第36話:折れた角、血に染まる悲鳴
王都ノザリアを囲む白亜の外壁が、地平線の向こう側にうっすらと姿を現し始めた。
どこまでも続く白い石畳の街道は、朝の陽光を照り返して眩しく輝いている。旅の終わりが近づいているというのに、ミヤコの胸の内には、晴れ間を覆い隠すような暗い雲が広がっていた。
ガタゴトと、荷車の車輪が不規則なリズムを刻む。
その音に混じって、背後の車列からは絶えず不調和な響きが聞こえていた。
「……ギギッ……ギチリ……」
それは、石が擦れる音ではない。生き物の骨が無理やり軋まされる、痛々しい悲鳴。
ミヤコは何度も後ろを振り返った。そこには、昨夜遭遇した不穏な影を纏うユニコリザードが、重い荷車を引かされて喘いでいた。
(あの子……もう)
ミヤコの瞳には、ユニコリザードの角の根元から滴り落ちる、黒ずんだ粘液がはっきりと見えていた。
手綱を握る男たちは、遅れがちなユニコリザードを罵り、太い鞭を容赦なく振り下ろしている。
「おい、のろのろするな! 王都はすぐそこなんだ、歩け!」
鞭がしなるたび、ユニコリザードが体をくねらせ、角が「ギチッ」と嫌な音を立てて歪む。
「……ジョゼクさん。あの子、もう限界よ。ずっと……ずっと、泣いてる」
ミヤコがジョゼクの袖を掴むと、ジョゼクもまた、険しい顔でその個体を睨み据えた。
「……ああ。嫌な予感がする。ミヤコ、俺の側を絶対に離れるなよ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、車列は王都近郊の急な坂道へと差し掛かった。
勾配が急になり、荷車の重みがユニコリザードの細い首にのしかかった、その刹那だった。
空気がぴんと張り詰め、世界の音がすべて消失したかのような錯覚。
次の瞬間、無機質で冷ややかな音が街道に響き渡った。
パキンッ――。
それは、硬い氷の柱が真っ二つに割れるような音。
その音と共に弾け飛んだのは、ユニコリザードの高い知性の象徴だった。
乳白色の角の破片が、陽光を浴びて宝石のようにきらめきながら空を舞う。
破片は放物線を描き、どす黒い土の上へと無残に突き刺さった。
「ひっ……、つの、角が……! 嘘だろ、あ、あああああッ!!」
手綱を引いていた男が絶叫を上げた。
角を失った瞬間、ユニコリザードの瞳から、知性のまたたきが完全に消え去った。代わりに溢れ出したのは、内側に溜め込まれた、真っ黒な狂気。
「ガアァァァァァァァァッ!!」
それはもはや、怒りと本能が剥き出しになった獣の咆哮。
制御を失った一トンを超えるの巨躯が、自分を虐げていた飼育員に向かって、弾かれたように突進した。
凄まじい衝撃音が響き、男の体が紙細工のように宙を舞った。
石畳の上に叩きつけられた肉体から、ドロリとした色彩が溢れ出し、白い道を汚していく。
鼻を突いたのは、強烈な独特な鉄の錆のような匂い。
ミヤコは息を吸うことも忘れて、その光景を凝視した。
逃げ惑う人々の悲鳴、荷車がひっくり返る音、そして肉が裂ける鈍い響き。
かつて「命」であったものが、たった数秒の間に、見るも無惨な肉の塊へと変えられていく。
暴走した巨獣は、血に濡れた顎を鳴らし、次々と周囲の商人に牙を剥いていく。
ピチャッ。
温かい雫が、ミヤコの頬を叩いた。
視線を落とせば、一点の曇りもなかったはずの白いワンピースに、斑な赤いシミが広がっていた。
(……きたない。……こんなの、だめ。綺麗だったはずなのに……)
周囲では人々が「助けてくれ!」と叫び逃げ出したり、武器を手に取る人もいる。
けれど、ミヤコだけは、足元に転がってきた「角の破片」をじっと見つめたまま、金縛りにあったように動けなくなっていた。
――雨の音が聞こえる。
降りしきる六月の雨。砕けた馬車の木片。
そして、泥にまみれて動かなくなった、大好きだったお父様とお母様の背中。
目の前で広がる惨劇が、幼いあの日に見た記憶と、音も立てずに重なり合っていく。
死は、いつもこんなにも不潔に、自分を汚しに来る。
どれほど手を洗い、どれほど心を磨き上げても、圧倒的な汚れの前では、自分はこんなにも無力なのだという絶望。
「ミヤコ! こっちだ、走れ! ……っ、ダメか、囲まれた!」
ジョゼクがミヤコの元へ駆け寄ろうとするが、暴れる別のユニコリザードたちの乱入によって、二人の距離は無慈悲に引き離される。
ミヤコは一人、ユニコリザードに挟まれていた。
逃げなければならないことは分かっている。けれど、震える指先は自分の服についた血のシミを、必死に、必死に擦り続けていた。
「……ああ、また。また汚れてしまったわ。洗っても、洗っても……」
背後から、重たい足音が近づいてくる。
血の匂いを撒き散らし、喉の奥を不快に鳴らす、あの狂った巨獣。
ユニコリザードは、逃げ場を失い、自分の服を擦り続ける少女を次の「獲物」として定めた。
巨大な影がミヤコを覆い、血に染まった鼻先が、彼女の白銀の髪に触れようとする。
「ミヤコーーーッッ!! 逃げろーーッッ!!」
遠くでジョゼクが、喉を引き裂くような叫びを上げた。
けれど、ミヤコの瞳には、ただ足元の泥と血が混ざり合った汚れしか映っていなかった。
死の予感が、鋭い牙の形をして、彼女に食らいつこうとしていた。




