第30話:空っぽの瞳と、温かなスープ
窓から差し込む朝の光は、あまりにも無慈悲なほどに澄み渡っていた。
雨上がりの柔らかな日差しが、部屋の隅に置かれた古びた棚や、磨き上げられた木の床を淡く照らし出している。
ミヤコがゆっくりと瞼を持ち上げたとき、最初に目に飛び込んできたのは、自分の家とは違う、高く、無機質な石と木造の天井だった。
(……ここは、どこ?)
寝返りを打とうとして、全身に鉛のような重みと鈍痛を感じる。
鼻を突くのは、大好きだった母の石鹸の匂いでも、父の書斎のインクの香りでもない。乾燥した薬草と、古い金属、そして微かな獣の脂が混じり合った、見知らぬ「生活」の匂いだった。
ふと、枕元に視線を向けたミヤコは、その瞬間に息を止めた。
そこには、泥で固まり、どす黒い沈殿物がこびりついた赤い色のリボンが置かれていた。
昨日まで、自分の髪を飾っていたはずの宝物。
それが今は、見るも無惨な「汚物」となって、そこにある。
昨日の記憶が、氷のような冷たさで脳裏を掠めた。
降りしきる雨。折れ曲がった馬車の車輪。泥の中に沈んでいく、両親の動かない体。
「……あ、あ……」
喉の奥から、ひきつったような声が漏れる。
ミヤコは震える手で、自分の服を見た。
(きたない。……わたし、すごく、きたない)
激しい嘔吐感がこみ上げ、ミヤコはふらふらとベッドを抜け出した。
裸足のまま外へ飛び出すと、冷ややかな空気が全身を包み込んだ。
地面は昨日の雨をたっぷりと吸い込み、あちこちに深い水たまりを作っている。
ピチャッ、と足裏に冷たい感触が伝わった瞬間、ミヤコは悲鳴を上げそうになった。
足の指の間に、粘り気のある泥が入り込んでくる。
それが、あの日見た両親の亡骸にこびりついていたものと同じに見えて、ミヤコはその場にへたり込んだ。
「……っ、嫌、嫌ぁ……! とれない、おちない……!」
ミヤコは必死に自分の足を両手で擦った。
けれど、擦れば擦るほど、手までもが泥に汚れ、不潔な茶色に染まっていく。
周囲の家々からは、楽しげな朝食の音や、子供たちの笑い声が聞こえてくる。けれど、今のミヤコにとって、それらの音は自分を拒絶する異音でしかなかった。
「おとうさま……おかあさま……どこなの……?」
小さな背中を丸め、泥だらけの手で顔を覆う。
世界中で自分だけが不浄な闇の中に置き去りにされたような絶望。
そこへ、背後から重厚な足音が近づいてきた。
「……こんなところで、何をやってる」
振り返ると、薪を抱えたジョゼクが、険しい顔で立っていた。
ミヤコは怯えたように後ずさろうとしたが、足元が滑り、再び泥の中へと手をついてしまう。
「こないで……! さわらないで! わたし、きたないの……不潔なのは、だめなの……っ!」
ジョゼクは何も言わず、大きな溜息をつくと、無造作にミヤコを抱き上げた。
「泥なんて、後で洗えば落ちる。……風邪をひくぞ。戻るぞ、お嬢ちゃん」
無骨な腕の温かさ。
けれど、ミヤコの心は、その温かささえも受け入れることが出来なかった。
ジョゼクの家のキッチンは、質素ながらも驚くほど清潔に整えられていた。
テーブルの上には、湯気を立てる野菜スープの入った皿が二つ置かれている。
ジョゼクはミヤコを椅子に座らせると、自身の顔をミヤコに正面から向けた。
彼は嘘をついて子供を慰めるような器用な真似はできない。彼の正直さが、彼に最も残酷な言葉を選ばせた。
「お父様たちは……? いつ、むかえにくるの?」
ミヤコの震える問いに、ジョゼクは視線を逸らさずに答えた。
「……気の毒だが、お前の両親はもう、いない。土に還ったんだ」
一瞬、部屋の中からすべての音が消失した。
土に還った。
その言葉が、ミヤコの頭の中で「あの泥だらけの光景」と結びついた。
大好きだった母の笑顔が、父の優しい手が、あの不潔な泥濘に呑み込まれ、溶けて消えてしまったのだという理解。
「うそ……うそ! 汚い土になんてなってない! お母様は、いつだって綺麗だったわ! 嫌……嫌ぁぁぁぁぁッ!!」
ミヤコが耳を塞ぎ、喉を引き裂くような叫びを上げた、その刹那だった。
ガォォォォォン……ッ!!
地響きのような重低音が、家全体を揺らした。
窓ガラスがガタガタと震え、棚に置かれた食器が音を立てて重なり合う。
ジョゼクの家の裏にある飼育場から、二十頭を超えるユニコリザードたちが、一斉に天を仰いで咆哮を上げたのだ。
それは、これまで数十年幻獣を扱ってきたジョゼクですら聞いたことのない、畏怖に満ちた叫びだった。
まるで、幼い少女の絶望に呼応し、その悲しみを世界に知らしめようとするかのような共鳴。
「なんだ……!? ユニコリザード共が、この子の泣き声に呼応するかのように……」
ジョゼクは、立ち上がったまま硬直した。
(信じられん。……言い伝えにある、幻獣と心を通わす『王の咆哮』のような……こんな小さな子供が……?)
ジョゼクの肌に、ちりちりとした魔力の波が触れる。それは弱々しいはずの五歳の少女から放たれている、底知れない力だった。
幻獣たちの共鳴が止み、部屋にはミヤコの小さなしゃくり上げる音だけが残された。
彼女は、自分の膝の上に置いた手を見つめたまま、動こうとしない。
「……さあ、スープが冷める。食べろ」
ジョゼクがスプーンを差し出したが、ミヤコは頑なに首を振った。
「……てが……きたない。きたないから、のめないの。……不潔なまま食べるなんて、許されません……」
その声は、震えながらも、一種の呪いのような強固な意志を秘めていた。
お母様から教わった「清潔であること」という規律。それが今の彼女にとって、崩壊した世界を辛うじて繋ぎ止める、唯一の糸口なのだ。
「……そうか。なら、綺麗にしてやる」
ジョゼクは立ち上がると、桶に温かいお湯を汲み、真っ白な清潔な布を浸した。
彼はミヤコの前に膝をつくと、彼女の小さな手を、大きな、節くれ立った手のひらで包み込んだ。
「……いいか、お嬢ちゃん。俺は獲卵屋だ。トカゲの卵を傷つけずに運ぶのが仕事だ。……いつも卵をきれいに洗ってるから、汚れを落とすのは得意なんだ」
ジョゼクは、ミヤコの指の一本一本を、驚くほど繊細な動きで拭い始めた。
爪の間に挟まった微かな泥、皮膚を汚していた不純物。
それらを丁寧に、慈しむように取り除いていく。
「……あ」
ミヤコの瞳に、ほんの一筋だけ、生きた者のまたたきが戻る。
ジョゼクの手は荒れていて、固い。けれど、その手によって汚れが落とされ心地よい。
「ほら、これでどうだ。……指の先まで、ピカピカだぞ」
拭い終わったミヤコの手は、朝の光を受けて白く輝いていた。
ミヤコは自分の手を何度も握り、それから初めてジョゼクの顔を真っ直ぐに見上げた。
「……きれい……」
「ああ、大丈夫、綺麗だ。……さあ、飲め」
ミヤコは震える手でスプーンを握り、ゆっくりと野菜スープを口に運んだ。
とろりと溶けた野菜の甘みと、温かな湯気が、凍りついていた彼女の喉を優しく解かしていく。
「……あったかい……」
ポタリ、と。
スープの中に、一粒の雫が落ちた。
「……おかわり、あるからな」
「……はい」
小さな返事。
山あいの静かな家で、ミヤコの新しい生活が始まった瞬間だった。




