「ですが」


「謝罪は便利だ。そこで話が終わる」


 その言葉は、私に向けられているようで、彼自身に向けられているようにも聞こえた。


「終わらせたいのですか」


 私が問うと、小鈴が袖を引く力を強めた。


 やめて、と無言で訴えている。


 でも、言葉はもう出ていた。


 怜月殿下は私を見た。


 怒るかと思った。


 けれど、彼は低く答えた。


「終わらせられるなら、とっくに終わらせている」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。


 清貴妃が目を開ける。


「殿下」


「何だ」


「あなた、昔より少し話すようになりましたね」


「今それを言うのか」


「ええ。今だから言います」


 清貴妃は弱々しく笑った。


「昔のあなたは、誰かが黒爪の話をしただけで、その場を出て行ったわ」


「子供だった」


「子供は、出て行くことでしか怒れませんものね」


 怜月殿下は答えなかった。


 清貴妃の言葉は優しくない。


 けれど、悪意でもない。


 その場に残っている怜月殿下を、彼女なりに認めているのだと思った。


 南妃が扇を閉じた。


 ぱちん、と乾いた音が響く。


「昔話に浸るには、少々状況が悪すぎます」


「南妃様らしいこと」


 清貴妃が言う。


「あなたこそ、寝台の上で昔の毒を吸い込みすぎです」


「この後宮に、毒ではない空気があったかしら」


「ないわね」


 二人の視線が合う。


 仲が悪いのに、妙に息が合っている。


 いや、仲が悪いからこそ、相手の言葉の受け方を知り尽くしているのかもしれない。


 南妃は怜月殿下へ向き直った。


「殿下。十年前の件が再び持ち出された以上、清貴妃様の爪だけを見ていても足りません」


「何が言いたい」


「今、後宮で皇子に関わる噂があるのは、清貴妃様だけではありません」


 清貴妃の表情が変わった。


 梨春が息を呑む。


 小鈴が小声で言った。


「皇子に関わる噂って……」


 私は答えなかった。


 でも、分かる。


 妃が倒れた。


 黒爪になった。


 過去の皇子事件に似せられた。


 ならば当然、今の清貴妃にも皇子に関わる何かがあると思われる。


「清貴妃様は、ご懐妊を疑われているのですか」


 私は口にした。


 言ってから、自分でも大胆すぎたと思った。


 だが、誰も「無礼だ」とは言わなかった。


 言わないということは、そういうことなのだ。


 清貴妃は私を見た。


「爪紅師は、そこまで見るの?」


「爪だけでは分かりません。でも、周囲の反応で」


「嫌な子」


「今日三回目です」


「数えなくていいわ」


 清貴妃は少しだけ息を吐いた。


「正式には、まだ何も」


「正式には?」


 怜月殿下が問う。


「医官に診せる前でした。体調がすぐれなかったのは事実です。ただ、それが懐妊によるものか、別のものかは分からない」


「なぜ黙っていた」


「言えば、私の周りにいる者たちが先に狙われるから」


 清貴妃の視線が梨春へ向く。


 梨春は泣き出しそうな顔で俯いた。


「……だから、梨春を庇ったのですね」


 私が言うと、清貴妃は答えなかった。


 沈黙が答えだった。


 清貴妃は、自分の懐妊疑惑が漏れていることを知っていた。


 そして、それが今回の事件に繋がっていることにも気づいていた。


 だから、梨春が菓子を運んだことを隠した。


 梨春を守るため。


 そして、自分の懐妊疑惑が公になるのを避けるため。


 優しさと計算。


 両方だ。


「清貴妃様」


 梨春が震える声で言った。


「私、そんなことも知らずに」


「知らない方がよかったのよ」


「でも、私が」


「梨春」


 清貴妃の声が、少し強くなった。


「あなたが泣いている間に、次の誰かが利用されるわ」


 梨春の涙が止まった。


 清貴妃は静かに続ける。


「泣くならあとで泣きなさい。私もあとで怒るから」


「怒るのですか」


「当たり前でしょう。あなた、私に変な菓子を食べさせたのよ」


「申し訳ございません!」


「謝罪もあと。今は、誰から盆を受け取ったか思い出して」


 梨春は両手を握りしめた。


 その爪先が白くなる。


 私はそっと声をかけた。


「急がなくていいです。順番に思い出してください。厨房から来た盆を、どこで受け取りましたか」


「東回廊の角です」


「誰から?」


「厨房の者だと思いました。顔を布で隠していて……湯気が出ていたから、急いでいるのだと」


「声は?」


「低い声でした。でも、男ではありません。たぶん女です」


「手は見ましたか」


 梨春は一瞬、私を見た。


「手?」


「はい。爪でも、指でも、何か覚えていませんか」


 梨春は眉を寄せ、必死に記憶を辿るように目を閉じた。


「……右手の甲に、火傷の跡がありました」


 私は息を止めた。


「火傷?」


「はい。古い火傷です。手首の近くまで、赤黒い跡がありました」


 清貴妃の顔色が変わった。


 南妃も、扇を握る指に力を入れる。


 怜月殿下が低く問う。


「知っているのか」


 清貴妃は答えない。


 南妃が代わりに言った。


「十年前、黒爪の妃の宮で火事がありました」


 寝殿がまた静まり返る。


「火事?」


 私が聞き返すと、南妃は頷いた。


「妃が亡くなった翌日、宮の一部が燃えたのです。記録の多くは失われたと聞いています」


「爪紅帳は残ったのに?」


「だから不自然なのよ」


 南妃の声が少し低くなる。


「大事な診療記録、食事記録、出入りの記録は焼けた。けれど、爪紅帳だけが残った。あまりにも都合がよすぎる」


「爪紅帳は、誰が持ち出したのですか」


 私が問うと、南妃は怜月殿下を見た。


 怜月殿下は、しばらく沈黙した。


「私だ」


 短い答え。


 でも、それだけで十分だった。


「私は当時、子供だった。母の宮に忍び込んだ。大人たちは近づくなと言ったが、聞かなかった」


 怜月殿下の声は淡々としていた。


 淡々としすぎていた。


 感情を入れないように、慎重に削った声。


「火の手が上がる前、化粧棚の下から帳を見つけた。母が、私に隠すよう言ったものだ」


「お母様が?」


 私が聞くと、怜月殿下の目が少しだけ遠くなる。


「母は爪紅が好きだった。いや、好きというより、必要としていた。後宮では、何を話したかより、どの爪色を選んだかの方が残ることがあると、よく言っていた」


 爪は、嘘をつかない。


 同じことを、その妃も知っていたのだろうか。


 怜月殿下は続けた。


「私には意味が分からなかった。ただ、言われた通り持ち出した。その直後に火が出た」


「その時に、爪を?」


 私は彼の右手を見た。


 袖の奥に隠された親指。


 怜月殿下は小さく頷いた。


「棚が崩れた。逃げる時、爪が割れた」


 その傷を、誰かが印にした。


 爪紅帳に残された蓮のような印。


 実際には、割れた爪の形。


 怜月殿下しか知らないはずの傷。


「では、今回の犯人は」


 私は喉が乾くのを感じながら言った。


「殿下の爪の傷を知っている人間、ということになります」


「十年前の火事の場にいた者だ」


 怜月殿下が言う。


「または、その者から聞いた誰か」


 南妃が静かに付け加えた。


「かなり絞れますね」


 私が言うと、清貴妃が苦く笑った。


「絞れるけれど、危険な者ばかりよ」


「十年前に後宮へ出入りできた人たちですものね」


「ええ。妃、女官長、医官、宦官、皇族、重臣。今も生き残っている者は、皆それなりの場所にいる」


 つまり、古い事件を調べるということは、今の権力者たちを掘ることになる。


 下級爪紅師には重すぎる。


 いや、普通に皇弟にも重い。


「凛花」


 怜月殿下が私を見る。


「ここから先は、お前が関われば危険が増す」


「今さらですか」


 思わず返すと、小鈴が隣で「そうだそうだ」と小声で言った。


 怜月殿下は無視した。


「だが、必要でもある」


「それ、逃げ道を塞いでから言う台詞ですか」


「逃げたいか」


「逃げたいです」


「正直だな」


「殿下も私に見落とすなとおっしゃいました」


 怜月殿下は、ほんの少しだけ目を細めた。


「では命じる。十年前の爪紅帳を読め」


「読むだけですか」


「読んで、違和感を拾え。お前なら、文字ではなく爪を見るだろう」


 それは、変な信頼だった。


 嬉しくはない。


 でも、嫌ではなかった。


 私は爪紅帳へ目を落とした。


「分かりました。ただし、条件があります」


 部屋がまた静かになる。


 小鈴が今度は袖を引かなかった。


 少し慣れてきたらしい。


 怜月殿下が言う。


「言え」


「梨春さんと杏児さんを、私の近くに置いてください」


 梨春が顔を上げた。


「私を?」


「はい。二人とも事件に利用されました。ですが、利用されたからこそ、見たものがあるはずです」


「罪人を側に置くのか」


 怜月殿下の声は冷たい。


 私は首を横に振った。


「まだ罪人ではありません。証人です」


 清貴妃が小さく笑う。


「言うわね」


「震えながら言っています」


「見えないわよ」


「見えないようにしています」


 南妃が扇で口元を隠した。


「この子、本当に私の宮へ欲しいわ」


「断ると言った」


 怜月殿下が即答する。


「殿下のものでもありません」


 私が言うと、南妃がまた笑った。


 清貴妃まで笑っている。


 緊張の中で、妙な空気が生まれた。


 だが、怜月殿下だけは笑わなかった。


「二人をお前の近くに置く理由は」


「犯人は、口封じをするかもしれません」


 梨春の顔が白くなる。


 私は続ける。


「杏児さんは香油を使いました。梨春さんは菓子を運びました。二人とも、犯人にとっては生きていてほしくないかもしれません」


「守るためか」


「守るためでもあります。でも、それだけではありません」


「何だ」


「犯人が狙ってくるなら、次の手が見えるかもしれません」


 言った瞬間、自分でも嫌なことを言っていると思った。


 清貴妃が私をじっと見る。


「あなた、優しい顔をして、時々怖いことを言うのね」


「怖いことを言わないと、優しい人から傷つく場所なので」


 翠蘭の言葉を思い出していた。


 後宮では、優しい女から壊れる。


 なら、優しいだけでは駄目なのだ。


 怜月殿下は少し考えたあと、頷いた。


「いいだろう。杏児と梨春は、当面凛花の監督下に置く」


「監督下というほど偉くありません」


「では、そばに置け」


「はい」


 梨春が涙目で私を見る。


「私……ご迷惑を」


「迷惑です」


 梨春が固まった。


 小鈴が私の脇腹を肘でつつく。


「凛花、言い方」


「でも、一人で震えているより、迷惑をかけてください」


 梨春の目から、ぽろりと涙が落ちた。


 私は彼女の爪を見た。


 まだ粉が残っている。


 あとで落とさなければ。


 汚れを残したままだと、きっと彼女は何度も自分の手を責める。


 それから、私は怜月殿下に向き直った。


「もう一つ、お願いがあります」


「増えるな」


「重要です」


「言え」


「清貴妃様の爪を、このまま晒し続けるのは危険です」


 清貴妃が私を見る。


「証拠として残すのではなくて?」


「記録を取れば十分です。黒爪を皆に見せ続ければ、噂が勝ちます。呪いではないと証明したのに、見た人は“黒い爪”だけを覚えます」


 南妃が頷いた。


「一理あるわ」


「では、どうする」


 怜月殿下が問う。


「黒を完全に隠すのではなく、別の意味に塗り替えます」


「塗り替える?」


 清貴妃の目に興味が宿った。


 私は道具箱を開いた。


 桃花色、薄金、白梅、青灰。


 凛花が持っていた下級爪紅師の道具は多くない。けれど、混ぜれば色は作れる。


「黒を消すのではなく、夜桜の意匠にします。桃花色に黒を忍ばせ、上から細い銀線を引けば、“呪いの黒”ではなく“夜に咲く花”に見えます」


「それで噂が消える?」


「消えません。でも、変わります」


 私は清貴妃の爪を見た。


「清貴妃様が怯えて黒を隠した、ではなく、黒すら飾りに変えた、と見せます」


 清貴妃が黙った。


 南妃が少し楽しそうに言った。


「強気ね。嫌いではないわ」


「南妃様に褒められると、少し怖いです」


「正直ね」


 清貴妃は自分の爪を見下ろした。


「黒すら、飾りに」


 彼女は小さく呟いた。


 その言葉の中に、何かが戻ってくるのが分かった。


 恐怖でなく、怒りでもなく、矜持。


 妃として生きてきた女の、折れていない芯。


「お願い」


 清貴妃は私へ手を差し出した。


「その爪にして」


「はい」


 私は深く息を吸った。


 前世のサロンなら、ここで「お任せください」と笑えた。


 でも今は、後宮だ。


 爪先ひとつで、噂が変わる。


 誰かの命の重さまで変わる。


 筆を取る手に、自然と力が入った。


「力を抜いてください」


「あなたが怖い顔をしているからよ」


「失敗できないので」


「爪紅師がそんな顔をすると、客が不安になるわ」


「では、少し楽しい話をしてください」


 清貴妃が目を丸くした。


「私に?」


「はい。前の仕事場では、お客様と話しながら塗っていました」


「前の仕事場?」


 しまった。


 私は筆を止めずに誤魔化した。


「前に教わった爪紅師のもとで、という意味です」


 清貴妃は疑わしそうにしたが、それ以上は聞かなかった。


 代わりに南妃が口を開く。


「では、私が話してあげましょう。清貴妃様が初めて陛下の宴に出た時、緊張しすぎて杯を逆に持った話など」


「南妃様」


 清貴妃の声が低くなる。


「楽しい話でしょう?」


「あなたにとっては、でしょう」


「ええ、とても」


 南妃は涼しい顔で続ける。


「しかもその後、陛下が“斬新だ”とおっしゃったものだから、次の宴で真似をする若い妃が三人も出ました」


「やめて」


「一人は本当に中身をこぼしました」


「南妃様」


「何かしら」


「あなた、私が病人だと忘れていません?」


「口がそれだけ動けば大丈夫でしょう」


 小鈴が肩を震わせている。


 梨春も、涙の跡を残したまま少し笑った。


 私は清貴妃の黒い爪に、細い銀線を引いた。


 黒を消さない。


 囲う。


 活かす。


 桃花色の中に、夜の枝を描く。


 細い線を一本、もう一本。


 前世で何度も描いた、夜桜のデザイン。


 ここでは桜ではなく桃花だけれど、意味は通じるはずだ。


「綺麗……」


 梨春が思わず呟いた。


 清貴妃も自分の爪を見た。


 黒は残っている。


 けれど、もう呪いには見えなかった。


 夜の中で咲く花の影。


 傷を隠すのではなく、傷の形ごと意匠にした爪。


 清貴妃は、しばらく黙ってそれを見つめていた。


「……悔しいわね」


 彼女が言った。


「何がですか」


「こんな時なのに、少し嬉しい」


「爪が綺麗になると、少しだけ息がしやすくなります」


 私は筆を置いた。


「それは、悪いことではありません」


 清貴妃は私を見た。


「あなた、本当に変な子」


「今日四回目です」


「これからもっと言われるわ」


 南妃が立ち上がった。


「清貴妃様。その爪なら、今夜の噂は少し変わるでしょうね」


「南妃様のおかげではありませんけれど」


「私のせいにもされかけたのだから、少しくらい口を出す権利はあるでしょう」


「では、どう噂を流します?」


「清貴妃様は、黒爪の呪いを夜桃花の意匠に変えて笑った、と」


「笑ってはいません」


「今笑えばいいでしょう」


 清貴妃は一瞬むっとして、それから本当に少し笑った。


 南妃も笑う。


 その瞬間、この二人は敵同士でありながら、同じ後宮で生きる女同士なのだと分かった。


 怜月殿下が静かに言った。


「噂は南妃に任せる」


「使い方が雑ですわ、殿下」


「得意だろう」


「否定はしません」


 南妃は扇を開いた。


「ただし、一つ貸しです」


「覚えておく」


「殿下の覚えておくは、返す気がない時の言葉ですね」


「よく分かっている」


「嫌な方」


 南妃はそう言い残し、寝殿を出ていった。


 去り際、私の横で足を止める。


「爪紅師」


「はい」


「私の爪も、いずれ見なさい」


「何かお困りですか」


 南妃は微笑んだ。


「困っていない女など、後宮にはいないわ」


 その言葉だけ残して、彼女は去った。


 私はしばらく、その背中を見送った。


 清貴妃。


 南妃。


 翠蘭。


 梨春。


 杏児。


 皆、何かを隠している。


 でも、それは悪意だけではない。


 守りたいもの。


 知られたくない傷。


 誰かに握られた弱み。


 後宮では、それらが爪紅のように塗り重ねられている。


「凛花」


 怜月殿下が呼んだ。


「はい」


「爪紅帳を持って、私の執務室へ来い」


「今からですか」


「今からだ」


「私は今日、何度死にかければいいのでしょう」


「まだ死んでいない」


「励ましが下手ですね」


「励ました覚えはない」


 小鈴が隣で、とうとう小さく笑った。


 私も少しだけ笑いそうになった。


 けれど、爪紅帳を抱えた瞬間、その重みに現実へ戻される。


 十年前の黒爪。


 怜月殿下の母。


 清貴妃の懐妊疑惑。


 そして、火傷の跡を持つ女。


 事件は、爪紅を剥がせば終わるものではなかった。


 むしろ、ようやく一番古い色が見え始めたばかりだ。


 私は帳を胸に抱いた。


 表紙の擦れた感触が、妙に冷たい。


 爪は、嘘をつかない。


 でも、記録は嘘をつく。


 だから、見なければならない。


 誰かが塗り重ねた色の下に、まだ乾ききらない真実が残っているうちに。

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